フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月24日(火) 曇りのち晴れ

2015-11-26 14:08:23 | Weblog

7時半、起床。

9時に蒲田駅前のMS銀行に行き、相続の手続きを済ませる。ここが銀行の中で一手続きが面倒だった。今日も改めて印鑑証明が必要といわれ、「その必要はないはずです」と少しきつめの口調で文句をいったら、上司に相談に行って、「すみません。必要ありませんでした」となった。やれやれ。

自宅に戻って仕事をしていたら、11時過ぎに、ゼミ生のOさんからメールが届き、「11時からゼミ論指導のお約束をしていたはずですが・・・」と書いてある。どうやら研究室の前からメールをくれたようである。あれれ?! 数日前のメールをチェックすると、確かにそうなっている。私が明日の11時と勘違いしていたのだ。ごめん、ごめん。本日の午後2時に改めて設定する。

昼前に家を出て、大学へ。

1時からYさんのゼミ論指導。

2時からOさんのゼミ論指導。

3時過ぎに卒業生のあやさん(一文文芸、1998年卒)が研究室にやってきた。ずいぶんと久しぶりの再会である。

ずっと出版関係の仕事をされていて、いまはご主人の仕事の関係で大垣にお住まいになっているが、今日は何かのイベントがあり、早稲田に来られたそうだ。

あやさんは私の本、『きみたちの今いる場所』(研究社、2000年)の担当編集者だった。在学中は専修が違うこともあって、私の演習の学生ではなかったが、大教室で聴いた私の講義が印象的だったようで、出版社に入ってから2年目に「大久保先生の本を出版させてください」とメールを送ってきた。私が教室で話していたような内容を中高生向きにアレンジして(講義+Q&Aの形式)本にしたいとのことだった。新米社員の企画がよく通ったものだが、彼女の頑張りで、なんとか彼女の企画は本の形になった。その後、高校生のときにこの本を読んで早稲田に進むことに決めましたという学生が何人か私の前に現れることになった。私にとっても思い出深い本である。

スロープで事務所の方に写真を撮っていただいた。

「カフェゴト―」でお茶をする。

あやさんのお好きなチーズケーキとタルトタタンをハーフ&ハーフで。

彼女はいたく感激していたが、、たぶん、私でなくても、誰でもお願いすれば応じてもらえると思いますよ。

「また先生に本を書いていただきたいです」というので、今度の読者は誰ですかと聞いたら、「いまの中高生向きに」というので、中高生向きもいいけど、一度書いているから、今度はあなたのようなアラフォー世代に向けて書いてみたいですね、と答えておく。

また東京に出てこられることがあったら顔を見せに来て下さい。

5時から3年生のKさんの卒業研究の仮指導。これから1年と1カ月かけて取り組んでもらいます。

6時に大学を出る。

「あゆみブックス」で以下の本を購入。

 スティーブン・ミルハウザー(柴田元幸訳)『ある夢想者の肖像』(白水社)

 村上春樹『ラオスにいったい何があるというのですか? 紀行文集』(文藝春秋)

 スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)『マイ・ロスト・シティー』(村上春樹翻訳ライブラリー、中央公論新社)

 東海林さだお『メンチカツの丸かりじ』(朝日新聞出版)

 荒川和久『結婚しない男たち-増え続ける未婚男性「ソロ男」のリアル』(ディスカバー携書)

 牛窪恵『恋愛しない若者たちーコンビニ化する性とコスパ化する結婚』(同上)

6時半に「SKIPA」で卒業生のAさんと会う。Aさんは一足先に着いて、のんちゃんとおしゃべりをしていた。

Aさんは事情により写真はNGなので、代わりに(?)、ヘアスタイルを変えたのんちゃんの写真を載せておきます(笑)。

私は定食、Aさんはチキンカレーとビール。飲まないとやってられないことがおありのようである(笑)。

食後のお茶は場所を隣に移して「トンボロ」で。私はコーヒー(Aブレンド)、Aさんはチャイ(「SKIPA」からの出前になる)。 

私はもう少し何か食べたかったので、クロックムッシュを注文した。

Aさんはいまキャリアの転換の時機にいるようである。期待されることとやりたいことのズレが問題なのだが、それだけではなくて、職場からの期待と家族からの期待のズレ、やりたいこととやれることのズレ、そして人生の残り時間に敏感になっていることからくる焦燥感(いわゆるラストチャンス・シンドローム)、そうしたことが総合的に作用して人生そのものの転機を誘発しそうな状況なのである。

「SKIPA」と「トンボロ」に滞在していた2時間ほどの間に、Aさんは笑顔と溜息の間を何度も往復した。こういう時機には何かを決断しない方がいい、というのが私からのアドバイスである。「やれやれ」と呟きながら日々を送っていれば、つらい現実とも何らかの折り合いがつくはずである。人間の適応力というのは馬鹿にしたものではない。しかし、それでも折り合いがつかないときは、構造的なズレを解消する(あるいは極小化する)ための何らかの「決断」が必要となるでしょう。