フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

10月8日(木) 晴れ、強風

2009-10-09 01:26:30 | Weblog

  7時、起床。台風は愛知に上陸して内陸部を北上中。東京は天気はよいが、風が強い。あちこちで電車が止っている。昨日の時点で1、2限の授業は休講と決まっていたが、午前中に3限の休講が、午後1時半ごろ4限以降の休講も決まった。私は今日は3限と6限に授業があって、6限はさすがにやるだろうと思っていたので、休講の知らせに驚いた。天気はいいが交通機関の乱れが回復していないのだろう。文学研究科の紀要の原稿の事務所提出の締め切りが今日だったのだが、事務所に電話をしてメールで送る。大学との往復の時間が節約できたので、まだ日も明るいことだし、自転車に乗って池上へ行く。「甘味あらい」で贅沢あんみつを食べ、本門寺の境内を散歩した。


台風一過

  境内を歩いていたら、小学生と思しき少年2人に声をかけられた。「この子が500円を落としてしまったんだけど、みませんでしたか?」という。「どのへんで落としたんだい」と聞くと、わからないという。ズボンのポケットに500円硬貨を入れて、境内をゴロゴロころがって遊んでいたら、気づいたらなくなっていたいたのだという。そういえば最近子どもらしからぬ泥だらけの服を着ている。「最後に500円を確認したのはどこだい」と尋ねたら、お線香を買ったときだという。本堂の前にお線香を供えるところがある。「お線香を供えるなんて感心だな。だったらいいことがあってもいいのにな」と私が言うと、「お母さんが病気なの」という。「えっ」と私が驚くと、「治らない病気なの」と重ねていう。ふ~む、と私はここにいたって、これは物乞いの芝居であることに気がついた。昭和20年代の東京にはこういう子どもがたくさんいた。通りすがりの大人たちに手当たり次第に声をかければ、10人に1人くらいは、かわいそうにと500円をめぐんでくれるかもしれない。けっこうな稼ぎになる。お線香と不治の病の母親の組み合わせは、子どもが考えたものとは思えない。子どもに物乞いをさせている大人が背後にいるということだ。「スラムドッグ$ミリオネア」の世界である。戦後64年、貧困というものが都会の風景の中に再び姿を現してきたようだ。もっとも、私は憤ってはいなかったし、不愉快な感情もなかった。むしろこのストリート・チルドレンならぬ境内少年にある種のたくましさを感じていた。私が感慨に耽っていると、少年たちは私に見切りをつけて、やさしそうなおばあさんに、「500円落ちてませんでしたか?」と声をかけていた。