文化逍遥。

良質な文化の紹介。

加曾利貝塚2013/8

2013年09月07日 | 考古・エッセイ
朝日新聞の千葉版に『加曾利再考』という記事が7/31から6回に分けて連載されていた。かなり内容が濃く、地方版だけで掲載されるのは惜しい記事だった。
内容を要約すると、以前は「ゴミ捨て場」とされていた貝塚が最近の研究でなんらかの宗教的な意味を持った重要な場所だったことが明らかになりつつある、ということになろう。
発掘された1960年代は、考古学的に当時重要と思われていた土偶や土器にばかり目が向いていて、貝の種類や量あるいは貝塚の形状などに関してはほとんど無視されていたのだ。

Kc3n0064
撮影は、8月2日。復元された住居が見えている。


Kc3n0068
貝塚の裏手にある都川支流。今は里山のようになっている。この川を利用して海から貝などを船で運んだのではないかと考えられている。ここから海までは数キロだったらしい。湿度の高い海辺を避けるとともに、当時の人々は津波などの自然災害を避けることができる立地を選んだのだろう。縄文人たちは、こと自然に対しては現代人よりもはるかに畏敬しその中で生きていくすべを知っていたのだ。


Kc3n0071
北貝塚にある断層観察施設。実に整然と貝などが積み上げられている。
これを見ただけでも「ゴミ捨て場」では無いことが理解できる。が、人間の先入観とは怖いもので、この施設の入り口には発掘当時のままに「ゴミ捨て場にずぎなかった・・・」との石碑がある。



7%の発掘で100体ほどの人間の骨も確認されている。それゆえ、少なくとも全体で1000体を超える人骨が、2万トンとも言われる貝殻、あるいは魚の骨や犬の骨、土偶・土器などとともに環状に埋められていると考えられる。ところが、円形の貝塚中心部からは何も出てこない。つまり、ここはストーンサークルのような神聖な場所だったのだ。人々は、生命の再生を願ってここの中央部で祈ったのだろう。極めて重要な史跡であることは疑いない。1960年代の考古学者の視点が狭いものであったにしても、この一帯を開発しようとした動きに歯止めをかけ保存運動に取り組んだ人たちに感謝と敬意を表したい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする