今年も、3.11がやってきた。
2011年、東日本大震災のあの日、わたしは寝たきりになった母の介護をしていた。
続く余震と、東京電力福島第1原発の事故のニュースの中で成す術もなく、うろたえていた。
そして、その後の計画停電では、電動の介護ベットも動かなくなり、暗闇の中で母を抱き起し食事の介助をした。あの時、放射能汚染が広がれば、関東全域にも避難命令が出る可能性もあった。そうなったら、わたしは、母を置いて逃げられただろうか。今でも、時にそれを考える。忘れることはできないし、忘れたくない。
2024年現在、原発事故により福島県7市町村に帰還困難区域が約310平方キロ残り避難者は2万9328人いる、と報道されている。
2011年、東日本大震災のあの日、わたしは寝たきりになった母の介護をしていた。
続く余震と、東京電力福島第1原発の事故のニュースの中で成す術もなく、うろたえていた。
そして、その後の計画停電では、電動の介護ベットも動かなくなり、暗闇の中で母を抱き起し食事の介助をした。あの時、放射能汚染が広がれば、関東全域にも避難命令が出る可能性もあった。そうなったら、わたしは、母を置いて逃げられただろうか。今でも、時にそれを考える。忘れることはできないし、忘れたくない。
2024年現在、原発事故により福島県7市町村に帰還困難区域が約310平方キロ残り避難者は2万9328人いる、と報道されている。