フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月27日(火) 晴れ

2011-12-28 02:34:46 | Weblog

  8時半、起床。体重計に乗ったら昨日より400グラム減っていた。昼食を野菜サンドにした効果である。今日も昼食は麺かパンにしよう。ピーマンの炒め、大根と卵の味噌汁、ご飯の朝食。

  午後、竹橋の東京国立近代美術館は今日が年内最後の開館日なので、かねてより観たいと思っていた「ぬぐ絵画 日本のヌード1880-1945」展を観に行く。裸体を描き、それを公の場で鑑賞するというという行為は、西洋から入ってきたもの。裸体を描くというだけなら、すでに浮世絵の伝統があったが、それは典型的には「枕絵」として、つまり私的な空間で人目を忍んで鑑賞されるものであった。日本の近代の画家たち、そして社会が西洋流の裸体画をどう受容していったのか、それを検証する企画展である。

  例によって、黒田清輝が導入期の権威として設定されている。黒田は西洋流の裸体画をその理念ともども日本に広めようとした。その理念とは、第一に、裸体画はモデルの身体をリアルに描くものではなく、人間の身体の理想的な美を描くものであるということ。第二に、理想的な美を描くにあたっては、エロティックなまなざしは排除すること。これはかなり無理のある考え方であると思うが、現代にもこうした考え方は残っている。たとえば、女性が女性のヌード写真を見て、「きれいで、いやらしくない」として賞賛することがあるが、これはまさに黒田清輝的な見方である。「きれい」かどうか(美の軸)と「いやらしい」かどうか(エロスの軸)は直交しているから、「きれい」でかつ「いやらしい」写真というのは存在する。私にはそれはとても魅力的な写真なのだが、黒田清輝的にはNGなのである。黒田が裸体画の理念を実現するためにとった手法は、理想的な美を描くことに関しては、今回の展示会のポスターにもなっている「智・感・情」(1889年)の女性における「八頭身」であり、エロティックなまなざしの排除に関しては、裸婦を横たわらせない、性器や陰毛を描かないといったことであった。

  こうした手法は若い世代の画家たちには窮屈なものに感じられたであろう。やがて黒田に反抗する者たちが現われることになる。萬鉄五郎はその一人であった。有名な「裸体美人」(1912年)は、ある点では黒田に従い(腰から下は布で被われている)、ある点では黒田に半分従い半分逆らい(裸婦は画面では縦に描かれているものの、草の上に横たわっている)、ある点で黒田に逆らっている(腋毛が描かれている)。この絵の下図にあたるものが何枚か展示されていたが、下図の段階では、腋毛は描かれていなかった。最終段階で加えられたものなのである。この作品は東京美術学校における彼の卒業制作なのだが、最後の最後で彼は黒田に逆らったわけである。ちなみに彼の成績は19名中の16番であった。

  昼食は神楽坂の蕎麦屋「志な乃」で鍋焼きうどん。先週の木曜日に初めて来て気に入った店であるが、やはり汁が少々甘く感じられる。次はうどんではなく、蕎麦(せいろ)を注文してみよう。

  前回と同じく、食後の甘味は「紀の善」の田舎しるこ。今回はあんみつを注文しようと頭では考えていたのだが、寒いので、どうしても温かいものを注文してしまう(「志な乃」に入るときも頭では野菜天せいろを注文しようと考えていたのである)。

  おしるこを食べ終わって、お茶のお替りをいただきつつ、この一年を振り返ってみた。失ったものや損なったもの、新たに得たものや強まったもの、バランスシートを考えみた。どちらの項目も例年よりたくさんのものがあがった。密度の濃い一年であった。一つの出来事を経験として自分の中で消化する前に次の出来事がやってきた。そうした連鎖が一年続いた感じがする。

  店を出る前に、卒業生のMさんにメールをして、体調を尋ねた。帰りの電車の中で返信のメールを受ける。元気にやっていますとのこと。よかった。

  あと数日で今年が終る。しかし、何もかもがちゃらになって、ゼロから始まるわけではない。失ったものを取戻し、損なってしまったものを修復し、新たに得たものを大切にして日々を生きていくということ。そういう覚悟で新年を迎えるということ。

 

去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの  高浜虚子