フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月5日(水) 雨

2006-07-06 04:00:52 | Weblog
  梅雨らしい一日だった。お中元の礼状をポストに出しに行った以外は、ずっと自宅で過ごす。原稿へのコメントをメールで送り、委員会へ提出する報告書を作成し、大学院の演習の課題文献(新村拓「文化としての老人介護」)を読む。これが今日の主要な仕事。
  合間に、山崎正和『社交する人間』を読む。これがとても面白い。後期の一・二文合併授業「現代人の精神構造」か来年度の新学部のブリッジ科目「現代人間論系総合講座1」の参考文献に指定しようかしら。序章(社交への飢餓)で、エドワード・オルビーが1960年に書いた戯曲『動物園物語』が取り上げられていて、その粗筋が紹介されている。

  「身なりもこざっぱりと、木陰のベンチで本を読むピーターは、妻と二人の娘を持つ典型的な小市民である。ニューヨークの東七〇丁目という高級アパート街に住んで、数匹の猫とつがいのインコを飼って暮らしている。一方、そこへ通りかかったジェリーはバスケットシューズにブルージーンズ姿、落ち着きのない貧乏ゆすりをしながら、鼻にかかった品の悪い英語で問いかける。迷惑そうに、しかし礼儀正しくピーターがありきたりの答をすると、ジェリーは言葉尻をとらえてやつぎ早に不躾な質問を浴びせるのである。『子供は二人しか生まないの?』『生まれないのはあんたのせいじゃなくて、ほんとは奥さんが嫌がるからじゃないの?』」

  これは社会学者ガーフィンケルのやった違背実験と似ている。通常の文脈ではありえない受け答えをすることで相手を混乱させ、日常の相互作用において人々が暗黙のうちに依拠しているルールを明るみに出す実験である。ちなみにジェリーがピーターにした最初の問いかけは「動物園で何が起こったか知っていますか」だ。

  「『ときどき誰かとむしょうに話がしたくなるんです。誰かと友達になりたくて』。そう言いながらジェリーは一方的に、憑かれたように自分の淋しさをえんえんと語り続ける。数十分がたち、辛抱強いピーターもようやくうんざりして、『私にはあなたの言うことはわからない』と立ち去ろうとする。『インコに餌をやる時間だし、猫たちも待っている』。するとそのとたん、ジェリーはにわかに狂暴な表情を浮かべてピーターに襲いかかる。顔を殴り首を絞め、足もとめがけて刃を開いた飛び出しナイフを投げつける。陵辱に混乱したイーターが思わずナイフを拾い上げた瞬間、『こうなるのを待っていたんだ』と叫んで、ジェリーはその刃先にみずから身を伏せるのである。『ありがとうピーター、これでよかった。ありがとう。とても心配だったんだ。あんたがおれを捨てて行ってしまうんじゃないかと思って』。立ちすくむピーターの足もとで、瀕死のジェリーはふしぎな微笑を浮かべて顔をあげる。『なあ、わかっただろう。これがあの、動物園で起こったというできごとだったんだよ』。殺し殺されるというのっぴきならない関係が、二人の見知らぬ男を逃れがたく結びつけた瞬間に、芝居の幕がおりる。」

  いわゆる不条理劇である。かわいそうなピーターは、訳が分からないままに殺されるのではなく、訳が分からないままに殺人者にされてしまうのである。しかし山崎は『動物園物語』を不条理劇というありきたりのカテゴリーに放り込んでしまわない。

  「彼が要求しているのは、いわば目的のない会話であり、欲望をともないわない人間同士の関心であり、限られた場所と時間の中での軽やかな人間関係である。午後の公園のベンチに並んで、『動物園で何が起こったか』を語りあう関係である。そこに異常さがあるとすれば、彼がそんなささやかな接触に死ぬほど飢え、そのために現に命を懸けたということだけだろう。たしかにジェリーの行動は狂気じみているし、その異様さがこの芝居を難解にして、いわゆる「不条理劇」に数えさせてきたのも事実である。だが子細に見て、彼の内面の要求だけを取りあげて観察すれば、そこには異常と呼ぶべきものは何一つない。『友達がほしい』『誰かとむしょうに話がしたい』というのは、平凡なすべての人間の持つ欲望であり、常識が「社交」の欲望と名づけているものに過ぎないからである。
  (中略)
  一見、奇怪な解釈だが、ジェリーはひょとすると無意識のうちに社交の理念に殉じ、それが軽視されることに抗議して死んだのかもしれない。たかが社交のためになぜ死ぬのかという疑問にたいして、まさにその疑問の通俗性を憎んで死んだのかもしれない。一方に都市の無関心の砂漠が広がり、他方に無数の小市民の排他的な家庭が貝のように閉じているのが、現代である。…(中略)…両者の中間に社交というもう一つの関わりかたがあり、それは命を賭するに値するものだということを人びとが忘れ去って久しい。互いに口も聞かずに顔を見ない茅屋の隣人を憎み、同時に中産階級の暖かい家庭を蔑む放浪者は、それと知らずにその中間にあるはずのものを求めていたのではないだろうか。」

  私は、この下りを読んで、「これだ!」と思った。私が来年度から所属する文化構想学部とは文字どおり「文化を構想する学部」なわけだが、それは一体いかなる文化なのかと言えば、少なくともその一つは「社交の文化」なのではないか、と閃いたのである。
  文化とは行為規則である。これまで都市の公共空間における代表的な文化は社会学者ゴフマン言うところの「儀礼的無関心」であった。しかしさらなる都市化は「儀礼的無関心」を「ただの無関心」へ、自他の自我を尊重するが故の無関心(の振り)ではなく他者に対する正真正銘の無関心へと変容させてきた。従来の社会学なら、ここで話は終わる(ちょっと困ったような顔でもしてみせればそれでいい)。
  しかし、文化構想学部の現代人間論系のスタッフとしてやっていくのであれば、話をここで止めるわけにはいかない。他者との相互作用を回復するための新たなる文化(行為規則)の構想に取り組まねばならない。それはたとえば、「動物園で何が起こったか知っていますか」といった相手を混乱させるような問いかけではなく、相互作用が自然に回転を始めるような問いかけを開発するということである。「社交」の欲望を喚起させる必要はない。それは十分に存在している。必要なのは「社交」の技法、すなわち文化なのである。
  …といったようなことを、居間のソファーで『社交する人間』を読みながら考えているところへ、娘が大学から帰宅したので、おい、この本、面白いぞ、と言って渡したところ、「エドワード・オルビーの『ズー・ストーリー』なら知っている」と答えたので驚いた。なんでもちょっと前に大学の授業で読んだのだそうだ(娘は英文学科の学生)。そ、そうなのか。「『動物園物語』って訳すの、どうかと思う。なんだかムツゴロウ博士の番組みたいで、かわいらしい」。そ、そうだな、『動物園での出来事』とか『動物園で起こったこと』あたりがいいかもしれないな。私はせっかく盛り上がっていた気持に水を差さされつつも、娘もこれでけっこう勉強しているんだなと思った。