文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚ーブルース167 Frank Floyd

2024年12月17日 | わたしのレコード棚
 フランク・フロイド(Frank Floyd)は、1908年10月11日にミシシッピー州Toccopola生まれの、白人ブルースマン。亡くなったのは、1984年8月7日オハイオ州Blanchesterだった。

 一般的な認識として、ブルースは、奴隷として連れてこられた黒人達がアフリカ起源の音楽を基にアメリカで生まれたたもの、ということだろう。が、ごく初期に録音されたブルースを聴くと、マウンテンミュージックと言われるようなアイルランド移民が持ち込んだ音楽にかなり近いものを感じる。わたし個人としては、アフリカ起源の音楽とアイルランド起源の音楽が相互に影響し合って生まれた、と認識している。その後枝分かれし、一方はブルースに、もう一方はジミー・ロジャースを代表とするヒルビリーと呼ばれるような音楽になりカントリーソングやフォークソングになってゆく。
 ブルース好きな人と話していると、時にカントリー音楽を揶揄する人もいる。が、個人的には認識の誤りを感じるし、歴史的な録音を聴いていないな、とも感じる。ルイジアナ出身の黒人ブルースマン、ヒューディー・レッドベターなどは、「Goodnight Irene」の様なマウンテンミュージックに近いレパートリーを持っていた人だったのだ。


 Memphis International RecordsというレーベルのCD『The Missing Link』DOT0201。この人は、別名「ハーモニカ・フランク Harmonica Frank」とも呼ばれ、ヴォーカル・ギターだけでなくハーモニカ演奏にも長けた人だった。

 今の感覚からいうと、ブルースよりも民衆の音楽という意味でのフォーク・ソングに近く、ウッディ・ガスリーを彷彿とさせる曲もある。多くは自作曲で、1979年5月頃のメンフィスでのライブやスタジオでの録音を編集して、17曲を収録している。バラッド( ballads)と呼ばれる物語性を持った曲もある。日本民謡の「口説き節(くどきぶし)」にあたるが、現代の音楽に比べて、とても言葉が豊かだなあ、と感じる。
 「ミッシング・リンク Missing Link」というのは聞きなれない言葉だ。少し調べてみたところ、連鎖しているはずの部分が欠如していること、らしく、遺伝学などで使われるらしい。あるいは、音楽の歴史を知る上で当然存在しているはずのものなのに、欠けているかのように知られずに来たミュージシャン、という思いが込められているのかもしれない。「ブルースは黒人のもの」という先入観なしに聴いてみたい録音である。

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わたしのレコード棚ーブルース166 Robert Cray

2024年12月10日 | わたしのレコード棚
 ロバート・クレイ(Robert Cray)は、1953年8月1日ジョージア州コロンバスに生まれ、生後11ヶ月で軍人だった父親の転勤のため西部ワシントン州タコマへ移住したという。彼の音楽はブルース・ソウルという枠から出て、自由奔放さを感じるが、あるいは西海岸の都市で成長期を過ごしたことに遠因があるのかもしれない。1974年に自己のバンドを結成。アルバート・コリンズのバックなども務めている。今年2024年で71歳ということになるが、すでにブルースの殿堂入りを果たしており、現役の優れたギタリスト・ヴォーカリストである。ギタリストとしての評価が高いので、どうしてもギターのテクニックが注目されがちだが、彼のヴォーカルは音程が安定しており、ファルセットを効果的に使う技術は高く、表現力豊かだ。音楽的な才能に恵まれた人なので、これからも元気に活躍してもらいたい。


 わたしは、ロバート・クレイの演奏を2度聞いている。1度めは、1984年にジョン・リー・フッカー共に来日公演した時で、東京芝の郵便貯金会館だった。この時がクレイの初来日。ブルース界期待の若手だったクレイは31歳で、前座という触れ込みだった。が、下のチケットを見て分かるように、フッカーのバックを務めた「The Coast To Coast Bluesband」との共演、だった。当時、ネームヴァリューがあまりにも違うので、「大物ブルースマン」ジョン・リー・フッカーの陰に隠れたような扱い方をされたのかもしれいが、けっして若手の未熟な演奏ではなく、むしろすでに完成された音楽、に近かった。後に、クレイはフッカーのアルバム『The Healer』(1989年)及び『Mr. Lucky』(1991年)にも参加している。



 2度めは、1987年にエリック・クラプトンと共に来日し、日本武道館での公演だった。この時は、自分のバンドを率いての演奏だったが、ほぼ満員の武道館はほとんどがロックファンで埋め尽くされていたように感じた。先入観というのは恐ろしいもので、偉大なロックミュージシャンの前座くらいにしか思っていない者には、どんなに良い演奏をしても「良い前座」という捉え方しかされなかったようだ。もっとも、それが修行になって、後の演奏活動の肥やしになれば、それはそれで良いのかもしれない。



 2012年にビクターエンタテイメントから出たCDで、VICP75083『Nothing But Love』。タイトルが示すように、全体にソウルに近い洒落た音作りになっている。

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加曾利貝塚の秋、2024/11/28

2024年12月03日 | 考古・エッセイ
 12月も近い11/28(木)、我が家から自転車で25分程のところにある加曾利貝塚に行ってきた。気温は18度ほどで、自転車でゆっくり走るにはちょうど良い気候。紅葉も多少、風に舞う落ち葉が美しい。


 国の特別史跡に指定されてから、かなり整備されて樹木の手入れなども行き届いているように感じる。発掘調査も再開されて、貴重な石剣なども出ている。千葉市には加曾利貝塚を入れて、国史跡の貝塚が5か所あり、他にも大小合わせて120か所の貝塚が確認されている。考古ファンの中には「貝塚銀座」と呼ぶ人もいると聞く。土偶など貴重な遺物が、千葉市内のあちらこちらに埋まっていることは、ほぼ間違いない。時間がかかっても良いので、保存対策と発掘調査を進めてもらいたい。


 中央奥に、復元された縄文時代の竪穴住居。

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上総亀山2024/11/24

2024年11月26日 | 旅行記
 11月24日(月)、JR久留里線の終着駅、上総亀山に行ってきた。紅葉で有名な亀山湖があるので、この時期だけ運転本数を増やしている。

 今年の猛暑で、樹々の色づきは今ひとつ、という感じだった。湖の周辺を2時間ほど歩いたが、途中道に迷ったりして、ハイキングコースの目印がちょっと少ない印象だった。コンビニなどないので、行くときには水や食べ物など、それなりの準備をしておくと安心だ。


JR上総亀山駅。千葉から2時間ほど。


無人駅で、スイカなども使えない。乗車する時には「乗車証明書」を機械から打ち出して、それを降車駅で見せて精算する。周辺には、飲み物の自動販売機などもない。


亀山湖。


小櫃川をダムで堰き止めた人造湖。


亀山ダム。

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磯田道史著『無私の日本人』2015/6/10文藝春秋 刊

2024年11月19日 | 本と雑誌
 テレビでもお馴染みの歴史学者磯田道史氏の著書『無私の日本人』を図書館から借りて読んだ。丁寧に史料にあたって、それを平易な文章で小説に仕上げており、読後に満足感が得られた。

 内容は、三話に分かれており、江戸中期から後期、明治にかけて実在した人々を時代背景とともに物語ってゆく。第一話は穀田屋十三郎で、伊達藩仙台近くの貧しい宿場町吉岡に生まれた商人。第二話は中根東里で、江戸時代を通じて空前絶後の詩才の持ち主ながら、栄達を求めず、極貧のうちに村儒者として死す。第三話は大田垣蓮月で、津藩家老の娘として京都の花街に生まれながらも家庭に恵まれず、一流の歌人であったにもかかわらず、尼僧として京都郊外に庵をむすび貧しい者の世話をした。
 それぞれが、私利私欲にとらわれることなく、貧しい生活にあえぐ人々のために「無私」の活動をした人達。わたしは知らなかったが、この作品の中の穀田屋十三郎の話は2016年5月に『殿、利息でござる!』として映画化されており、その原作でもある。

 武士の時代であった江戸期の「民生」については、なかなか理解しにくい。今の戸籍簿にあたる「人別帳」は寺の管轄で、寺は戸籍役場でもあり、婚姻や生死に関わる記録・管理は僧侶がになっていた。そのあたりまでは分かるのだが、さらに、庶民の教育や福祉といった、今の厚生労働省や文部科学省の仕事は誰が担っていたのだろう。それが、ずっと疑問だったが、この本を読んで少し理解できたように感じた。早い話が、篤志家達に頼っていた、ようだ。ボランティア活動の様なもので、他人の困難を自分のこととして世話をする人達が確かにいて、その方たちが本来幕府がなすべきことを代わりに担っていたらしい。あるいは、そのあたりが江戸という時代の抱えた大きな矛盾だったのかもしれない。


こちらは、ネットから借用した画像。

こちらが、わたしが図書館から借りて読んだ大活字本。


 閑話休題ーわたしが社会人になったのは昭和の50年代だったが、その頃「株式会社」というのは社員のために存在する、という社会通念が残っていたように思う。社員の生活が第一で、株主に配る配当金は「おこぼれ」と言っては言い過ぎかもしれないが、後回しだった。投資家の多くが、良い会社だから配当は少なくても投資しよう、としていた。それが、いつの間にかアメリカから来た株主優先の社会通念に変化してしまった。株式会社は、投資した株主に利益を還元するために存在するもので、従業員はそのための手段にすぎなくなった。「新資本主義」とも言われるが、金を投資という名で動かしてゆくことが最優先されている。バブル期のころだが、仕事の先の社長が証券会社に勤める友人から「金を転がせばいくらでも儲かるのに、何で汗して働いてんだ?」と、言われたという。IT技術の進歩は、さらにそれを加速し、生産するよりも、資金運用することに重点を置く社会になってしまった。汗して何かを作る人間よりも、パソコンの前で投機する者の方に金が集まってゆく。特に問題なのは、外国為替市場における差額レートを利用したFXと言われる取引だ。本来は、労働者に配分されるべき利益が吸い取られてゆく。これで、人心が荒廃しない訳がない。多くの人がその点を危惧しているが、悲しいことに人は目先の利に惹かれてしまう。「トリクルダウン」など夢のまた夢。格差は広がり、アルバイト感覚で犯罪に走る若者が増える一方だ。このままでは「負のスパイラル」に陥るように思えてならない。「無私」の精神から遠くなってゆくばかり。あるいは、悲観が過ぎるかもしれず、杞憂なのかもしれない。自分でも、過度な心配、であれば良いと思っている。

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わたしのレコード棚ーブルース165'Doctor' Isaiah Ross

2024年11月12日 | わたしのレコード棚
 ’ドクター’アイザイヤー・ロス('Doctor' Isaiah Ross)は、1925年10月21日ミシシッピー州Tunicaに生まれ、1993年5月28日にミシガン州Chevroletで亡くなっている。ネイティブ・アメリカンの血を引くともいわれている。

 下はP-ヴァインから出ていたLPレコードで、PLP352『Memphis Breakdown』。ヴォーカル・ハーモニカ・ギターで「Chicago Breake Down」など14曲を収録。1952から1954年にSUNレーベルに録音された若い頃の録音。’ドクター’ロスは、ギターを弾いて歌い、さらにハーモニカを吹いたりドラムを足で打ち鳴らし演奏できる「ワンマンバンド」プレーヤーでもあるが、このLPではドラムスやピアノなどのメンバーが入っている。この録音は、後のロックに影響を及ぼし、エリック・クラプトンなどもコピーしている。


ジャケット写真の様に、ロスは左利き。表題『Memphis Breakdown』のとおり、ヒル・カントリー・ブルースとも言われるメンフィスのビートが彼の音楽を特徴づけている。



LP盤内のSUNのロゴマーク。SUNレーベルは当時エルビス・プレスリーが在籍していたことでも知られている。



 こちらは、1993年1月10日にミシガン州フリント(Flint)公共図書館で行われたライブ演奏の貴重な映像を収録したビデオテープ。「The Last Concert」と表題されており、亡くなる4ヶ月ほど前の演奏になる。発売は「Back Alley Blues Productions」となっている。フリントは、同州の大都市デトロイトから100キロほど離れたところで、ロスは死後この地に埋葬された、と解説にある。おそらく、地元の文化を紹介するために図書館が企画した演奏会だろう。
 以下の3枚は、ビデオ映像をデジカメで撮ったもの。





 バスドラムやハイハットを踏み鳴らしながらのワンマンバンド演奏。図書館だけあって、後方に書架が見えている。ブルースの映像としては珍しく貴重。
 LPで聴ける若い頃の演奏に比べ、かなり繊細さを感じる演奏で、特にハ-モニカは郷愁さえ感じる音色だ。加齢による衰弱は否めないが、死ぬ4ヶ月ほど前にこれだけの演奏が出来ることに尊敬の念を禁じ得ない。ミュージシャンの端くれとしては、こうありたい、と感じる。

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久留里城2024/11/1

2024年11月05日 | 旅行記
 11/1(金)、思い立って房総半島の中央部を走るJR久留里線に乗ってきた。


千葉駅から40分程のJR木更津駅。左奥に止まっているのが内房線で、奥が千葉・東京方向。ここから右端に止まっている久留里線のディーゼル列車に乗り換えてゆく。こちらも写真奥の方向に向い、この先で線路は右方向に曲がり、内陸に向かってゆく。


JR久留里駅。田園地帯をゆっくりと走り、木更津から50分程。多くの列車が、ここを終点として、折り返しの上りの列車になる。が、終着駅はこの先写真左奥方向に進んで「上総亀山」になる。終着まで行く列車は、日に数本しかない。この久留里線のほとんどは無人駅だが、ここは駅員さんが常駐している。観光地でもあり。駅とその周辺なかなかきれいだ。
 久留里線はJRの中でもかなりな赤字路線で、いずれ廃線の憂き目に合いそう。なので、一度乗ってみたいと思い、出かけることにしたのだった。今回は、ダイヤの都合でここ久留里まで。もう少しすると紅葉の季節なので、近いうちにもう一度出かけて上総亀山まで行き、駅から歩いても行けるという人造湖の亀山湖で紅葉でも見たいと思っている。


せっかく来たので、戦国時代の里見氏の根拠地でもあった久留里城までハイキング。ここは名水の里としても知られ、写真の様に町の所々で湧き水が飲めるようになっている。遠くから汲みに来る人も多いようだ。この日は、気温22度ほどで、歩いていると少し汗ばむ陽気。試しに飲んでみると、のどの渇きもあって、冷たくてわずかな甘みを感じ「うまい」。こんな水に恵まれた土地に暮らす人は贅沢だ、と思った。「この辺りにスタジオ兼別荘でもあればいいなあ」と、夢見たのだった。


お城に上るのに舗装された緩やかな道もあるが、昔日の武士の思いを感じようと、古い登城道を行くことにした。足場は悪く、かなり急な登りで、息を切らして進んだ。裃姿の武士とすれ違いそうな錯覚に陥る。道幅が狭いのは、敵の侵入を食い止めるためだろう。




上の2枚は、天守近くの曲輪(くるわ)から房総の山々を撮影。少し、靄っていたが何とか遠くまで見渡すことができた。ここまでくると空気がきれいで、時間の流れもゆったりとしている。なんとなく、体が喜んでいるようだ。


久留里城。駅から歩いて40分程。昭和に再建された建物で展望施設があるようだが、今は入れなくなっている。少し下った所に入場無料の資料館があり、鎧兜・具足・古文書などが展示されている。


城に向かう途中にある歴史について書かれた案内。

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千葉市美術館コレクション選 特集 田中一村と千葉

2024年10月29日 | アート・文化
10/25(金)、 千葉駅から歩いて15分程のところにある「千葉市美術館」に行ってきた。

 現在、上野の東京都美術館で大規模な田中一村展が開かれており、主な作品はそちらで展示されているが、こちら千葉市美術館でも、それに合わせて小規模な展覧会を開いている。

 田中一村(いっそん)は戦前から戦後にかけて20年間ほど千葉市内に住み暮らし、その後奄美大島に移住して独特の作風を確立した画家だった。今回の千葉市美術館での展示では、千葉にいた頃に世話になった人たちに贈った色紙など個人蔵のものなどが中心。中でも、千葉寺付近の昔日の光景が描かれたものが心に残った。陰影と、奥行きの深いものが多い。東京都美術館に比べれば小規模な展示だが、入場料は300円だし、それなりの感動を得られる。ちなみに、わたしの様に65歳以上の千葉県民は、身分証などで確認できれば無料。うれしいような、寂しいような、複雑な気分。でもまあ、家から歩いて行ける所に美術館や図書館があることを感謝することにしたい。

下は、千葉市美術館のリーフレットとHPよりの引用。





『千葉市美術館コレクション選 特集 田中一村と千葉(~12/1)
「特集 田中一村と千葉」では、千葉市美術館収蔵作品に、近年の新出作品、初公開作品を交えて特集するほか、一昨年行った《椿図屏風》《アダンの海辺》等作品の光学調査の成果をご紹介するパネル展示も行います。」』

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わたしのレコード棚ーブルース164 J.B.Hutto

2024年10月22日 | わたしのレコード棚
 ジョセフ・ベンジャミン・ハットー(Joseph Benjamin Hutto)は、1926年4月29日サウス・キャロライナ州ブラックヴィル(Blackville)の生まれで、1983年6月12日にイリノイ州ハーヴェイ(Harvey)で亡くなっている。シカゴブルースの初期から活躍した、ヴォーカルとスライド奏法中心のエレキギターを奏でるブルースマン。以下は、ウィキペディアを参照して書いた。

 ハットーの父親カルヴィンは牧師で、彼が3歳の時にジョージア州オーガスタに家族とともに移り住み、そこで、兄弟とともに教会の聖歌隊で歌っていたという。1949年に父が亡くなった後は、家族でシカゴに移動している。1950年代初めの朝鮮戦争にはトラック運転手として参戦している。帰国後はシカゴに戻り、演奏活動を再開。
 彼は、楽器を演奏する才能に恵まれていたようで、ドラムスやピアノなども演奏したという。1954年には、レコーディングの機会が来て、チャンス・レコードから2枚のシングルを出している。しかし50年代終わり頃、あるクラブでの演奏中に客が夫婦喧嘩を起こし、ギターを壊された事件があり、演奏活動を続ける気が失せたという。その後は、葬儀関係の仕事で収入を得ていたらしい。
 演奏を再開したのは、1960年代中頃で、下のLPは1968年に録音されたものだ。


 デルマーク原盤LPでトリオのPA6205『Hawk Sqatt! J.B.Hutto & The Hawks』、1968年の12曲を収録。ピアノ・オルガンにサニーランド・スリム、ギターにはリー・ジャクソン、ベースには来日したこともあるエイシスのベーシストのデイブ・マイヤーズ他ジュニアー・ペティス、ハーマン・ハッセル、ドラムスにフランク・カークランド、テナーサックスにモーリス・マッキンタイヤー。当時のシカゴブルースを代表するかの様なメンバーで、特に、ベースとドラムスのリズム隊は、これがシカゴのビートだと実感させられる。ドラムスやベースのプレーヤでブルース演奏をしたい人には是非と聴いてほしい演奏。

 同、裏面。シカゴのブルース・シーンは、マディ・ウォータースが活躍した初期から、マジック・サムがブルース・ロックを形成するまで、様々なブルースマンが存在している。J.B.ハットーは、過渡期の橋渡しの様な人と感じる。
 スタイルが似たプレーヤーにハウンドドッグ・テイラーがいるが、1975年のテイラーの死後は「ハウス・ロッカーズ」の残ったメンバーを一時引き継いでボストンに移り、1983年の死までレコーディングなどしている。

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2024/10/13バハマ、ブルースセッション

2024年10月15日 | ライブ
 10/13(日)の夜、千葉のライブハウス「バハマ」で行われたブルースセッションに参加させてもらった。

 わたしは血圧が低めで、暑いのは苦手。今年の様な猛暑で屋内から外へ出ると、ふらつく様なこともあり、活動するのを控えていた。なので、セッションに参加するのも春以来となる。様々なプレーヤーと演奏したり、他の人のプレイを見るのは勉強になる。それに、顔なじみになったプレーヤー達と話をするのも楽しみだ。不思議なことに、初対面の人でも一緒に演奏すると、話が弾むことも多い。そんな時には、長年音楽をやってきて良かった、と感じる。ミュージシャンは、だれにも頼らない自立性が求められる。演奏力をつけるには、いかに孤独の中で練習できるか、による。けっして、楽なことではないし、なかなか上達できないことに今でも苦しむときがある。ミュージシャン同士で信頼感が生まれるのは、その苦しみを共有できるからだろう。


 ウォーミングアップ中のホストバンドの面々。3人とも、基本的な演奏力があるベテラン。ここ「バハマ」は、専門の知識を持った音響担当者もいて、安心して演奏し、また聴くことができる場でもある。

 この夜も結構盛り上がり、11時近くまで続いた。また、よろしくお願いします。

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2024年日本映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』

2024年10月08日 | ライブ
9/30(月)、千葉劇場にて。監督呉美保、出演吉沢亮、忍足亜希子。

 作家の五十嵐大による自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を映画化。
 宮城県塩釜市で生まれ育った聞こえない両親を持つ少年、名前は原作者のままで五十嵐大。誕生から青年期までを丹念に描き、おそらく、かなりな時間をかけて制作されたことが想像される労作。




 わたしは大学2年の時、聞こえない学友と親しくなり、彼に手話を教えて貰って授業の際のサポートなどをした。必然的に、手話サークルや福祉施設などにも行って、様々な障害を抱える人達とも交流する機会があった。ある時、脳性麻痺により重い障害を負った人、聞こえない人、健常者など4人で会話したことがあった。つまり聾者は一人だけだったわけだが、その際に、聞こえる人同士の会話も全て手話で表現して、聞こえない人にも話題が分かるように努めていた。すると、障害を負った人から「耳はちゃんと聞こえるので、僕と話すときには手話は必要ない」と、かなり強く言われた。さらに「障害者の気持ちを分かってもらいたい」とも・・正直言って対応に苦慮し、今でも記憶に残る苦い思い出になっている。一口に「障害者」と言ってもそれぞれに違いがあり、複雑な心境を抱えた人たちで、敏感で傷付きやすくプライドが高い人が多い。
 すでに半世紀近く前のことで、手話も今ではほとんど忘れている。この作品を観て、あの頃のことを思い出した。

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日暮 泰文著『ブルース百歌一望』(2020年Pヴァイン発行、ele-King bokks編集)

2024年10月01日 | 本と雑誌
 日暮泰文氏は、日本におけるブルース研究の第一人者で、P-ヴァイン・レコードを設立し、ブラック・ミュージックの紹介に尽力された方。この人の行動力と語学力、豊富な音楽的知識には、いつもながら驚かされる。
 本書は、雑誌『ブルース&ソウル・レコーズ』に連載された「リアル・ブルース方丈記」に加筆修正し、1世紀に渡るブルースの録音から101曲を選び、深層を掘り起こした労作になる。この本を読んで、言葉の意味について新たに得たことも多い。


表紙の写真は、著者が撮影したアーカンソー州ヘレナの船着き場。白黒写真だし、ずいぶん古い光景に見える。が、2010年に撮ったということなので、さほど古いわけではない。あるいは、現在はあまり使われていない、綿などを船に積み込むために使われる設備で、コンベアーのようなものなのかもしれない。

 日暮泰文氏は1948年生まれ、というので執筆時は70歳を超えていたろう。本書P170で「多くの部分ですっかり形骸化したブルースに何が欠けているのだろうか・・・」とある。わたしも今年2024年で67歳。時にブルース・セッションなどに参加して、若いプレーヤー達と演奏したり、ブルースについて話したりする。その時には、やはり「うまいが、形だけだ・・歴史的録音も聞いてない」と、感じることが多い。ロックやジャズの教則本に載っているものを、そのまま演奏してもブルースにはならない。オリジナルの演奏を聞き込み、彼らが何を伝えようとしてプレイしたのか、それを踏まえて自分なりのフレーズを編み出していかなければ、魂は抜けたままだ。この本の執筆動機として、今の音楽状況に対する危機感と憂慮があるような気がする。

 困難に直面し、重荷を負った者に対する「共感と励まし」。それこそが、ブルースを含めた民俗音楽の本質、とわたしは思って演奏している。

 さらに、わたしの1曲として・・サン・ハウスの「Grinnin' In Your Face」の一節を参考までに付け加えておこう。拙訳で、思い入れをこめて、かなりな意訳をつけた。

Don't you mind people grinnin' in your face (他人に小馬鹿にされたら、辛いもんだよな)
Don't mind people grinnin' in your face (そんな時は、気にせず我慢した方がいい)
You just bear this in mind, a tru friend is hard to find (どっちみち、人を馬鹿にして喜んでる様な奴とは友達になんか成れっこないんだ)
Don't mind people grinnin' in your face (他人に小馬鹿にされても受け流して自分の道をしっかり歩いて行けばいいんだ・・よく憶えておきなよ)

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プリンター買い替え

2024年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
 9月も下旬になり、やっと秋が近づいた、と思ったら、前線が活発化して北陸地方などを中心に大雨となり、崖崩れや河川の氾濫など大きな災害が発生している。お見舞い申し上げたい。

 さて、使っていたプリンターが故障した。修理をすると、かなり高額な費用がかかりそうなので、やむなく買い替えた。最低限のシンプルな機能のものが安く買えるので、どうしても故障したプリンターは処分せざるを得ない。


 キャノンのプリンターTS203。5000円弱だが、交換インクはカラーとブラックの2個買うと4400円する。ほかに選択肢が見当たらないのでこれにしたが、単純に計算すると、本体が600円ということになる。要は、インクで儲けるために本体を赤字で売っているわけで、首を傾げざるを得ない。インクが無くなったら、本体ごと買い替えた方がヘッドの消耗などを考えると合理的で得に感じる。そうなると、インクが無くなる度ごとに、大きな不燃ゴミが発生して、環境を悪化させてしまう。メーカーは、その問題を、もっと真剣に考えて欲しい。

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瑞庵2オープンマイク2024/9/13

2024年09月17日 | ライブ
 残暑が厳しいが、日の暮れるのは早くなっており、季節は移ろっている。わたしは血圧が低めで暑さに弱く、この夏の危険な暑さを考えて外出を控えていたのでセッションなどにも参加できずにいた。

 今年は、熱中症で亡くなる人や、救急搬送された人の数が毎日のように報道された夏だった。さらに、暑さにより持病が悪化する人や、心不全や脳梗塞を起こす人も多く、その数はある推計で3万人を超えるという。人は、冬の吹雪などには警戒するが、夏の晴天下の体温並みの暑さには警戒心が薄れるようだ。それでも、仕事で外出する人などは、やむを得ない事由があるともいえる。「不要不急」の意味は人それぞれだが、過信は禁物だ。そう言えば、地元千葉ロッテのナイターで、試合中にピッチャーが熱中症で具合が悪くなった、ということがあった。その日は夜でも気温・湿度ともに下がらなかったが、日頃から体を鍛えているプロ野球選手でも倒れるような危険な暑さになったわけだ。なので「夏」に関しては、認識を改める必要がある。特に、東京は、気温を測定している地点が気象庁近くの北の丸公園の中で、都心で最も涼しい場所だ。天気予報を鵜呑みにせず、予想気温にプラス5~8を足した感覚が必要になる。

 が、さすがに9月も中旬になり、夕方には気温が下がってくるようになったので、9/13(土)千葉のライブハウス「瑞庵2」でのオープンマイク「アコギで遊ぼ」に参加させてもらった。ホストの「マーシー」こと小川さんは、カントリーソングを得意とする方で、以前から面識があったのだった。

 

 スライドバーを使った自作曲「パーフェクト・サークル」を演奏中の、わたし。

 この日は参加した方も多く、こじんまりした会場は、ほぼ満席。ハーモニカの独奏や、キイボードとギターのデュオなど、多様な愛好家が集まっていた。皆さんしっかりした演奏で、聞くのも楽しかったし、お世辞抜きで勉強にもなった。また、参加したい。

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わたしのレコード棚ーブルース163 Dan Pickett

2024年09月10日 | わたしのレコード棚
 ブルースという音楽を特徴づけているものに「コール・アンド・レスポンスCall and response」がある。これは、ブルースに限らず様々な民族音楽にあり、日本の民謡などでは「合いの手」に当たる。今では、聴衆とのやり取り、呼応などをライブで演奏に組み込むことも「コール・アンド・レスポンス」とも言うが、本来は農作業や力仕事などでリズムを取りながら呼応して作業を進めるためのものだろう。ブルースマンが一人で演奏する時には、歌い、それに呼応する様に、ギターなどの楽器で「合いの手」を入れるがごとくに演奏する。歌とギターの「掛け合い」のような形になる。そこには、様々な演奏パターンがあり、それがそのプレーヤーを特徴づけることになる。

 わたしもブルース・セッションに参加して様々なプレーヤーと演奏したが、このコール・アンド・レスポンスを大切にして演奏する人には、いまだに出会っていない。皆、それぞれに高い技術を持っているミュージシャンだが、自分なりの間合いを習得して「コール・アンド・レスポンス」を入れ、ブルースらしい演奏が出来ている人は皆無だ。わたしの友人は、SNSで公開されている、あるブルースセッションの映像を見て「(ブルースナンバーだが)ロックにしか聞こえない」と言っていた。それはセッションに参加している人が、ロック・ミュージシャンの演奏するブルース形式の曲しか聞いていないことに起因している。やはり、ルーツとなっているブルースマンの演奏を聴き込まなければ本当のブルースは出来ない。

 ダン・ピケットは、スライドギターを中心にしたブルースマンで、この人の演奏を聴くと「見事なコール・アンド・レスポンスだ」と感じる。特に、若い人にはぜひ聴いてほしいブルースマンの一人。

 この人に関しては、出自など長く不明とされており、下のCD解説では「"謎の“戦後カントリー・ブルース/スライド・ギターの名手」としている。が、今では彼の事がかなり判ってきているようで、ウィキペディアなどには、かなり詳しい記述がある。それによると、本名はジェイムス・フォウンティー(James Founty)。生まれは1907年8月31日アラバマ州のパイク(Pike County)。亡くなったのは1967年8月16日で、やはりアラバマ州のボアズ(Boaz)だった、という。


 P-ヴァインから1991年に出た、国内盤CDでPCD-2271。解説は、鈴木啓志氏。ゴーサム(GOTHAM)というレーベルに残した、1949年8月フィラデルフィアでの録音18曲。さらに、ターヒール・スリム(Tarheel Slim)の同年7月の4曲をカップリングして22曲を収録。後世に残すべき優れたCDなのだが、残念ながら今では入手が困難なようだ。ユーチューブなどで聴ける曲もあるので、若いプレーヤーには、ぜひ一度聴いて自分の演奏の参考にしてほしい。

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