熊本市島崎にある島田美術館です。
島田美術館は林に囲まれた静かな住宅地の中にあります。ここは宮本武蔵の研究と顕彰を続けた、故・島田真富氏のコレクションの保存と公開を目的にした私設の美術館です。
剣聖・宮本武蔵の肖像を始め、刀、鍔、書や絵画などの遺品を常設展示(3ヶ月ごとの展示品替え)している日本でも数少ない貴重な美術館です。武芸の達人だったばかりでなく、文人としても優れた武蔵の書画や彫刻などが数多く収められています。
武蔵は吉岡一門との戦いをはじめ、29才で佐々木小次郎と決闘する間、一度も勝負に負けたことがありませんでした。天下を周遊して、50才にして兵法を究め、五輪書、兵道鏡、独行道などを書き上げました。正保2年(1645)熊本の千葉城で62才の生涯に幕を閉じ弓削の里に葬られました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
島田美術館は林に囲まれた静かな住宅地の中にあります。ここは宮本武蔵の研究と顕彰を続けた、故・島田真富氏のコレクションの保存と公開を目的にした私設の美術館です。
剣聖・宮本武蔵の肖像を始め、刀、鍔、書や絵画などの遺品を常設展示(3ヶ月ごとの展示品替え)している日本でも数少ない貴重な美術館です。武芸の達人だったばかりでなく、文人としても優れた武蔵の書画や彫刻などが数多く収められています。
武蔵は吉岡一門との戦いをはじめ、29才で佐々木小次郎と決闘する間、一度も勝負に負けたことがありませんでした。天下を周遊して、50才にして兵法を究め、五輪書、兵道鏡、独行道などを書き上げました。正保2年(1645)熊本の千葉城で62才の生涯に幕を閉じ弓削の里に葬られました。
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熊本県熊本市花園にある本妙寺です。
中尾山(本妙寺山)中腹に建立されている日蓮宗の名刹で格式を誇っています。加藤清正の菩提寺で、本殿には加藤清正の父忠清を祀っています。
蛇の目の紋の入った巨大な仁王門をくぐると長い石畳の参道が続き、急勾配の石段をはさんで、信者から寄進された700もの石灯籠が並んでいます。
境内の宝物館には、加藤清正の遺品や加藤・細川家に関する文書、書画、工芸品等、国の重要文化財を含む約1,400点が収蔵、展示されています。
加藤清正の銅像は清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)から、さらに長い石段を登ったところに建っています。昭和10年、清正没後325年記念事業として銅像が建てられました。そのため長い石段も25段くぎりで300段になっています。太平洋戦争末期に金属供出で銅像は撤去されましたが、昭和35年に再建されました。眼下に美しい熊本市内が臨めます。
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中尾山(本妙寺山)中腹に建立されている日蓮宗の名刹で格式を誇っています。加藤清正の菩提寺で、本殿には加藤清正の父忠清を祀っています。
蛇の目の紋の入った巨大な仁王門をくぐると長い石畳の参道が続き、急勾配の石段をはさんで、信者から寄進された700もの石灯籠が並んでいます。
境内の宝物館には、加藤清正の遺品や加藤・細川家に関する文書、書画、工芸品等、国の重要文化財を含む約1,400点が収蔵、展示されています。
加藤清正の銅像は清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)から、さらに長い石段を登ったところに建っています。昭和10年、清正没後325年記念事業として銅像が建てられました。そのため長い石段も25段くぎりで300段になっています。太平洋戦争末期に金属供出で銅像は撤去されましたが、昭和35年に再建されました。眼下に美しい熊本市内が臨めます。
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熊本市古京町にある旧細川刑部邸です。
細川家最初の肥後藩主・三代忠利の弟、刑部少輔興孝が正保三年(1646)に二万五千石を与えられて興した武家屋敷です。建坪300坪を誇る邸内は当時のままに保存されており県重要文化財にも指定されています。
興孝は、延宝6年(1678)に子飼(現在の熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。その後元禄年間や宝永年間にも造作がおこなわれ一門としての格式を整えました。刑部家は代々「刑部」(ぎょうぶ)か「図書」(ずしょ)を名乗り、家禄一万石で活躍しました。
建坪約三百坪あり、蔵が付属した長屋門を入ると、唐破風の大玄関にいたります。ついで御客間から入側造りの表御書院、二階建の「春松閣」とつづき、一階は「銀之間」と呼ばれています。別棟は、書斎の付いた茶室「観川亭」、御宝蔵、台所があり、全国有数の上級式武家屋敷としての格式をもっています。
明治4年(1871)熊本城に鎮西鎮台が置かれ、城内の武家屋敷は城外に移るようにとの令が発せられたことから、同六年(1873)、刑部家当主興増は子飼に移り、下屋敷を本邸としました。熊本市では、平成2年度からの「ふるさとづくり特別対策事業」により三の丸の用地を取得し4年をかけて移築復原したものです。
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細川家最初の肥後藩主・三代忠利の弟、刑部少輔興孝が正保三年(1646)に二万五千石を与えられて興した武家屋敷です。建坪300坪を誇る邸内は当時のままに保存されており県重要文化財にも指定されています。
興孝は、延宝6年(1678)に子飼(現在の熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。その後元禄年間や宝永年間にも造作がおこなわれ一門としての格式を整えました。刑部家は代々「刑部」(ぎょうぶ)か「図書」(ずしょ)を名乗り、家禄一万石で活躍しました。
建坪約三百坪あり、蔵が付属した長屋門を入ると、唐破風の大玄関にいたります。ついで御客間から入側造りの表御書院、二階建の「春松閣」とつづき、一階は「銀之間」と呼ばれています。別棟は、書斎の付いた茶室「観川亭」、御宝蔵、台所があり、全国有数の上級式武家屋敷としての格式をもっています。
明治4年(1871)熊本城に鎮西鎮台が置かれ、城内の武家屋敷は城外に移るようにとの令が発せられたことから、同六年(1873)、刑部家当主興増は子飼に移り、下屋敷を本邸としました。熊本市では、平成2年度からの「ふるさとづくり特別対策事業」により三の丸の用地を取得し4年をかけて移築復原したものです。
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熊本市本丸にある熊本城です。
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。3つの天守閣、49の櫓、18の櫓門と29の城門を持つ堂々たる城郭です。武者返しと呼ばれる美しい曲線を描く石垣も見事です。
戦国初期、熊本城の前身の隈本城主は菊池一族の出田秀信でした。その後、鹿子木親員が隈本を治め、城氏に代わりました。豊臣秀吉の九州平定の後は佐々成政に与えられました。肥後一国の統治に失敗した成政は切腹させられ、天正16年(1588)加藤清正が城主になりました。
27歳の若武者、清正は、肥後国衆一揆で乱れ果てた領土を平定し、熊本市民に清正公(セイショコ)さんと今でも呼ばれ親しまれるほど偉業を成し遂げました。城下町の整備のほか、各河川の治水事業や干拓などを行い、神様としても祀られています。「隈本」が、現在の「熊本」に変わったのもこの時です。虎を退治したという朝鮮への出兵は入国4年後のだったそうです。
加藤清正の父、清忠は美濃齋藤氏に仕える武士でした。清正は、永禄5年(1562)尾張国愛智郡中村(現在名古屋市)に生まれ、同郷で親戚ともいわれる豊臣秀吉に仕えました。最初の戦功は天正9年(1581)の鳥取城攻めだったそうです。その後、幾多の戦で勇猛果敢に戦い武功をあげました。賤ヶ岳の戦いでは七本櫓の一人として全国に武勇を轟かせました。
熊本城は加藤清正以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。
しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火と折からの強い風にあおられて大・小天守閣をはじめ多くの櫓や建物を焼失してしまいました。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。焼け残った宇土櫓や東竹之丸の櫓群は国指定重要文化財になっています。
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日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。3つの天守閣、49の櫓、18の櫓門と29の城門を持つ堂々たる城郭です。武者返しと呼ばれる美しい曲線を描く石垣も見事です。
戦国初期、熊本城の前身の隈本城主は菊池一族の出田秀信でした。その後、鹿子木親員が隈本を治め、城氏に代わりました。豊臣秀吉の九州平定の後は佐々成政に与えられました。肥後一国の統治に失敗した成政は切腹させられ、天正16年(1588)加藤清正が城主になりました。
27歳の若武者、清正は、肥後国衆一揆で乱れ果てた領土を平定し、熊本市民に清正公(セイショコ)さんと今でも呼ばれ親しまれるほど偉業を成し遂げました。城下町の整備のほか、各河川の治水事業や干拓などを行い、神様としても祀られています。「隈本」が、現在の「熊本」に変わったのもこの時です。虎を退治したという朝鮮への出兵は入国4年後のだったそうです。
加藤清正の父、清忠は美濃齋藤氏に仕える武士でした。清正は、永禄5年(1562)尾張国愛智郡中村(現在名古屋市)に生まれ、同郷で親戚ともいわれる豊臣秀吉に仕えました。最初の戦功は天正9年(1581)の鳥取城攻めだったそうです。その後、幾多の戦で勇猛果敢に戦い武功をあげました。賤ヶ岳の戦いでは七本櫓の一人として全国に武勇を轟かせました。
熊本城は加藤清正以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。
しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火と折からの強い風にあおられて大・小天守閣をはじめ多くの櫓や建物を焼失してしまいました。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。焼け残った宇土櫓や東竹之丸の櫓群は国指定重要文化財になっています。
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佐賀県佐賀市諸富町大字為重にある筑後川昇開橋です。
筑後川昇開橋は国鉄佐賀線の鉄道橋梁として建設され、昭和10年(1935)竣工、同年5月25日に開業しました。橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のもので国の重要文化財に指定されています。
橋の全長は507m、中央部は高さ30mの2本の鉄塔に沿って23mの高さまで水平昇降をすることができます。開通当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれ話題を呼んだそうです。
昭和62年(1987)3月、佐賀線の廃止とともに役目を終えました。筑後川のシンボルを存続させようと近隣住民の熱意が実り、平成8年(1996)遊歩道として蘇りました。
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橋の全長は507m、中央部は高さ30mの2本の鉄塔に沿って23mの高さまで水平昇降をすることができます。開通当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれ話題を呼んだそうです。
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佐賀県佐賀市松原にある松原神社です。
松原神社は安永元年(1772)、鍋島家の始祖鍋島直茂を祀る神社として創建され、直茂の法号から日峯(にっぽう)大明神(日峯宮)と称しました。現在も「日峯さん」と呼ばれ信仰されています。
文化14年(1817)に直茂の祖父である清久と直茂の公室の彦鶴姫を合祀しました。明治5年(1872)、初代藩主の勝茂を合祀し、「松原神社」と改称しました。
明治6年(1873)本殿の北と南に新たに神殿を造営し、南殿に10代藩主鍋島直正を、北殿に鍋島氏以前に佐賀を治めていた龍造寺家の隆信、政家、高房を祀りました。大正12年(1912)南殿に、2年前に歿した11代藩主鍋島直大を合祀しました。
昭和8年(1933)に佐嘉神社が造営され、南殿の鍋島直正の霊を遷座しました。そして昭和23年(1948)、南殿の鍋島直大の霊も佐嘉神社に遷座しています。昭和36年(1961)佐嘉神社と松原神社は運営を一本化しています。
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文化14年(1817)に直茂の祖父である清久と直茂の公室の彦鶴姫を合祀しました。明治5年(1872)、初代藩主の勝茂を合祀し、「松原神社」と改称しました。
明治6年(1873)本殿の北と南に新たに神殿を造営し、南殿に10代藩主鍋島直正を、北殿に鍋島氏以前に佐賀を治めていた龍造寺家の隆信、政家、高房を祀りました。大正12年(1912)南殿に、2年前に歿した11代藩主鍋島直大を合祀しました。
昭和8年(1933)に佐嘉神社が造営され、南殿の鍋島直正の霊を遷座しました。そして昭和23年(1948)、南殿の鍋島直大の霊も佐嘉神社に遷座しています。昭和36年(1961)佐嘉神社と松原神社は運営を一本化しています。
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佐賀県佐賀市松原にある佐嘉神社です。
佐嘉神社は佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀っています。直正歿後の明治6年(1873)威徳を賛え、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営し祀り、昭和8年(1933)にこの佐嘉神社を造営し直正の霊を遷座しました。また昭和23年(1948)には松原神社南殿に祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀しました。
直正は西洋文明をいち早く取り入れ、我が国初の様式反射炉を造営して近代大砲を造りました。貧農救済と藩財政の建て直しに尽力し、大隈重信・江藤新平らの人材を育成しました。直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年(1869)には版籍奉還を申し出ました。
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佐嘉神社は佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀っています。直正歿後の明治6年(1873)威徳を賛え、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営し祀り、昭和8年(1933)にこの佐嘉神社を造営し直正の霊を遷座しました。また昭和23年(1948)には松原神社南殿に祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀しました。
直正は西洋文明をいち早く取り入れ、我が国初の様式反射炉を造営して近代大砲を造りました。貧農救済と藩財政の建て直しに尽力し、大隈重信・江藤新平らの人材を育成しました。直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年(1869)には版籍奉還を申し出ました。
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佐賀県佐賀市水ヶ江にある大隈記念館です。
大隈記念館は大隈重信の誕生125年を記念して、昭和42年(1967)10月に開館しました。明治から大正時代にかけての偉大な政治家であり、早稲田大学の創設者としても有名です。ここでは彼にまつわる歴史資料を数多く展示しています。建物は早稲田大学名誉教授今井兼次博士のデザインによる鉄筋コンクリート造り2階建てで、重信のどっしりして動かない姿をイメージしているそうです。
大隈重信は明治新政府の参議、大蔵卿などを歴任、明治14年(1881)の政変で下野し、翌年立憲改進党を組織して総裁になりました。明治21年(1888)黒田内閣の外相となり不平等条約改正に尽力しました。
明治22年(1889)国家主義組織玄洋社の来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失いました。明治31年(1898)、大正3年(1914)と2度政党内閣を組織して総理大臣に就任しました。
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大隈重信は明治新政府の参議、大蔵卿などを歴任、明治14年(1881)の政変で下野し、翌年立憲改進党を組織して総裁になりました。明治21年(1888)黒田内閣の外相となり不平等条約改正に尽力しました。
明治22年(1889)国家主義組織玄洋社の来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失いました。明治31年(1898)、大正3年(1914)と2度政党内閣を組織して総理大臣に就任しました。
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佐賀県佐賀市水ヶ江にある大隈重信生家です。
大隈重信は、佐賀鍋島藩士、大隈重伴の嫡男として天保9年(1838)2月16日に生まれました。重信が生誕したこの生家は天保以前の武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されています。
大隈重信生家は佐賀地方に多い「かぎ屋造り」で一部平屋茅葺きに一部2階建ての瓦葺きとなっています。2階は重信のために母親が建て増したそうです。
庭園には政治家・波多野敬直の筆による「大隈重信侯の誕生地」の記念碑が建っています。生家から庭を隔てた東側に大隈記念館があります。
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大隈重信生家は佐賀地方に多い「かぎ屋造り」で一部平屋茅葺きに一部2階建ての瓦葺きとなっています。2階は重信のために母親が建て増したそうです。
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佐賀県佐賀市城内にある佐賀城です。
佐賀城は佐賀藩35万7千石の藩主鍋島氏の居城で佐嘉城、沈み城などとよばれました。沈み城とは城が樹木の中に沈み込んで見えることや、幾重にも巡らした外堀を、攻撃にあった時は主要部以外は水没させる仕組みになっていたことから名付けられたそうです。
佐賀城のもとになった城は龍造寺氏が居城としていた村中城でした。九州北部に勢力を構えていた龍造寺隆信は天正12年(1584)島津・有馬連合軍に敗れ戦死してしまいました。それ以後龍造寺家臣であった鍋島直茂が実権を握り、佐賀県の大半を領有し慶長7年(1602)本丸の改修に着手しました。
慶長16年(1611)2代藩主鍋島勝茂が直茂の縄張に従って完成させました。5層の天守閣の下には幅80mにも及ぶ広大な内堀が造られました。
享保11年(1726)佐賀城は大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半が焼失してしまいました。天保6年(1835)の火災では政務を行なっていた二の丸が焼失したため本丸を再建しそこで政務を行ないました。しかし天守は享保の火災以後再建されませんでした。
明治7年(1874)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に占拠され、戦闘の際に建造物の大半を失なってしまいました。唯一焼失を免れた鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っています。
鯱の門は二重二階の櫓門で一重二階の続櫓と石垣の上で接続しています。屋根は本瓦葺き入母屋造りで、棟の両端に青銅製の鯱が載っています。この城門と櫓は国の重要文化財に指定されています。
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佐賀城は佐賀藩35万7千石の藩主鍋島氏の居城で佐嘉城、沈み城などとよばれました。沈み城とは城が樹木の中に沈み込んで見えることや、幾重にも巡らした外堀を、攻撃にあった時は主要部以外は水没させる仕組みになっていたことから名付けられたそうです。
佐賀城のもとになった城は龍造寺氏が居城としていた村中城でした。九州北部に勢力を構えていた龍造寺隆信は天正12年(1584)島津・有馬連合軍に敗れ戦死してしまいました。それ以後龍造寺家臣であった鍋島直茂が実権を握り、佐賀県の大半を領有し慶長7年(1602)本丸の改修に着手しました。
慶長16年(1611)2代藩主鍋島勝茂が直茂の縄張に従って完成させました。5層の天守閣の下には幅80mにも及ぶ広大な内堀が造られました。
享保11年(1726)佐賀城は大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半が焼失してしまいました。天保6年(1835)の火災では政務を行なっていた二の丸が焼失したため本丸を再建しそこで政務を行ないました。しかし天守は享保の火災以後再建されませんでした。
明治7年(1874)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に占拠され、戦闘の際に建造物の大半を失なってしまいました。唯一焼失を免れた鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っています。
鯱の門は二重二階の櫓門で一重二階の続櫓と石垣の上で接続しています。屋根は本瓦葺き入母屋造りで、棟の両端に青銅製の鯱が載っています。この城門と櫓は国の重要文化財に指定されています。
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佐賀県佐賀市与賀町にある与賀神社です。
与賀神社は佐賀城跡の西側にある神社で豊玉姫命(とよたまひめのみこと)他、7柱を祀っています。創建は欽明天皇26年(6世紀)と伝えられています。
鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦2年(1212)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245)執権北条経時が勅を奉じて祭祀の礼式を定めたと伝えられています。現在の社殿は宝暦8年(1758)に鍋島宗教・重茂が造営し、佐賀城の鎮守になっています。
朱色の楼門は、入母屋造り、屋根は入母屋造りで当初柿葺で、その後銅板葺屋根に改められ現在に至っています。正面3間、側面2間の礎石建物です。室町後期の建物で、大正2年国宝に指定され、改めて昭和25年国の重要文化財に指定されました。 佐賀県内では最も古い木造建築物です。
慶長8年(1603)に造られた三の鳥居、慶長11年(1606)建造の石橋も、国の重要文化財に指定されています。また境内の大クスノキは県の天然記念物に指定されています。
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鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦2年(1212)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245)執権北条経時が勅を奉じて祭祀の礼式を定めたと伝えられています。現在の社殿は宝暦8年(1758)に鍋島宗教・重茂が造営し、佐賀城の鎮守になっています。
朱色の楼門は、入母屋造り、屋根は入母屋造りで当初柿葺で、その後銅板葺屋根に改められ現在に至っています。正面3間、側面2間の礎石建物です。室町後期の建物で、大正2年国宝に指定され、改めて昭和25年国の重要文化財に指定されました。 佐賀県内では最も古い木造建築物です。
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