King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

泉谷しげる全力ライブ参戦

2018年11月03日 23時54分25秒 | ライブ・コンサート・展覧会

先日都美にてレオナール藤田をみて、ついこの間目の前で魔界のヴァイオリンを聞き

秋にふさわしく芸術に触れたかと思えば今回は秩父の老舗ライブハウスで

泉谷しげるのライブで盛り上がった。

こんな身近にやってくるなんてと信じられない気持ちでコンビニに貼られたポスターで

チケットの問い合わせ電話を掛けるとまだ券があるといわれ参戦した。

全く知らなかったが、今回が三回目というから驚いた。昨年四月と今年の四月にも

やっているらしい。

その前回は昭和の歌を歌うとして前半はカバーをやり、後に自身のメドレーという

二部構成だったらしい。その時の休憩時に停電があったとかで、それは今回のMCで

会場のボロさをネタにしていた。私も開場前にトイレに行くとグッズ売り場の人の

話でこれが最後となるかもしれない床が抜けるかもと心配していた。

 

それにしてもなぜ三回も秩父に来ることになったのだろう。床が抜けるかもしれないので

飛び跳ね禁止というようなオンボロで決して音響やPAもよくないだろうに。そんなことも

ネタにしながら最初はみんな座ったまま進み、突如そーと立ってと促してそのまま後半の

スタンディングのメドレーとなり、春夏秋冬までが本編だったらしい。というのは他の

会場のセットリストなどを見るとここで自らアンコールと言って次の野生のバラッドに

入ったとなっているからだ。私はそれを知らず、自ら今回もアンコールといったのも聞き取れず

今回アンコールなしなのかと随分不満に感じた終わり方だった。六時開演で五分過ぎて始まり、

八時少し過ぎに終わってしまった。なんかアンコールもなくあっさりしてるなという感じ。

ただ、ひとりギター一本でこの乗りで二時間ぶっ続けというのはもはや名人芸的なものなの

かもしれない。ジュリーのドタキャンなどもネタにするだろうなと予想したら黒い鞄の早口の

歌詞は全てその事を歌ったらしい。最後のやせろーしか聞き取れなかった。その後の喋りで

あああの事を歌ったのかと知れた。何しろこのライブには何十年ぶりかでこの会場に来て、

しかも駐車場が心配だから電車で行った。真っ暗になった駅から暗い道を行くと何やら人が

いる店が見え年寄りの行列ができていた。いつものライブよりさらに年齢層が上の私より

見るからにお年寄りが列を作っていた。

まるで演芸会の入場のような有様だったが、始まるとみんなノリノリだった。ライブなどというと

大概どこも立ち見だが、最初からパイプ椅子が並ぶ会場だった。それに床が抜けるからそーと

やると最初から言っていたのでどれだけ盛り上がるか心配もしたんだが、見事にみんな立ち上がり

最後までスタンディングで終わるというノリの良さだった。泉谷自らここはコーラスが入るから

合図したらやってとか手拍子やワイ染色体のポーズまで客を指導しての面倒見の良いライブだった。

完全に盛り上げるといいつつ、試しにジャンプしてみようとジャンプまで要求し、どうにか

床も落ちづに成功して、終わった。サービス精神なのか出入自由撮影自由と客にカメラで写すことも

それをアップするようにともあおっていた。私は後ろの席だったので写真も撮れず前に押し掛ける

こともなく、アンコールもなしかと静々と帰った。秩父線に乗るのも実に何十年ぶりだろう。

行きも帰りも床が板張りの車両ではなくなっていた。そんなどこかの中古車両なのは変わらないのだろうが

車内放送などは西武戦と同じ発音の英語放送が流れていて隔世の感は強かった。

清志郎がなくなり深川で奉納ライブを泉谷がやりそれを見て以来のライブであり、感慨深い。

ここのところ人生の重大シーンをこなしている感じがしている。

1.業火
2.すべて時代のせいにして
3.1/2ブルース
4.ネオエアー
5.ソウルでかい噺
6.黒いかばん
7.Y染色体のうた
8.春のからっ風
9.つなひき
10.明日も今日の夢のづつきを

11.レガシー
12.突然炎のように!
13.眠れない夜
14.褐色のセールスマン
15.舞い降りる鷹のように
16.春夏秋冬
17.野性のバラッド
18.Come to my bedside

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『藤田嗣治展』を見る

2018年09月27日 23時54分58秒 | ライブ・コンサート・展覧会

上野の東京都美術館にて『藤田嗣治展』をみました。

平日の午後遅くなのに未だに券売り場と入場に行列があるのがびっくりです。

年々、この美術館への入場というのが苦痛になる美術鑑賞人口の増加です。

特にここ数年はかつての美術展というのが企画と展示品のすばらしいものが

増え、今まで見たことのない絵とか今見とかないともう見れないというような

作品ばかりが来ている印象です。

そんなそそる言葉と魅力的な絵を一目見たいという思いは常にしているのですが、

しばらく美術展には足が遠のいていました。

今回も藤田嗣治ということで日本中に作品があり、珍しさもなく奇跡の白という技法にも

今更珍しさも感じずもう見た作家の気がしていました。

ただ、今回の美術展では今までの浮ついた日本美術を安売りした作家というイメージ

から自分の居場所を探して世界中をさまよった歴史と祖国と裏切られ、疎外され

翻弄されて生きてきたそんな生きざまが一生という事で取り上げられたのは初めて

かもしれません。テレビでは最晩年の本人の声などが公開されそれが決め手となり

今回の美術展に訪れることになりました。

世界のトップで有名流行画家となり、社交界でも有名人となるなど本来なら達成した

人として日本でも認められるはずがまるで受け入れられず、おもねるかのように

従軍画家となり、大きな大作を連発しています。これについては大方プロバカンダに

止まることなく自分で感じた戦争を描き切ったと評されていると受け止めていました。

しかし、戦争責任を問われるようになり、逃げだしまた海外へ放浪し、作風も変え

居場所を探すかのような変遷を見せていたというのは今回知った事であり、日本国内も

沖縄から東北と放浪しアトリエも転々としていたという事も知り、一生居場所を探し

自分を見つけようと模索し続けていたようなもがくさまが作風の変遷などから感じずに

いられませんでした。その時代ごとに書かれた自画像からもそんな自分をみつけて

ほしいという声が聞こえて来るようでした。時には宗教に救いを求め宗教画の登場人物に

なったり、祭りを描いた大壁画を残したりそれらが後世に残ることを意識して自分も

その一部にしておいた画家の孤独が滲みます。抱いた猫や背後に描いたかつて教えを受けた

肖像画とか父の肖像など全てが心の奥渕からの苦悩する叫びが時を超えて聞こえて来るかの

ようです。それでも日本の美術感とか日本の芸術観を完璧に抑えてはいないやはり浮ついた

本人の特質は隠しようもなく、すべての技法と表現方法を確立していても日本の芸術家が

どこかに完璧とか完成を望まない隙を作るのに対して自分は全て知ってしまったからこう

浮ついていられるという形になっている点です。見るものに迫る迫力とか超越した人を虜に

する魅力とかさらけ出した本性やあぶりだした野生など人間本質より文化としての自分が

すべてとすることで表した人であり、それをやがて全世界に見つけてみるように行動し

結局個人的な信仰に逃げていったそんな人生を追体験できる展示となっていて大河ドラマを

見たような第一次大戦と第二次大戦と戦後と目まぐるしい歴史を感じる貴重な体験をさせて

もらった展示でした。

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平均律クラヴィーア曲集第一巻とバスケット練習会

2017年12月24日 19時18分45秒 | ライブ・コンサート・展覧会

バスケットの試合では40分ほどの運動ですが、普段とはまるで別の運動感覚で、しばし体のリミッターが外れる感覚が発動します。日々のランニングでは体中のデバイスに電源が入るような感覚があり、普段の省エネ的に休んでいる機能や器官などがいろいろと電気が通って覚醒したような感覚です。一時間も走ると体が温まり、夜走り寝るまでそのアイドリング状態が持続し、寒く無く眠れます。さらに体の免疫系も上がり、汗をかいて着替えずにいてヒヤッとしたらすぐ風邪をひいた以前の体より耐性があがり、めったに風邪をひかなくなります。バスケットボールでは、同じ運動ですがまた体に現れる効果は別で無意識に昔の10代に覚えた体の動きを要求し、体はそれに従い普段ならボールを追おうとしない局面でもダッシュしボールに手が出ます。そして。頭より体の方が局面に反応し、運動中にいくつものリミッターが次々に外れる感覚があります。こうなると当然運動中からあちこちが痛くなり出し、いつ足がつるかという感じになります。どちらの運動も欠かせない生活の一部です。これにより文化的にも精神的にもより健全でいられるという気がします。そしてこれから冬の季節にはスキーというまた欠かせない運動も加わります。これら非日常的体験が人間には必要だと思います。さて、今回そんなことを思いつつ、バスケットと協議会の年間行事もよいよ最後の練習会と総括を残し残務処理だけとなり、総会やら忘年会などをやるだけとなりました。そのちょっと前にまた地元ピアニストの音楽会もあり、今回は10年ぶりに平均律の全曲演奏という珍しいプログラムです。とはいえこれは二回目であり、録音した成果を発表したいということで

企画されたようです。そもそも平均律を全曲やるということでこのピアニストのリサイタルに通いだしたわけで、それも十年になるのかという思いとともにふと全曲全曲といいつつ実は第一巻しか聞いてないぞという気もしています。十年前は譜面捲りの人もいなくて本人が第何曲と言ってから弾いていて非常に珍しいスタイルで妙に感心したのを覚えています。ピアニストとはもともと孤高で観客が解ろうが居眠りしようが自分のやりたい演目をただ弾き切るだけというスタイルの人が多い中、かのピアニストは自身の曲の理解を聞く人にも求めるタイプらしく、事前に勉強会をやったりします。彼のゴールドベルク変奏曲なども詳細な勉強会とセットになっていたりします。彼の演奏を聴くのは彼の研究と研鑽を体験するだけでなく、彼の知的レベルと同様の理解を同じように体験してこそという教育的意欲がいつもところどころに出ていると感じます。一方聞く人の集中が持続しずらいクラッシックの音楽会でさらにバッハの平均律を全部やってしまうというとんでもない演奏をまたやってしまったというのも何かまた進化があったのか今現代フォルテピアノでやる意味とか聞かせるだけのものがあったのかいろいろと興味はあるものでした。今回は今何を弾いているというのをインジェクターで映し出して行うという今までにない方法で、これはこの前と違いスマートでより集中して聞ける良い方法と思いました。もっと色々な情報が画面にこのフーガがどうとか文字情報で出てきてこの前の勉強会の補完的な役割をするのかと思ったらただ何番目の前奏曲でハ長調とまでしか出ません。楽譜のページは前回同様自分でめくっていました。最近の演奏者はタブレットに楽譜を入れて自動的に表示させる人が多くいて舞台にページめくりがいる演奏会の方が珍しくなっているようですが、自身でめくる様子とか曲に入る間の感覚で、演奏者の思い入れというか気の入れ方が曲により違いが分かり、それはそれでライブ感があっていいと思いました。CDなんかだといつ次に行ったのか解らないくらいの間しかなく、どこがどう難しいかなんて聞く間もなく淡々と進んでしまいます。それが生だと演者の気合の入り方が伝わり大変聞く側にもその気迫と音の変化に気持ちが伝わる感覚が熱波のように伝わりしびれます。これが全曲通しで聞く効果かと思います。ところで今回隣の男性は真っ暗の中楽譜をずっと眺められていてかつてエティエンヌ バリリエの『ピアニスト』の中で演奏会の最前列で楽譜を見られるのがやでたまらないという記述があり、それをそのままやっている人を現実に見てああやる人がいるんだと思いました。これは何のために楽譜を見ているのか。演者が何か違う音を出しているかチェックのためなのか、それとも演奏法をこれで何かヒントとなるものが得られるのか謎です。そもそも楽譜がこの暗がりで見えているのかも解りません。よく演奏会のマナー違反として音の出る電子機器の電源を切れとか録音録画はやめろとか注意点がありますが、楽譜の持ち込みがマナー違反という話は聞きません。しかし、先のピアニストの中ではマナー違反になるからやめろという書かれ方をしていたように思います。演者に少なからず影響があり、他の聞く人の影響も出るということでした。つまり、プロとして他の演奏家に極秘のテクニックを盗まれるような気までするらしいのです。とするとみている人がいるとその極秘の装飾音も控えめになり、結果本来のパフォーマンスを聴衆は得られないとなり不利益だといいます。同じバッハでも無伴奏ソナタとパルティータ全曲のように派手で聞きごたえのある演目とは違い、いっぺんに演奏される機会は珍しくそれも全曲全曲と言いつつまだ一巻だけだったことを思うとやはり次は第二巻もあるのだろうかとふと思うのでした。それにしても最近はこのやりきりのコンサートが多く、アンコールなどがないのがちと物足りない感じがしました。

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10年一日南こうせつのコンサート

2017年09月09日 23時56分11秒 | ライブ・コンサート・展覧会
忙しい日で、地域の役員の仕事と行事に朝から
動き回り、隙間に軽く走ってそれから夕方風呂に
入ってから南こうせつのコンサートに出かけました。

これは市民会館が建て替えられて、本格的な音楽イベントと
なるコンサートで券を売り出し日に行くとすでに予定枚数以上の
人が並んでいるので買えないといわれてあきらめていたのですが、
次の日あきらめていたけれどダメもとで吉田へ納品に行ったついでに
吉田売り出しの支所に行くと一枚だけ残っていたのでした。

このブログにも記録が残る10年前の同じ月に全く同じコンサートを
やっており、なんとその時もウーハンが一緒に来ていたのは先ほど
ブログを見返し知りました。

前回もMCで宝くじでコンサート代金も安くなっていることや
まるきり同じ話で、やっている内容も歌もまあ変わり映え
しないこと甚だしいのでした。

いきなり赤ちょうちんで始まったのでかなり期待してしまい、
もしかしたら私の好きなマキシーのためにもやるかとわくわく
しましたが、これは会場のお年寄り多めの構成に決めた方針
らしく、やたら話が長く、曲目はすくないのでした。
続いて妹をやり、どの曲もハミングパートが入るという手抜き
的な演出も変わった点です。

続いてうちのお父さんという定番曲で一旦盛り上がって終わり
ウーハンの登場。雪山春暁、花咲く旅路とこれも全く十年前と
同じ曲、つづく夢一夜を一緒にやるのも全く同じ展開。

お父さんの遺骨を前にお母さんが本当は好きじゃなかったと
天井を向いていった話など何回聞いただろうか。

本人が言う通りテレビでも何回もしているもので、定番ネタと
化しているのです。

休憩があるのも前回と同じです。

再開して上海エレジー、カラタチの小道とやり、合唱団が
加わりふるさと、愛よ急げ、最後の曲で神田川と全く流れも
演出も同じです。

MCにいちいちうんうんとリアクションして年寄りのこれで
最後神田川だという一言が聞こえなんとも寒い気持ちになったり
もう清志郎のコンサートをオールスタンディングで聞いたのも
遠い思い出で次に同じような熱い気持ちになることも感激する
こともないのだろうと思うと周りの年寄りと俺も同じかととても
いやな気持になるのでした。

それでもアンコールで夏の少女に思わず大声で歌ってたまった
もやもやも少し晴れ盛り上がった感じがしました。

最後、僕の胸でおやすみでおしまい。

この終わり方も同じでした。

でも、満天の星をやらなかったのでなんか肩透かしな感じもしました。

観客もそれ用の星を用意している人も見かけたので肩透かし感は私だけ
ではないはず。

他のこうせつの思いで色の空というツアーではあの人の手紙や
マキシーのためにまでやっており本当に盛りだくさんでもちろん
満天の星もやっているのでこの宝くじ町の音楽会はお年寄り向け
ダイジェスト版なのかと思えてしまいます。

実は十年前のコンサートのそれからまた十年前にもこうせつは
きており、本人の今日のMCでまた十年後に来ます。というおそろしい
話もまんざら適当出まかせというより現実に起きそうです。

そのあとすぐ来年も呼んでくださいと言っていましたが、来年は
レギュラーツアープログラムで来てもらいたいものです。
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心にふと落ちるとは

2016年10月02日 23時55分09秒 | ライブ・コンサート・展覧会
今日はバスケットの大会とその後に地元ピアニストの
演奏会と色々と盛りだくさんな一日でした。

そんな一日でも何かとても落ち着いて気分がすっきりとした
一日となりました。

その最大の原因は私のずっと思っていた疑問ががあり
それがそういうことかと理解が付き、とても落ち着いた
気分にさせたのです。

それはなぜ、世界標準の弾き方でなく
譜面指示通りの弾き方にこだわったのか
です。

曲はバッハのゴルトベルク変奏曲です。

多くの演奏家が名盤というものを残していますが、
それはグレングールトだったり、ケンプなどいくつもの伝説と
名演奏が語られてきました。

シュシャオメイが
再録音したとして今年注目を集め、なんと北京で
凱旋コンサートのようなことまでして話題にもなりました。

その世界的名演奏の録音から来日する演奏家ののほとんどが
みな現代のピアノを使い現代風に弾いた50分ほどの演奏なのです。

さらにサラ・デイビス・ブュックナーのプゾーニ編曲の
ものだと30分程度です。

演奏会ではこういったものが主流なのです。

ところが、地元ピアニスト高橋望氏のものは楽譜指示通りの
80分に及ぶ演奏であり、私にはなぜ世界標準とは違う弾き方に
こだわるのかという疑問がふつふつと募るのでした。

つまり、今の楽器では当時の二段鍵盤でないと再現不可能であり、
どこかで省かれたり、何等の処理をして音作りをしなくては
ならないのです。

となると他の演奏家がやるように削っていいところはある
はずです。

なのにそこを忠実にできる限り限界に再現し、なおかつそれに
付けるべきものは付けてみるというのが彼の姿勢です。

そんな彼の手法を彼が引用したTSエリオットの詩と彼の
手の動きを見た時になるほどこういうことだったのかと
演奏が終わる時には深く理解させられ、心に落ちるよう
にしみたのでした。

そしていつもと違う行動をとらせました。
それは本人に直接言葉をもって伝えることです。

演奏後ロビーで捕まえてなるほどこうだったのですねと
語りかけたのでした。

全部お膳立てされて詳しく勉強会と称して本人自ら
解説までしてもどれだけ同時に体験した人に
伝わっただろうかという気がしたのであえて余計な行動を
したのですが、私としてはとても充実した一日で、深く
心落ち着き気分も一新するという体験でした。
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念願の若冲を

2016年05月23日 23時55分04秒 | ライブ・コンサート・展覧会

もう何年も前から伊藤若冲の群鶏図とモザイク襖を
みたいと思っていました。

プライスの東北復興での展覧会や行こう行こうと思った
ことは多数で今回近くの東京都美術館で若冲展をやると
いうのは行幸であり、直ぐに行こうとなりました。

ただ、世は若冲ブームとなっているとかで、連日その
混雑ぶりが報道されるようになっていました。

秩父を8時のレッドに乗って10時過ぎに着いた時には
既に210分待ちになっていました。

通常は前売り券をネットやコンビニで買って少しでも
並ぶ時間を減らすのですが、今回は前売り券やネット売り
コンビニ売り、駅前売りもすべて終了し、窓口販売のみと
なっていました。

つまり、二度の行列に並ぶ羽目になりました。

まさかとは思いましたが、本当に入場まで3時間も並び過去の
行列経験に色々と並べてあの時はどうだったと比較してこの
つらい時間を過ごしました。

マラソンのように給水ポイントが何ヶ所かあり、30度を超す
炎天下を本当にマラソンのように立ち続けたのでした。

この行列体験という事では、清志郎の葬儀に次ぐ長いものでした。

まありに並んでいるのはジジババばかりで本当に倒れたり熱中症に
ならなかったのは奇跡のようでした。

その行列を取材するテレビまでいて、なぜこんなことになったのか
疑問はありましたが、そもそも私の興味ほど世間が若冲に集まった
のもテレビなどでその絵画世界を特別な芸術と持ち上げすぎたせい
なのではと思えます。

私はそんな最近のテレビ紹介番組の前から本物を見たいと思い、
どこで見られるのか情報を集めていました。

群鶏図については明治天皇のコレクションという事であるのは
三の丸尚三館だとうのはかなり前から知っていて現に行っても
みましたが、常に展示されているものではないという事が解った
だけでした。

サントリーのCMになったあのモザイク襖もその途に個人の所蔵に
なっているという事を知り、まあ実際に見る機会はないのかと
思っていました。

そのCMを見たのもかなりの昔の話です。

個人収蔵というのは有名なアメリカ人ブライス氏で、そのコレクション展を
東北でやったのはつい最近でまさかこの展覧会でもブライスコレクションが
来ているというのは実は中に入ってから知ったのです。

そして、京都の寺の一間から襖を一部屋分持ってきて展示してあったり、
三の丸の絵もブライスコレクションも揃う奇跡の展覧会でした。

これだけの若冲を一堂に集めたのはまさに最初で最後といっていい企画
でした。

まあ3時間待ちも仕方ないのかという気もします。

ただ、鑑賞環境はひどいものでじっくりなんてみてられなくて
やっと見れた群鶏図もモザイク襖も流れるように瞬間的にみた
感じなのでした。

過去のどんな混んだ美術展より、大変な行列はどこでもで、普段なら
記念に葉書など買うのですが、売店も大混雑でレジ前には長蛇の列の
ためカタログは別会場に売り場があるほどでした。

釈迦三尊像やふすまに対して新たな発見などして美術館をあとにしました。

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二科展も

2014年09月15日 23時00分00秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日は笛を吹く少年からかささぎまで実に豊かな
時間を過ごしたばかりなのに招待券をいただいた
同じ美術館の中で開催されていた二科展にも
行きました。

こちらは行列もなく一枚の券で彫刻から絵画、
写真と沢山の作品がみられます。

ただ、沢山ありすぎてどれをみてもたいした
感想もなくなります。

たまにはっとする作品を見かけますが、それは
オキーフであったりマグリットだったりだれかの
元になる作品とか連想させる何かがあるものが
それを想起させてはっとなるのでした。

どれもどこかで見たような既視感があり、アンリ
ルソーほどの独創的でオリジナルの世界観を
示すものはなく、ただ量に酔うようになって
しまいます。

そこから写真に行くとかなり主題が明確で
今写真というのはこういうテーマでとられている
のかとジャンルの確認ができます。

しかし、杉本ひろし的な写真は一枚もなく、素人
の写真雑誌一歩手前のような感じでした。
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ミレーの晩鐘再び

2014年09月14日 23時20分00秒 | ライブ・コンサート・展覧会
土日営業になったのに、今日はお休みをいただき
都内出張となりました。

そして、そのついでではありますが新美術館で開催
しているオルセー美術館展と二科展をみてきました。

この久しぶりに乗る電車ですが、かつては通勤電車
が大嫌いでしたが、自宅より新聞がじっくりと読め
実にいい時間でした。

美術館では大きな美術展ではある行列ですが、もう
夏休みでもないので長くやってもいるしそんなに
混んでないと思っていたものの30分ほど待ちました。

中では音声解説を利用する人でまた行列がありましたが
これは私は利用しないので一気に何十人も追い抜いた
感じになりました。

毎回有名芸能人が担当するようになり、ここ一年くらいで
この音声案内を利用する人は相当増えました。

このオルセー美術館展は私の知る限りテレビ番組で
取り上げられることもなく、どんな絵が来ているのか
あまり知られていない印象でした。

それでもテレビ局が後援していることもあり、まったく
放送がなかったこともなく、町にはあのマネの笛を吹く
少年のポスターでもっとも有名な少年の来日というコピー
がよく見られました。

私が見なかっただけで、NHKやぶらぶら美術館などで
美術展を取り上げたようですが、私にはそんな予備知識
がない分よりそれぞれの絵が新鮮でいろいろな思いも
いつもより自分主体でみられたように思います。

テレビで取り上げた絵にはやはり人だかりがより厚く
取り巻きなかなか見ることもじっくりとその絵の世界に
ひたることもできません。

せっかくの名画がこれだけ大挙して押し寄せているのに
この環境で見るしかないのはいつも思うのですが、まったく
もったいない。

それでもこれだけの人を集めるからはるばる美術館が
出張したかのような名画が揃うというせめぎ合うような
問題をつきあわせているわけです。

前知識を入れてない分、今回の絵についたコメントが
語り足りない、美術展のテーマの印象派の誕生という
端境期を紹介するというものにしてはかざられている絵の
それぞれのテーマと持つ力と世界がちぐはぐな感じが
してこれもみな面白い感じでした。

なかでも若い時に見てものすごい感動を得たミレーの
晩鐘は私に美術展に通うという習慣を与えたような絵でもあり、
絵というものはこうも人に影響を与えるものという体験を
示した物でもあります。

これがまた来ているという事すらしらず、みたらなんと
あれこの絵はこんな小さい絵だったのかと不思議な感覚
でした。

どうやら落穂ひろいのサイズとこの絵も持っていると
ごっちゃに記憶してしまったらしく、今回のこの絵に
着いた解説を読みこの絵の世界により踏み込んだような
時間を得られました。

そして改めてこの絵に描かれているものの意味を知るとともに
なぜこれだけ感動するのかもまた理解したように思います。

そのそもそもを知りたい方は当家に試飲にいらしてください。

オルセー美術館展の思い出と印象派から野獣派からアンリルソー
など語りたいと思います。
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ライブで聞いたゴールドベルク変奏曲

2013年12月09日 22時50分39秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日は久しぶりの地元ピアニストのリサイタルに出かけました。

このリサイタルシリーズも今年で10年になるそうです。

そして演目が『ゴールドベル変奏曲』です。

これはCDでは何度も聞いている曲ですし、色々な映画にも
登場したり、この音楽にまつわる逸話や解説も沢山聞いて
きました。

地元ピアニストのHPよると演者自らこの曲の解説をしてから
演奏に入るとなっていて、事前の演奏会でその解説を聞いて
初めてゴールドベルク変奏曲が解ったという声を聞いたと
あったので、これはかなり面白い話が聞けるものと思って
楽しみにしていました。

本人自らがホワイトボードを使いこの曲の構造と特長を解説
していったのですが、目からうろこというほどの目新しさもなく、
聞きどころとかこれを聞いてほしいという醍醐味についても
極控えめでした。

私は聞いてみたかったのは、ドイツで最後の30番目の変奏曲が
肉でなくて蕪と何か野菜の曲で元に戻ってしまったという曲は
誰もが知るメロディの曲なのか今まで続いたシンメトリイの構造を
崩すにふさわしい曲なのかこの曲の面白味はなんなのかをもっと
聞きたいところです。

日本人というか普通の人が聞いて、今までの規則性を欠いた展開に
ああこれで元に戻るのかという意外性に気づくようなものなのか
聞きたかったのです。

まあそれは今日聞けば解るだろうと休憩時間に入りワクワクとした気分で
待ちました。

そして初めての生で聞くゴールドベルク変奏曲はCDで聞くのでは解らない
実に大事業なものなのだと感じました。

ベートーヴェンのピアノソナタなども目の前に生のドラマが展開してく
ような生でしか感じられない大河ドラマ的なイメージが展開したり、
伝わるイメージは実にライブ感で今展開しているというドラマ性も
しっかりとあるのとは対照的に、これは音楽に図形展開していく
図形美術を見ていく作業のようであまりドラマ的な感じはしません。

しかし、これは演者のテクニックをこれほど要求するものなのかと
初めて目の前で弾いている姿を見て驚嘆する技の連続にびっくり
してまうのでした。

これは見て楽しむピアノでもあるのかと感心してしまいました。

それだけ演者の神経の集中と演奏技術とさらに曲理解と感性に
よるイメージの膨らませ方や艶を乗せる曲の表情の出し方など
ただ弾けばいい、完璧にキータッチできるのを見せるのであれば
それは曲芸に過ぎず、ただオーという歓声が上がりそれだけで
終わりでしょう。

これは曲であり、感情の表現でもあり、曲展開の妙も作曲の妙と
演奏者の高度な技術も要求すると何を表現し、何を展開している
と理解していなければできない表現方法そのものであるのです。

まあだから同じ曲でも演者が違えばまた味や表情に違いが出て
くるのですが、地元ピアニストの場合、そこまで卓越した自身の顔が
覗くかというと本人の生真面目さが芸術性を削いでいるのではと
時に感じてしまうこともあります。

ゴールドベルク変奏曲のCDでは各変奏曲ごとにポーズははいら
ないし、どの曲も同じ長さのはずなのに、地元ピアニストが使う
楽譜は張り紙をした長い折込が二ヶ所付いたので、なおかつ
それを演者本人がめくりながら、時にはポーズをとり意識を
入れなおしての演奏と弾き切った時のポーズなど普段やらない
やり切った感が体からも表現され、それだけ難易度のある曲
なのだと改めて感じました。

最後のアリアは暗譜らしく、30の蕪と何とかを弾ききったら
一気にアリアに突入し、余韻を十分かみしめてこの苦行のような
業の開放から満場の拍手を満足そうに受けていました。

ゴールドベルク変奏曲とはこういうことかと私も感じましたが、
それはなんと曲芸的な運指と音の処理とその効果を知り尽くして
やっと弾けるものなのだということです。

どれだけヘタレないで弾ききるのかやはりピアニストのピアニスト
たる技の炸裂を見るのも楽しいと感じるひと時でした。
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『メトロポリタン美術館展』にゴッホの糸杉を見に行く

2012年12月12日 20時38分22秒 | ライブ・コンサート・展覧会
月に一度ぐらい群馬とか都内とか出かける用事があるけれど、
それにどうしてもスキーやら温泉やら絵を見に行くことを絡めて
しまいます。

今回は、改装になった東京都美術館にゴッホの糸杉を見に行きました。

ゴッホの絵は毎年必ずどこかからやってきて日本で展覧会をやって
行きます。

日本人が大好きなゴッホ。そして、有名な糸杉は本邦初公開という
一大慶事にさぞ美術館は大賑わいかと思いきや予想に反して楽々鑑賞でき
ました。

途中に通ったツタンカーメン展などは行列ができていましたが、平日でも
行列覚悟で午前中の早い時間を選んだのですが、都美は人気がなかったの
でしょうか。

ミレーやゴーガン、ホッパーなどなど実にたくさんの名画がひしめき
その作家の精神に触れ魂がどんどん浄化されるかのようなめくるめく
時間を過ごして師走の上野界隈を歩き、不忍池の傍の有名な洋食屋で
ランチを食べ、ゆたったりと満足感に浸り帰ってきました。

都会の豊かさを感じた反面夜8時頃秩父につくともう駅内の営業している店はなく
どこも真っ暗でさびしい街並みと寒い気候にああまた明日からがんばろうと
きれいな星空を見上げるのでした。
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亡き王女のためのパヴァーヌを聞く

2012年07月01日 18時27分51秒 | ライブ・コンサート・展覧会
地元ピアニストのコンサートに午後出かけました。

留守中に来店のお客様には大変ご迷惑をおかけいたしました。

丁度留守番もいなくなった時間帯ができてしまい、電話連絡も
受けられないお客様もいたようで申し明けありませんでした。

今回は以前メールでリクエストしたこともあるラヴェルの曲を
やるというので行ってきました。

しかし、今回はなぜなんだろうという疑問をいくつか持ってしまい
ました。

というのも前回のコンサートはピアノの連弾。今回はヴァイオリンと
合奏。それもあの名曲をなぜヴァイオリンと一緒にやるのかという
納得がいかない感覚が残りました。

合奏とはいえソロパートがあるそれぞれの見せ場のあるのなら
こういう小さなホールでの室内楽も納得のいくところですが、
なぜかピアノは伴奏的な感じの演奏が多く、それぞれのソロも
あっていいのではと思ったし、なぜそもそもふたりでやることに
なったのかも実は知りたいところです。

後半にトークの時間があり、ブログでは既出の沖縄のおじさんの
話で初めて聞く人には受けていたようですが、私はそれより
ヴァイオリンの説明をしてなぜこういうプログラムになったかも
説明してほしいと思いました。

それにヴァイオリンは音が小さく感じます。その上少しこもった
ように響きます。そのわけは後程知らされましたが、そうする
必要があったのか、その理由ならそうしない曲もやる必要もある
のではと次から次に疑問が重なります。

まあこれは不満につながるのですが、全てのファンがそう感じ
たということではなく、私の個人的見解と思い込みなので
会場内に不満があふれたとかシラーとした風が湧いたという
ことではありません。

ヴァイオリンの奏でる亡き王女のためのパヴァーヌのメロディ
ラインも溜息と涙がこぼれるほどの美しさは変わりません。

今日はヴァイオリンが主役の日なのか?それならもっとピアノの
名曲より、ヴァイオリン協奏曲をやるべきなんじゃないかと
いう答えに、後半はヴァイオリン・ソナタが演奏されます。

まあ本日はヴァイオリンが主役と認めた曲、でもなぜセーブして
やるのか、本来の大きさの音で奏でてもいいのではと思うのでした。

聞き応えとしては小さな音楽会といったプログラム構成で
、テーマと狙いとしてはまとまっているといえるのに
聞いた喜びの感覚としてはもっと聞いていたいという後味が
えーもう終わりと物足りなさを感じます。

すごくあっさりと終っちゃって、また次は6ヶ月後にお会い
しましょうではさみしすぎるのではという感じです。

それはピアノのソロパートがなかったことと、前回は連弾と
変化球が続いた感じでまともに勝負してもらっていないと
いう感覚でしょうか。

亡き王女のためのパヴァーヌは心に沁みましたが。
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最初はちょっと

2012年02月27日 09時55分09秒 | ライブ・コンサート・展覧会
地元ピアニストのコンサートに昨日出かけました。

なんと今回はピアノデュオだということで、男性
ふたりでピアノを弾きました。

所謂連弾というやつです。

前回のコンサートの時に、皆さんのしっている曲を
やるといっていたので特殊な演奏なので、親しみ
やすく聞き慣れた曲をやるのだと思っていました。

連弾と聞いていましたが、二台のピアノでやるのだ
と思ったら、一台のピアノに椅子が三つ並んでいて
男性二人がそれに座ると後ろから見ている絵として
はとても気持ちのわるいものでした。

右側に地元ピアニストが座り、ペダルを窮屈そうに
踏んでいます。

とにかく最初の1曲目から違和感と何でこんなこと
しなくちゃいけないのという感じで聞いているうち
終了。

ふたりで弾くと音的には違和感もなく変な響きも
感じずこんな感じになるのかという感じで終了。

しかし、何で連弾は必要なのかという疑問は説明
されるのですが、それよりその後の自己紹介的な
それぞれのソロがあり、それを聞くとああこういう
ピアノの人なのかというのがよく解りました。

伊藤さんという尾道で活躍するピアニストの
トリスタンとイゾルデという何度も演奏され聞いた
ことのある楽曲です。

芸術家が芸術家であるためにはその深度を試される
演目なのではないでしょうか。

これをソロでやる辺りに伊藤さんの技術の高さと
芸術に対する姿勢に接することができたのでは
ないかと思われます。

バッハのあとにワーグナーときて、なんと地元
ピアニストはまたまたやってくれました。

トリスタン和音に対する返答かのように、芸術
という解釈に対して、ベルクのソナタを持って
きたのです。

その反動かのように後半はハンガリー舞曲を
やるという変貌振りです。

ハンガリー舞曲というとランランの演奏を思い出し
ます。

あのピアノも壊れよといわんばかりの弾む演奏と
はちがい、連弾用に作曲された細部まで楽しむ
ような繊細で峻烈な妥協なしの演奏でした。

かといって勢いがランランに負けているという
ことでもなく、作曲楽曲の妙を演奏者も楽しんで
いるかのような連弾でした。

何かしら遠慮とかふたりでやる事での破綻なり
があればまた面白かったのでしょうが、そういう
技術的な綻びを見せないのが、このふたりの演奏
なのだというある共通があるかのようなデュオで
した。
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ショパン 若き晩年の告白を聞く

2011年10月30日 23時48分00秒 | ライブ・コンサート・展覧会
いつもの地元ピアニストのリサイタルへ
また今日も出掛けてきました。

今回も前回同様ミューズパークの音楽堂でした。

前回の寂しい入りからさらにまた少なくなった
感じがしました。

チケットに今回は会館時間が入っておらず、間近に
なって入ったのですが、前回同様の前のよく見える所に
席を得ました。

前回のベートーヴェンのピアノソナタをまた思い返しても
なぜ西山朗なのかまた考えてしまいました。

そして、今まで祈りとはと、ときあるごとに考えさせ
られていました。

そして、今度もトリスタン・ミュライユの
別離の鐘、微笑みを現代曲としてやりました。

こちらの方がはるかに親しみやすい曲でした。

今回は唐突に次のプログラムに入ることなく、一旦
引っ込んでから再登場してプログラムを続行となり
ました。

この券を購入するときに見たチラシには舟歌など
晩年の曲を中心とするようなプログラム構成のような
書き方がかいま見れましたが、

幻想曲 ヘ短調
ノクターン第17番ロ長調
マズルカロ長調、ヘ短調、嬰ハ長調
ポロネーズ第6番 変イ長調 『英雄』

休憩

ピアノソナタ第3番ロ短調

でした。

前半は1曲目から魅了され、すっかりショパンの世界に
浸れたと感じました。

これからは皆以前も彼の演奏で聞いた事のあるものが
ほとんどで耳なじみがあります。

どこまでも彼のピアノでいつものショパンと言う感じ
です。そして今までの演奏より数段よく感じました。

前回物足りなく感じたドラマチックさも情感も表情も
全て丁度いい濃さで揃って丹精に展開している感じです。

全て丁度いいのです。

よくあるNHKなどの放送での日本人ピアニストの技巧以上
の技を駆使しようと体中を使って弾く姿をみますが、余計な
物をそぎ落とした端正な技が彼のピアノにはあります。

淡々と弾いているようで実に豊な音の鳴りです。

弾くと言うよりピアノを謳わせると言う感じが出ています。

雨が降り出して少し頭痛もしていて、会場のかび臭い
冷たい空気も見る見るピアノの音に浄化されるようでした。

音が空気を変え、全てがやさしくマッサージされ癒されていく
かのような脳のリハビリを受けたようになりました。

もったいなくてそのままうちに帰りたくないような感じで
よくしるミューズパークを後にしました。

普通なら上質なワインと食事でもとりたいところですが、
中途半端な4時と言う時間でまだ戻って仕事があります。

でもまだ戻って仕事したくないそんな感じの雨の日曜の
午後でした。
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秩父に生きる

2011年09月24日 11時51分17秒 | ライブ・コンサート・展覧会
テレビだけに情報を頼っていると現実というものとは違う
認識が次第に形作られそれから中々抜け出せない偏った人間に
なるのではないでしょうか。

そして、それが一般的な人であり標準的な日本人の感覚を持ち
日本人として正しい判断をすると思われていると思われます。

しかし、現実の世界はテレビのきれいな画面とは違いますし、
一瞬で終わるニュースのような世界とも違います。

この間のSUMAPの中国での公演のニュースがありましたが、待ちに待った
中国人待望のSUMAPのコンサートだったという感じで報じられましたが、
週刊誌の記事によると観客はまばらで寒々しいものだったとのことでした。

テレビだけしか見ない人は、SUMAPはアジアでも人気者という認識が
できたことと思います。

まあ似たようなものには韓流ブームというものが日本にはあり、韓国の
タレントが日本でも大ブレイクというものと同じような感じかもしれません。

日本の野田首相が外交デビューというニュースはテレビで流れましたが、
パレスチナとイスラエルが国連を巡って世界がにらみ合う状況なのに
テレビでは国連での演説とか普天間の話しか出てきません。

新聞にはトルコとイスラエルの問題とかまたオバマが拒否権を発令する
のではという記事が読む事ができます。

日本人はイスラエルとパレスチナがどこにあるかすら知らない人が
ほとんどです。私もつい先日までそうでしたから。

さて、昨日の秩父の地元ピアニストのリサイタルでしたが、これまた
スマップの中国公演同様の入りでした。

今までのなかで最低の入りだったのではないでしょうか。

もともと手作りのポスターのようなもので町中に告知はされているものの
全てがそんな手作りのリサイタルで今まで続いてきたものです。

続いたからこそ人気も徐々に集まり会場はファンで一杯になってもよさそう
なものですが、やはりクラッシックのピアノコンサートとなるとこんなもの
なのでしょうか。

とはいえ今回のプログラムがヴェートーヴェンのピアノソナタであり、
それも三大ソナタを聴けるというものです。

その副題が核心という音楽ファンならずともこれは聴かなくてはならない
と思わせるものです。

これを秩父にいながらにして聞けるという贅沢はそうはありません。

それなのに広い館内には空席が目立ち冷房が効きすぎるくらいに感じる
薄ら寒い空気が流れました。

そんな盛り上がりに欠ける中、見ず知らずの人に呼び止められ丁寧な
挨拶をされ、はて誰だろうと思ったらピアニストのお母さんでした。

私は、珈琲を買ってくれるお客さんが声を掛けてくれたのかと思い
こちらも丁寧にいつもありがとうございますと返しましたが、いえ
いつもこちらがチケットを買いに行くのを覚えていてくれたのです。

コンサートの内容はこれは演者の性格のせいなのかいきなり西村朗の
小品からはじまります。

本人の説明がありましたが、当時のヴェートヴェンの音楽とは理解され
ないものであり、斬新な今でこそ繰り返し演奏されるが当時は反発を
受け、けちょんけちょんな人も多かったということで、それを味わうために
西村の作品をやることにしたというのですが、それが同じかどうかと
逡巡しているうちに曲は始まりました。

西村朗の曲自体は私も日曜日のNHKの番組で聞きましたが、踊りと一体
だったり雅楽と一体になった武満徹の曲の延長線なのかなあという位の
興味しかありませんでした。

これをいきなり当時のヴェートーヴェンを聞くとはこれほど突拍子もない
ことというのは果たして正鵠を得ているのか。どちらかと言えば唐突であり、
無理があるのではと感じます。それをやってしまうところにこのピアニストの
まじめさというか音楽に対する姿勢が現れています。

こういう無調のシェーンベルクの先にある現代音楽も解し、紹介すると
いうのは音楽家としては当然であるし、立派な行いでしょう。

ただ、自身のコンサート活動を思えばこの冒頭の西村朗をやる意義と
効果はどればかりだったでしょう。

長い説明の上曲が始まり、小品は祈りとはという意味を考えていると
突然終わり、何かまた説明が入るのかと思えば拍手も送る暇もなく、
突然に最初のピアノソナタ『悲愴』に入ってしまったのです。

これは観客置いてきぼり状態であり、せっかくやった意味も薄らいで
しまうのではと危惧しているうちにどんどん本題のソナタは進んで
行きます。

結局、この日この最初の『悲愴』が一番よかったのではと感じました。

確かに、次の『月光』『熱情』は円熟とか技巧といったものが
ヴェートーヴェン生涯のピークと重なるものでありドラマ性とか
人生とか思えばあの早い旋律や矢継ぎ早の怒涛の音の重なりも
彼の人生そのものなのです。

ピアニストの技巧の見せ所や聞かせどころなども強いと思いますが、
なぜか詩情とかドラマ性というものが足りないようなそんな不満を
私は感じてしまいました。

この三大ソナタのCDはバックハウスをはじめいくつも持っています。

どれが好きか誰が好きかと言う話題もしてきました。

そして、かつて彼の師匠のレーゼルの月光も聞きましたが、
その時には、聞きに行くだけで大変な旅であり、しっかり聞けるか
大変不安でもっとゆったりとした気分で聞けたらという気持ちでしたが、
それをまったく覆すものすごい感激をしたのを今でも覚えています。

それほど聞くだびぞくぞくと体中の毛が逆立つようなものだったのです。

あの駅に向かう坂道をああだこうだと如何にすばらしい演奏だったか
しゃべりっぱなしになったものでした。

そんな意味で、ドラマ性とか表現力とか演者の魅力がやはり譜面とか
音とかを超えて伝わる何かを感じさせるか否か、それが足りないのでは
と感じてしまうのでした。

それが、会場の入りにも出てしまうし、秩父という地でやり続けると
いうことにもそれがいいか悪いか別にして結果として出てしまうという
厳しい現実を感じます。

これは私が、秩父の現実を地域の役員で近所の家々を巡って感じたことと
同じなのです。

何かどうやっても簡単には変えられない厳然としてそこにあるもの。
厳しい現実。
熱い個人の思いや真実の持つ力でも簡単には覆らない。
そんなものを強く意識させられました。
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夏は美術館へ

2011年09月01日 09時46分38秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日はずっと見たかった青木繁の展覧会に行ってきました。



破滅型の天才芸術家という最もわかり易い画家は、絵よりその生き方とか
生き様がそもそも芸術家とはこうだという典型のような人です。

もっとも私の好きなタイプですが、近年には見かけない絶滅危惧種でも
あります。

もう現れないかもしれません。

先月まで日経朝刊の履歴書を書いていた画家も画壇とは一線を画し、売れたのは
60を過ぎてからという生き様でしたが、世の中に認められない、世の中に認められたい
人たちというのはいつでも居るものです。

ただ、だからといって世の中に迎合してしまったり自分の芸術性を見失ってしまう
人も多くいるのです。

生前はそんな売れない認められないというあがきも100年後にはそんな姿も面白がって
みられているのをどんな風に感じていることでしょう。

実際絵を見てみてテレビ等で何度も見ている絵も現物をみると色々な事がわかります。

ただ、絵の展示が変な照明で妙に光っていたり、暗かったりといい感じの鑑賞環境では
ありませんでした。

目的の『海の幸』は画面から溢れる生の力が漲り、技術的には決して優れているとか
完成された美しさというものより、描きかけか習作かというような下絵の線もそのままの
荒々しさと描き手の感動がそのまま今も進行中のようなエネルギーに満ちていました。

これが賞をとる為妻実家から援助を受けて描いた絵はやはり当時の最先端や画壇で求めている
テーマをたどったらしい絵ですが、訴えるものが伝わらない重たいボーっとした感じを
受けるのでした。

そして、最期の絶筆となる朝日の海はそんなものから解放された安寧と魂の解放も感じる
物語の終結を告げる絵にふさわしいものでした。

一生全てが芸術であるかのような作品群でした。

一つ一つの絵に感じる謎やその考察もありましたが、とにかく長年の希望がひとつ適った
満足感に浸れました。

そこで、昨年同じ時期挑んで、門前で閉門時間により拒否された三の丸尚蔵館へ向かいました。

昨年は竜馬の裏書というのを見にいったのですが、色々なメディアや美術誌で出展元が
この三の丸尚蔵館というのを見ており、数々のお宝が見られるものと期待しておりました。


そんな一年持越しの思いもやっと目的の建物にいったらあれ、と言う感じで終わって
しまいました。

展示品はほんの数品で若冲もなければ貴重な歴史証文もありませんでした。

仕方ないので、いつもは花見時に皇居のお堀伝いに巡るだけですが、そのまま
奥へ奥へと皇居内をたどり、九段まで行きました。


清志郎亡き後、もうこの建物もときめきを持って訪れる事もないだろうと思うと
なんとも寂しい感じに包まれます。

建物に近づくと色々な事が思い出されて、夢殿のような建物だと改めて思いました。
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