講義をしているとき、自分の講義を自分で聴いていることがある。たんに自分の声が聞こえているということではない。話し手としての自分の他に、もう一人、聞き手としての自分がいて、しかも後者の方に意識の重心が置かれているという状況だ。「ああ、何かしゃべっているな、この人」と。これはあまりいい兆候とはいえない。なぜなら、それは一生懸命しゃべっているときには決して起こらない現象であるからだ。平たく言えば、講義に身が入っていないのである。ここには大別すると2つの要因が働いている。
第一は、外的な要因。机に突っ伏して居眠りをしている学生や、授業が終盤にさしかかってから教室に入ってくる学生がいると、その出現頻度に応じて、私は授業に身が入らなくなる。どういう育て方をすればこういうマナーの悪い人間が出来上がるのかと考え、親の顔が見てみたいものだと思い、いや、待てよ、もしかして私の娘もそちらの大学で同様のことをしているのではないか、ま、まさか、私の娘に限って…、と心が千々に乱れ始めるのである。
第二は、内的な要因。講義内容が自分自身にとって面白いと感じられないと、その程度に応じて、私は授業に身が入らなくなる。原則として私は自分が面白いと思えることしか授業で話さない。しかし何度か同じ話をしていると、当初は面白かった話もそうではなくなってくる。自分で自分の話に飽きてしまうのだ。では、別の話に差し替えればいいじゃないかと人は思うだろうけれど、別の話を準備するのはけっこう大変だし、それになにより自分にとっては同じ話でも学生からすれば初めて聞く話であるわけだから、それをお蔵入りにしてしまうのはもったいない…、となかなか踏ん切りがつかないのである。
ああ、もう一つの要因を忘れていた。湿気である。高温多湿のいまの時期が、私は一年中で一番苦手である。湿度が一度上がるごとに、授業のテンションが一目盛り下がるのである。前期の授業終了まで残り2週間。持ちこたえてくれ、私の気持ち。
第一は、外的な要因。机に突っ伏して居眠りをしている学生や、授業が終盤にさしかかってから教室に入ってくる学生がいると、その出現頻度に応じて、私は授業に身が入らなくなる。どういう育て方をすればこういうマナーの悪い人間が出来上がるのかと考え、親の顔が見てみたいものだと思い、いや、待てよ、もしかして私の娘もそちらの大学で同様のことをしているのではないか、ま、まさか、私の娘に限って…、と心が千々に乱れ始めるのである。
第二は、内的な要因。講義内容が自分自身にとって面白いと感じられないと、その程度に応じて、私は授業に身が入らなくなる。原則として私は自分が面白いと思えることしか授業で話さない。しかし何度か同じ話をしていると、当初は面白かった話もそうではなくなってくる。自分で自分の話に飽きてしまうのだ。では、別の話に差し替えればいいじゃないかと人は思うだろうけれど、別の話を準備するのはけっこう大変だし、それになにより自分にとっては同じ話でも学生からすれば初めて聞く話であるわけだから、それをお蔵入りにしてしまうのはもったいない…、となかなか踏ん切りがつかないのである。
ああ、もう一つの要因を忘れていた。湿気である。高温多湿のいまの時期が、私は一年中で一番苦手である。湿度が一度上がるごとに、授業のテンションが一目盛り下がるのである。前期の授業終了まで残り2週間。持ちこたえてくれ、私の気持ち。