King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

さよならコンサート

2011年05月09日 10時16分25秒 | ライブ・コンサート・展覧会
連休の最後の日、午後からいつもでかける地元ピアニスト
のコンサートでした。

今回は、チャリティコンサートで急遽決まった物らしく、
いつもとは違うチケットの入手となりました。

そして、届いたチケットにはさよならコンサートの文字があり、
会場のカフェがライブスポットとしての使命を終え、閉店となる
ため、コンサート自体も最後になるとの事でした。

秩父地方の景気の冷え込みにより、似た様な閉店の報はいくつもあり、
寂しい感じがしましたが、閉まったあとはすぐに再利用される様なので
なあんだという感じもしました。

秩父の街中とは荒川を挟んで反対側にあり、いつも見慣れた町並みも
反対から見ると妙な違和感があります。

よく盆地の底と言いますが、ここから見ると秩父の町も全体が緩やかな
斜面の上にあり、荒川に向かって全て落ち込んでいるように感じます。

昨年ここで夜月を見ながらのピアノコンサートは、それはすばらしい
体験でした。

今回は新緑の輝かしい季節に聴くコンサートとなりました。

チケットが来てからピアノだけでなく、ソプラノが参加となって
いましたが、会場にてもらったパンフでさらにバイオリンのゲスト
出演があると知りました。

前回はテーブルもあり、飲み物もテーブルで飲めてゆったりとした
雰囲気でしたが、今回は狭い所にさらに椅子をぎっちりと詰め、
100人あまりが鮨詰め状態でした。

今回は全額集まったお金は被災者に寄付するのとの事で、出演者も
全てチャリティとのことでした。

とはいえ、ソプラノ歌手の人は背中の開いたドレスで着飾り、バイオリン
の人もドレスで手抜きなしといった感じでした。

三人でやったり、ソロでやったりしてあっという間に前半終わりで、
全体的に誰でもしっている映画の曲や定番曲だけやったという感じです。

参加者もいつものピアノコンサートで見かける人たちと微妙に違って
いたようです。

後半、三人で日本の童謡とか唱歌をやったのですが、これが四季
をテーマにしていたのですが、メドレーでよかったと思いました。

というのは、ふるさとを通しで聴いたらきっと泣けてしまった
だろうという気がしたからです。

2番3番の歌詞が特にぐっと来ますよね。

2番などは自分の親をつい思い出してしまうし、そのあとに
志を果たしていつか帰るんだぞとふるさとを思い出すなんて
どうしても泣かそうとしているとしか思えません。

でも被災地の人に聴かせるのはつらい内容です。

そんな事を思うとどうしても、うるうるとして来てしまいます。

アンコールでプッチーニの誰も寝てはならぬをやりましたが、
これは何度も聴いた曲であり、イナバウアとともに荒川静香の
舞を思い出す人もいるでしょう。

私は、パバロッティの歌を思い出してしまいました。

こうやって思い出すだけで、結構盛りだくさんのコンサート
の感じです。

終わった後妙な疲労感も感じました。

ピアノは、昨年と同じ幻想即興曲をやったのですが、なんか
物足りない。というか、一番最後の方がばたばたと崩れた
感じすらしました。

なんかおかしいなあという感じ。

ピアノのソロになると次元が変わるかのようなトリップ感まで
あるものの、いつもの深みに足りない感じでした。

ソロの中では、今回幻想即興曲より、シューベルトの幻想曲
第3番がよかったと思います。

ただ、ピアノの余韻もそこそこにすぐにヴァイオリンのソロに
なり、身近でソロを聴く機会もないので目新しさもあり、印象的
な体験となりました。
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楽興の時を聞く

2011年02月19日 23時01分34秒 | ライブ・コンサート・展覧会
またまた地元ピアニストのコンサートがあり、
行ってきました。

昨年の冬は幻想曲ばかりのリサイタルで前回は
ベートーヴェンのピアノトリオでした。そんな
シューベルトつながりで今回は楽興の時でした。

いつものホールなのですが、今回もピアノの
周りをいすで囲むサロン的なリサイタルでした。

それにしてもまたいすの数が少なくなっている
感じです。

前回のピアノトリオであれだけの演奏をしても
なんかピアノの先生と生徒関係の人たちしかいない
そんな感じのピアノリサイタルとは雰囲気の違う
集まりのようです。

それはとても音楽を聞きに来たと言う雰囲気の
人たちの態度とも思えない鑑賞態度であり、今回は
少ない観衆なのにマナーは最悪でした。

私の座った椅子の後ろに始まる前に椅子が足されました。

これは人が増えるのかと思いましたが、私の見える
ところから空席はいくつか空いており、なぜ椅子を
出したのか解りません。

それに加えてピアノの音までいつもより悪く感じます。

中音域で音がへたる様なところがいくつかあり、ぞっと
します。

観客だけでなくホールも異音を発てて雰囲気を悪く
します。

開始早々にはなんとありえないことに携帯の呼び出し音が
鳴り響きます。

あれほど電源は切っておけと放送しておいてもお年寄り
には効果ありません。

パンフレットをがさごそ言う音やなんとそれで顔を扇ぐ
やつまでいて、音だけでなく目にも入ってしまいとても
気分を害します。

そして、それら悪行はさらにエスカレートして、かばんを
落とす音とか咳やスタッフがカメラで撮ろうとして
赤外線のライトが照らされたり、スタッフの動きまで
あまり熱意とか熱心さが感じられない残念な雰囲気が
感じられます。

それはパンフにも現れていて、細かいミスで曲名のあとの
作品番号が間違っていたり、なんか全体的にレベルダウンした
というか、情熱が感じられないと言うか、どこかに慢心が
潜んでいるとか伝えたいという信念に揺らぎがなければ
いいがと思わずにいられません。

前回会場で買ったCDでトリオの名前がネーベンゾンネン
と言う素敵な名前であると知り、世界的な活躍に繋がる
のかと思いましたが、会場から感じるものは脇の甘さの
ようなものばかりでした。

しかし、演奏自体はどれもすばらしく、それはもう拍子
抜けするぐらいの物でした。

アンコールにスケルツォをやり、しばらくトークがあり、
トッパンホールでやると言うインプレッションの後、
せっかくですからとショパンをやるといいだし、
何がいいかと会場に問います。

何でも言えばやってくれるのだろうかと俄かに曲名を
叫んでしまいそうになりましたが、その前に本人から
ワルツですか?ノクターンですか?と問いかけがあり、
すかさずノクターンと声を出してしまいました。

しかし、私がやってほしかったのは2番の方ですが、
演奏されたのは嬰ハ短調の方です。

この曲は終わったときのポーズまで美しいのです。

一般人が弾くとくどかったり、最初の切ない感じの
旋律からのつなぎで破綻してしまったりしていて聞くに
耐えない物になるのですが、この人の場合はまるでそんな
事はなく余分な感情も余計なアクションもなく普通に
すんなりと聞くことができます。

これだけの技術と芸術性があるのだから、もっと
周りで気を使ってやらなければいけないのでは
ないでしょうか。

少なくとも観衆は近所の年寄りの寄り合いに出て来る
のではないのですから、それくらいは緊張して少しの
時間死んだように身動きも音も出さないでいてもらい
たいものです。

スタッフにももっと緊張とお持て成しの心を持って
地元に芸術をもたらす誇りと矜持を正して臨んで
もらいたいものです。
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ベートーベンピアノトリオを聴く

2010年12月27日 10時19分34秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日は、仕事の合間にいつもの地元ピアニストの
コンサートへ出かけました。

今回は、彼のソロではなく、ピアノトリオです。

ベートーヴェンのピアノトリオ傑作集ということ
で、当然あの『海辺のカフカ』の大公をやるもの
と思っていました。

ところが、やはり音楽的にはこっちなのか、第3番と
第5番幽霊だったのです。

これは少し肩透かしでした。

私もカフカを読み、100万ドルトリオのCDを買いました。

そんな日本の状況をしらないのか、フィンランドで
活躍するヴァイオリンとチェロの人と組んだからか、
当日このパンフレットをもらいびっくりとともにがっかり
したのは私だけだったのでしょうか。

いつものように演奏前に本人から曲の簡単な解説があり
ましたが、まったくこのことには触れられませんでした。

唯一どうしてベートーヴェンになったかと言うと共演者
とシューベルトのトリオをやってCD録音も果たしたあと
次にベートーヴェンをやるといいと提案されたのだと
いいます。

そんな解説の中、幽霊と言うニックネイムのいわれなど
話されてよいよ始まったピアノトリオはこれはまた
すばらしいものでした。

最初の一音からとにかくバイオリンの音に圧倒されました。

こんなになるものなのかと言う感じでした。

それも最初の出だしの一音を聞いただけで感動して
しまったのです。

これはあの紀尾井シンフォニエッタの時のバイオリンと
はものが違うという感じです。

考えてみればこんなトリオをこんな山の中の町で聴ける
と言うのが奇跡に近いのではないでしょうか。

そんな貴重な体験でした。
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月夜のサロンコンサート

2010年11月23日 21時41分47秒 | ライブ・コンサート・展覧会
いつもの地元ピアニストのコンサートに行って来ました。

いつもやるホールでなくて、昔ショパンなども小さな
サロンでよく音楽会を開いたのにちなみ秩父の盆地を
見下ろす小高い斜面に立つカフェでのコンサートでした。

演目もほとんどがショパンであり、小品のワルツや幻想曲
で、途中に箸休めのクープランの曲をはさむという構成で
月夜でドビュッシーの月の光とか水の反映と言った幻想的
な曲も似合う夜でした。

そして、私は中でもショパンのノクターンが胸に迫り
ぐっと来ました。

とてつもない美しく切ない旋律が月夜に映え、実に
美しく響きました。

ただ、ピアノサイドで聞いたのでいつもよりキンキンと
ピアノの音がきつく耳に刺すように響き音響的には
いつものホールに劣り、最初は耳障りでした。

普段はトークもなく進みますが、サロンと言うことで
客席とピアノが近く、曲ごとに一言はいる感じで、
より近くピアノ演奏が感じられる演出となっていました。

トークがあったかと思えばすぐに曲にはいっていて
その切り替えが余りに急に進み、音が消えるまで待って
拍手の時もあれば、まだ音が消えきらないのに、ピア
ニストのフィニッシュのポーズがあると即拍手が
はいり、少し興ざめ。

最後まで聞いてやはり、前半のノクターン2番がこの
夜最高の曲でした。

この構成の流れなら、後半は雨だれの前奏曲集のなか
から、恋人ジョルジュサンドとの恋の路行きの曲とその
破局の頃の舟歌と続くのが定番と思いきや、やはり
前半と同じ構成で最後の力一杯スケルツォを弾いて
終わりました。

まあ安定した持ちねたで勝負したということなのか。

サロンコンサートだからなのか。

肩肘張らない何もてらいもないいつもの曲という
感じで終わりました。

それでも私も文句も不満もありません。

こういうものなのでしょう。

途中のトークでは、フィンランドでカルチャーショック
を受けたと言う内容にもっと詳しく聞きたかったと
思いました。

聴衆も演者も音楽を欲している感じという話が印象に
残ったのですが、もっと具体的に話を聞きたかったと
思ったのです。

音楽の事はかなり具体的に現実に音を弾いてこんな曲と
か、こんな音にと具体的に示されたので余計そんな気持ち
を持ったのかもしれません。

美しい物を作るというのは、美しい精神とか魂とか技術
だけで済まされないものがあると感じる月夜のコンサート
でした。

難曲より、やさしいノクターンに聞き所があったと言うあたり
私がへそ曲がりなのか、演者のハートのせいなのか。
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紀尾井シンフォニエッタ聞いた

2010年08月22日 23時57分14秒 | ライブ・コンサート・展覧会
先日の『太陽を曳く馬』を読んでいたとき、そして、
ハーバード白熱教室を見たときと、つくづく人生に
おいて実に様々な問題が降りかかり、人はつまづき
一々考えあぐねることになりますが、しかし、よく
そういった問題悉く先人の答えがあり、考える痕跡も
あると感じていたのです。

それはこの夏見た美術館と展覧会でも同様に、人々は
美を求めたとき、人生について考えたとき、自我を
どうにかして取り除き取り払い次なる物を求めた時に
それはすでに誰かが考えていてくれて、もう答えのような
物まで用意されているのです。

人々はそれはうまく見つけられるかその答えにアクセス
する方法を知ればいいだけなのです。

例えば、セザンヌの絵を見て展覧会の人達の漏れ聞こえる
声は、やっぱり上手ねえだったのです。

お、お前らセザンヌは自信満々で展覧会に出品して出品作を
批評家にけっちょんけっちょんにされてそれで故郷に
こもって同じ山の絵をずっと画いていたんだよ。そう、
サントヴィクトワール山です。
CMにも出てくるようになり、知っている人も沢山います。

今回のオルセー美術館展にも一枚ありましたね。

私の前にいたおばさんふたり組は、そう。有名な山。といって
見ていました。名前は出てこないようでした。ですが、40枚
以上画かれたというのは知っていたようです。

モネなども同じテーマで何枚も画いていますが、ひとつには
プロなんだから注文があれば画くということもあるのです。
また習作というのもあるし、イメージを受けて画く場合も
あるのです。

テレビなどでよく、セザンヌの特集があるとその山の姿が
ちっとも絵の中のイメージと違うのでびっくりすることが
あります。

でも特長として、手前に松やら木を配置して裾野から連なる山容を
画いたものとただ山の頂付近をアップにしたものとあり、遠近法
に寄らない描き方を研究していたのか、画面にただものを再配置する
手法を模索したのか考えたら切がありません。

そして静物画が続くのですが、その反対にはいきなりピカソの
絵があります。

あまりに恣意的ではありますが、簡単すぎな見せ方ではないですか。

確かにセザンヌの残した言葉に自然を円柱、球、円錐によって扱い
表現すべきであるという言葉どおりの絵であるということなので
しょうが、それは後から20世紀の人達が考えたことで、ここで
注目すべきは、静物の描き方が実に面白い事を感じる事が一番
なのではと感じたのです。

それと同様に、彼の目指したものがただものを平面に写し出すこと
が目指したものでなく、チベットの仏教者が作る曼荼羅のように
宇宙を構成する姿、精神的な設計図を作る事が究極の精神的作業
なのではないかと感じるのです。

太陽を…でもそうで、高村薫も芸術も宗教もその目指す世界と
用意されていることはそれぞれ違う事をやっているが、人生に
おける役割は、その人それぞれの場面で自ずと現れる壁にぶち
当たった時にそれに答えるものが全て用意されているということ
なんではないかということです。

自我の拡張を求める人には様々な宗教が、人生を生きる意味について
哲学が答え、美その表現するものを求める人には、様々な画家が
色々なアプローチでその答えを与えてくれている。

こんなすばらしい事があるでしょうか。

そして、それぞれが何を目指して何を表現しているのかを突き詰めれば
より自由により拡張したものの見方が生まれてくることでしょう。

少なくとも、セザンヌの絵を見て上手ねなんていわないはず
です。

さて、そんなことを思いつつ、人はなぜクラッシック音楽を聞くのか
と改めて思ったのです。

今日は、横瀬町音楽祭で地元ピアニストが紀尾井シンフォニエッタと
共演するというので、横瀬町町民会館に行ったのです。

土曜日で道が混んでいて時間どおりに入れるか少しきわどい時間に
なってしまいました。

それでも5分前には席に着けました。そこで思ったのです。

バッハで音楽的なアイデアは出尽くしたかのようなクラッシック
では、手法やルールの確立はあったものの、20世紀にストラビン
スキー交響楽まで、回帰と革新が繰り返し、21世紀の今も出尽く
したということではないでしょう。

昔は、歌曲とかダンスとかその役割があったのですが、西洋の
交響楽を日本人がそのスタイルのままにやる意味というのは
なぜかというのはふと考える事があります。

そして、そんなことは前も考えたと気がつき、太陽を…のなかの
宗教は自我の拡大に美術は自我の開放にそれぞれ手法は違うけど
到達したものは同じだったという全ては心の曼荼羅について
やられたことだと思ったことに今度は音楽もそうだろうと
勝手に答えを用意したのです。

しかし、しかし。いやそんなつまらない考えは必要ありませんでした。

古い音楽とか西洋のただの真似という以外に、一流の演奏家の
生の演奏が何を表現するか、それをただ全身全霊で受け止める事が
新たな自分の曼荼羅を見ることになるのです。

前回地元ピアニストが幻想曲ばかりを弾いた時に、音の視覚化という
事を考えましたが、逆に今回は本来あるべき音を聞くということを
考えたり、音の余韻とかを意識しました。

しかし、そんな事を考えるまでもなく、今回の演奏は今までの交響楽
より、とにかく最初の一音で圧倒され体中の毛が逆立ちました。

今回の編成は、管楽器が参加しない小編成でありながら、本物とは
こうも理屈抜きですばらしいものなのかと最初から頭をがつんと
やられあとはずっとぞくぞくとしっぱなしでした。

こうも完璧にまるで一音符のずれもなくあわせられるものなのか。

音もそうですが、誰も自分のソロで勝手に自分だけで行こうと
しないし、全員がこうだよねと精神のレベルで一致している
そんな感じなのです。

まさに神がかり的なものを見て聞いた感じでした。

これに地元ピアニストは合わせる事ができるのか。

あの律儀なピアノをただまたぴとぴととやるのかと少し心配に
なってきました。

それもモーツアルトのピアノ協奏曲となるとこれはピアノの
力量が試されるところ。

ソロのパートでどんな弾き方でこの一流の皆さんに対抗し
自分らしさも出して弾きこなせるのか。心配になってきたぞ。

そうランランのように顔芸もないし、独特のパッションと魅せる
技もなく、ただ律儀に音符のなりに流れたようなピアノが彼らに
どう受け入れられるのか。

そんな心配は私のようなシロートが述べるまでもなく、音の
引渡しもリズムの滑りも全然違和感なく、彼のピアノは一体と
なったばかりでなく、その技術の高さもすんなりと表現したの
です。

ピアノのソロは、自分だけ目立つことなく、あっさりとその
早弾きのところも音の強弱もシンフォニエッタの皆さんに合わせ
それだけでなく自分の技術も十分に出したという感じでした。

音の面で会話できるかのようなこのやり取り。

すばらしすぎる。もっと違う大編成のオーケストラと共演したら
どんなだろう。

その想いとは裏腹に、今度後半にはさらに小編成でシューベルトの
ますをやるのですが、地元ピアニストのピアノソロでのますを
聞いた事がありますが、それとまるで違う、軽快なジャズっぽい
編曲がなされていて、元曲のダイナミックな音の変わり行く感じ
はなくなっていました。

これで地元ピアニストは退場して、少しトークしてもう演奏が
ないのでした。

最後のアンコールもシンフォニエッタがバッハのアリアをやった
だけでこれはあくまで主役シンフォニエッタで、ピアニストは
ゲスト参加みたいな感じなのかとちょっと不満に思いました。

普通は交響楽団に参加したソリストがひとりで得意な曲を
アンコール演奏するというのがよくあるパターンですが、
せっかく来てくれたシンフォニエッタなんですから、もっと
一緒になんかやってくれたらよかったのに。

そんな不満もありましたが、演奏はただただすばらしいもの
でした。

生のオーケストラも聞きに行きたくなりました。
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押付けの美について

2010年07月25日 22時44分34秒 | ライブ・コンサート・展覧会
埼玉にも美術館はありますが、これはという名品は
無いように思います。

わざわざ埼玉の美術館に絵を見に行くことも中々
ありません。それだけ、都内にいい美術館や絵画展が
多く、その近くでそれに対抗しうる物をやるのも
大変なのでしょう。

今日は、栃木の宇都宮美術館に行ってきました。

ここは、マグリットの『大家族』があり、いつか行って
見たいところでした。

今日出かけたのは、今日が最終日でゴッホの『郵便配達人
ルーラン』が見られるからです。

今年、安比高原に行った経験上、宇都宮なんてすぐだと
思って出かけたものの、中々大変なドライブでした。

森の中の美術館は、アプローチと大谷石の階段と途中の
彫刻と計算されたものをシンプルな構造の中に感じました。

名画に出合えるという気持ちを増長させる感じです。

今回、一番の目的のゴッホの絵より、陽咸二の彫刻や
大家族に強い印象が残りました。

それはジャコメッティに通じる形作ることによる
破壊であり、壊した事による創造です。

そんな事を考えると、計算された美術館の構造やそこに
企画された作品展より、商業的な美術展より、もっと
熱いものが見たいと感じるようになりました。

昨年、埼玉では西武の車両工場で芸術家が集まって見せる
催しがありました。

そんな商業的でなく、たいしたマスコミの注目もなくても
芸術家が勝手に集い勝手に見せる場所をつくり、人が自然と
集まってしまうところがあっても良いと思います。

いやこれはあるべきでしょう。

自治体主導でもなく、商業的な目的でもなく、ただ自由と感動
だけを掲げて自然と芸術家が集まり、作品を発表している
拠点が本当の美術展であり美術館ではないかと最後は思い
夏の美術を巡るドライブは終わりました。
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雨の公園の音楽会

2010年05月24日 09時11分25秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日はいつも走りに行く公園で地元
ピアニストのリサイタルがありました。

演目が

モーツァルトトルコ行進曲つきソナタ

『テンペスト』

シューベルト『遺作』

アンコール

ブラームス ワルツ11番

ベートーヴェンピアノソナタ『悲愴』第2楽章

でした。

久々の生ライブで、最初はピアノの音がこもったような
目の前のピアノの音が妙に遠く聞こえるぼやけた感じ
でしたが、段々音が立ってきてやはり生は良いと
感じるのでした。

特に『テンペスト』はCDでは何度も聞いている曲で
ありながら、聞いていてああこういうことだったのか
はじめて感じたのです。

音が実に立体的であり、CDでは和音の連続とあのリズム
の曲だったのが、音が視覚化しイメージが出来上がってくる
かのような表情豊なふくらみを感じます。

実にドラマ的展開でもともとシェークスピアの戯曲から
曲想を得たそうですが、その幻想的な物語がふと感じられる
音が見える、見せるような実に緻密に設計された音楽を
聞いているような物語を味わったようなそんな感覚でした。

その折々のシーンが音楽なのか視覚シーンなのか頭に
繰り返される余韻の中、実際の音の世界で水の入った
大きな袋からいくつも穴が開き水が漏れている感じに
なり、休憩時間をすごしました。

後半のシューベルトはこういうのもあるよ、こうだったら
どうだいという緻密に設計されたソナタとは違うながーい
曲です。

こういう生でだらだらなのもまた良いです。

実に豊な気持ちになれます。

世の中、ショパン生誕200年のイベントが目白押しなのに
なぜこの曲になったのかとコンサート前には気になって
いましたが、終わったときにはそういうことかという
感じになりました。

音楽の父系というかバッハを父にしてその後活躍した
大音楽家たちの偉業を垣間見たということなのでしょう。

ショパンのピアノだけというのも以前あったしね。
またやったら世に迎合した感じにもなっただろうし、まあ
いい選曲だったのでしょう。

アンコールに小品をやるのは恒例ですが、悲愴の第2楽章
というのはサプライズでした。

最近この曲は商業利用がはげしいですから、それにそった
ものなのでしょう。

本物はこんなだよという感じに聞こえました。

やはり生で聞くと良いです。こういう体験が出来るのは
貴重な事なのですが、意外とそれを欲求する人が少ない
のが残念です。

帰り道に彼を目的に全国からお客が秩父に来てくれるよう
になればいいのにと思いましたが、すぐにそれだと簡単に
今のように席が取れなくなるからやはりいまのままでいいと
思いなおしました。

今後どうなるのか気になりますが。
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愛し合ってるかい。聖地へ

2010年05月02日 16時08分12秒 | ライブ・コンサート・展覧会
あれから一年が経ったのです。

昨年はゴールデンウィークでのほほんとして
過ごしている時にいきなりがツンと殴られたような衝撃
でした。

忌野清志郎が亡くなって一年。

今日が命日です。

当然この日に何かしたいと思っていたのですが、彼の
ために何かするというとこの日に予定されたいたイベント
やコンサートなどに参加することが一番いいことなの
でしょうが、昨年の5月9日に集まったファンがどのように
今日を過ごすのか興味のあるところです。

葬儀があったのですから一周忌の集まりがなんかあるはず
ですが、そんな告知も無くただお墓はどこどこで一般の
ファンもお参りしてかまわないというニュースが飛び込んで
きました。

この知らせに葬儀と同じように5万人を超える人々が列を成す
一大イベントに参加する事になるのかという気が早くもして
さてどの様に出かけようかと考えました。

昨日そんな折に知人のブログに連休の秩父に芝桜を見に来たと
いうページを読み、絶対に混むこの時期になんと渋滞も
駐車場代もかからず楽しむことができたというのを読んで、
その解が朝5時に起きて7時に到着したという簡単なものでした。

そのことがどうも今回の自分のなすべき行動のように響き、
私も自宅を5時に起きて八王子まで向かいました。

道路はまったく混んでいなくてなぜかわくわくとした気分で
到着するも辺りはまだ朝の風情で近所の散歩の人たちがいるだけで
私のように墓参りの人はいません。

てっきりロックの神の聖地だから、一周忌で人が混み合いとんでも
ないことになると予想した事態もまるで手ごたえ無いような拍子
抜けしたような気分になりました。

まあそれを避けての早朝墓参りであったわけで、これが当然
と言えば当然です。

ただ、つづく次の行動として予定した八王子近辺の喫茶店巡りも
朝の7時とあって、喫茶店の開店時間までの3時間の消費を考えたら
そのままうちに帰る事にしました。

そのまま国立に行く事も考えたのですが、やはり連休の混雑が
予測される上清志郎ゆかりの地をそぞろ歩く気分でもなく、
このまましんみりと帰途に着くことにしたのです。

自宅近くなると市内に入る道は渋滞を始めていました。

観光に来た人々はよくこんな状況を受け入れてさらにつづく
混雑をよく味わうものだと感心します。

それも毎年繰り返されていることですから、人々のレジャー
欲というか、人と同じ事をして喜ぶひともいるということ
なのでしょう。

私はそんな人々と真逆なちょっと間抜けな聖地巡礼でしたが
十分満足な一周忌でした。
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バッハ、パルティータ全曲演奏会

2010年01月12日 00時05分49秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨年末聞いたバッハのつづきを9日の夜に聞きました。

前回と同じ、文化伝承館で行われましたが、前回より
全体的にしょぼい雰囲気が漂っていました。

会場入り口にいつもいる駐車場整備員もなく、案内看板も
でてなくて、本当に今日演奏会があるのかと訝る様な
雰囲気が漂っていました。

会場の配置は前回の時と同じですが、ピアノの周りに花も
なく、随分あっさりした雰囲気で、客席も空席が目立ちます。
前回は開演にはほとんど埋まっていた席も、最後まで埋まり
ませんでした。

普通、前半を聞けば後半も聞きたくなるもんだろうと思い
ますが、なぜ空席になったかは謎です。

前回から休憩の時間にお茶やジュースのサービスもなくなりました。

スタッフの人は、大勢いるのにこの寂しくなっていく感じは
どうしたのでしょうか。

会場入り口で渡されたパンフ類も極あっさりしたものでした。

冬の寒さとあいまってそんな寂しい始まり方でしたが、演奏は
前回感じたものとは全然違うものでした。

最初のパルティータ第2番ハ短調ですが、ほとんど楽譜を見ずに
何のためらいもなく進む手の動きは息をするのも忘れるほどの
すばらしいテクニックであり、音はともかく完全に度肝を抜かれる
というものでした。

前回、右と左のリズム主導が入れ替わるその右手でも左手でも
同じに弾けますよという確認のようだという印象しかなかった
感じより、今回は左と右のメロディが違うという曲で、更に右手で
弾いたリズムを左が追いかけるような繰り返しの曲でも右と
左のそれぞれ違う人が違うかのような難しさを何ごともないかの
如く普通に弾きとおしてしまうのです。

それは本当にそれは見事であり、息を飲む美しい手さばきという
動きでした。見せ付けるような手の動きや体の力のこめ方もなく、
自然体にこれができるのですから、これは相当な粋を感じます。

パンフによると四つのメロディを同時に弾く曲もあるとか。

この演奏でも三つのメロディが表れるとのことですが、奏者の
緊張が伝わる演奏でした。

こんなアカデミックな時間を自宅から歩いて気軽に享受できてしまう
ことに感謝し、次回の演奏会も必ず行こうと思うのでした。

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パルティータ全曲とノヴェンバーステップ

2009年12月14日 00時41分41秒 | ライブ・コンサート・展覧会
最近の海外テレビはどれも力不足で以前ほど面白くありません。

『ER』『アグリベティ』『コールドケース』『lost』『24』
『ドクターハウス』『プリズンブレイク』『ボーンズ』と
録画しては見ていますが、かろうじて及第点がlostとボーンズ
くらいで、ボーンズは最近見始めたのでそう感じるだけかも
しれず、どれも新鮮味がなくて面白く感じなくなっているの
かもしれません。

24なども米国の危機をスーパー捜査官が救うというのも、
だんだん身も蓋もない話になって来ていて、とんでもない
危険な状況もどうせジャックが助けてくれるんだろうで
片付いてしまう話になってしまい話に身も入りません。

それでもすっかり悪者扱いから、ctuもなく、クロエもいない
ところからいや実は、クロエいましたの時にはいやいやこうじゃ
なくちゃと思ったけどまたまた最近どうでもいいじゃん的に
なってしまいました。つまりぐだぐだ。

erはすっかり主役が誰なのか解らなくなり、戦うべき物も
何なのか解らなくなってしまいました。他の医療ものでは
erというところはいかれた連中が集うどうしようもないところ
という扱いなのが定着しており、銃創患者やホームレスが
たむろする地獄絵図もあまりインパクトがなくなり、米国って
ひどい国という感じばかりがいつも強く感じます。

さて、昨日は随分前から券を買っておいたピアノのコンサート
へ行ってきました。

いつもの地元ピアニストのシリーズ演奏です。

パルティータ全曲演奏というこれまた珍しい演奏会で、なぜか
年またぎで二回に分かれています。

今回は、いつもの会場とは違い中央にピアノを配した珍しい
観客席でした。

何かのミサみたいです。

それにしても客席が少ない。

数えてみると200弱といったところ。

入りが悪かったものの、開演の頃にはほぼ埋まっていました。

ピアノをやる人にはこの演奏は聞き所がたくさんあると思われ
ますが、そうでないと全然何がどうすごいのかとかこの曲の特色とか
難しいものです。

私の好きなNHK名曲探偵アマデウスならどう紹介してくれるのか
と思ってしまいました。

そのアマデウスは、同じ日の夜にみたのですが、なんと私の同級生
が出ていました。

それも曲の解説やら演奏の解説やらで何度も名前と演奏が出てきて
まるで自分がテレビに出ているような錯覚を覚えました。それだけ
見慣れた昔からなじみの顔なので、そうなってしまったのです。

それにしても名曲探偵始まって以来、現代曲であり、なおかつ日本人
作曲者ということでついに名曲の範囲もここまで来たかという
感じです。

そして感じたのは、バッハで音楽の全ては完成したかのような
全て出し切った感じの膨大な曲でも、後世の天才音楽家はそれに
ない物を次々に発明して今もなお作曲家は人々を魅了するものを
作り続け、それは日本人作曲家も同じことという止めを打たれた
ような印象を受けました。

バッバの演奏を聞いた後の武満徹だからでしょうか。

いやいやクラシックのねたなんていくらでもあるから多分まだ
まだ番組は続くでしょう。

くだらない海外ドラマぐらいシーズン24ぐらいまでやってほしい。
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心も冷える木枯らし一号の日

2009年11月03日 23時51分01秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日からどうも寒いと思ったら、昨日は
東京地方に木枯らし一号が吹いたとニュースで
いっていました。

昨日より、今日のほうが寒かったです。

色々午前中にやるべきことを片付けて、珈琲タイム
もないまま昼までばたばたと色々こなすと、左の肩と
首に猛烈な痛みが走り、首を動かすだけでぴきぴきと
痛むようになってしまいました。

肩のインナーマッスルが何本か切れたようです。

今週末また試合があるのに。

午後は、地元のピアニストがゲスト出演する音楽祭に
行きます。

いつもの得意な出し物5曲をやると案内をいただいて
いました。

本人の案内のほか、友人から自分も出るんだけどピアニ
ストも出るよと電話をもらったので両方聞かないわけには
行きません。

それに、先日の紀尾井町で聞いたペーター・レーゼルの
弟子ですから、月光は聞き比べなくてはと前々から楽しみ
にしていたのです。

しかし、実際に会場に着いたらそんな雰囲気ではなく、
なんだかどんどん心寒くなるばかりです。

来なけりゃよかったという思いは時とともにいや増し、
ショパンの幻想即興曲までは我慢できたけど後は絶対零度
へ向かうのでした。

同じ様な音楽祭がとなりの横瀬町であった時と比べても
なんか随分貧相な会に感じました。横瀬の時にはたしか
会費も払ってみたせいか観客もましだったような気も
します。

そんなことより、文化度がやはり我が町の方が低いという
ことなのか。

肩と首がずーんと痛くなる日でした。
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紀尾井町で聞いた異質の『月光』

2009年10月09日 01時37分28秒 | ライブ・コンサート・展覧会
何でベートヴェンのピアノソナタ14番は『月光』というのか
エピソードとしては知っていても、それに納得している
人はいないのではないでしょうか。

それは昨今横行している技巧を見せ付けるような演奏方法が
イメージとして昔詩人がつぶやいたような光景に結び
つかないばかりか、そもそも曲の持つメッセージとも
違うのにみんながこれを月光と呼び、慣れ親しんで
来たため、おかしなことになってしまったように
感じます。

台風の直後の交通の乱れた時に私は
昨日、紀尾井ホールへ日本ではあまり知られていない
ペーター・レーゼルの演奏を聞きに行きました。

日本ではまったくなじみのないピアニストですが。

日本というか、西側諸国にはなじみがなかったというか
東ドイツからソ連に学んでという経歴で知られていなかった
というだけなのでしょうが、私にはこの名前は地元のピアニスト
の師匠だという知識から、それが来日して演奏するという
これまた地元ピアニストのコンサートの時もらったチラシから
これは是非聞いてみようと思ったから出かけたのです。

当初、台風のほかにも重大な出来事があり、かなり前に
買ってあったチケットですが、行けないかもしれないと
半場あきらめていたコンサートでした。

しかし、予定通り行ける事になり、台風も無事通過して
雨もあがり、朝西武秩父線は止まっていたものの、午後には
当然動くものとして駅に行きました。

すると西武秩父線は動いているものの、その先の飯能-小手指
間が不通となっています。

急遽車で小手指まで行き、後は電車で行くことにして
うちに引き返しました。
車でそのまま行ってもよかったのですが、やはり電車の方が
時間通り着くので確実です。

都内のコンサートなのに席は満席ではなくてやはり知名度
のせいか知っている人は来ているがみんな飛び切りのベートー
ヴェンファンかピアノの先生かという感じの観衆です。

私の席は前回の川越でのコンサートと同じように前から3番目で
ペダル捌きや手の動きがよく見える絶好の位置です。

そして彼のピアノは本当にすばらしい。

今まで聞いてきた誰の『月光』よりも美しい。

そもそも月光なんてタイトルじゃやはりおかしいよ。
楷書というような彼のピアノを評する形容詞もこれまた
的を得ていないのです。

月光の出だしを聞いたときから息を呑みました。
まずそのゆっくりとゆったりとした指使いにいつも聞く
バックハウスの厳格も正統もかなわない崩れ落ちそうな
美があり、これ以上やるともう崩れてしまうそういう
ぎりぎりの危うさと破綻した魂を内包し、しかし、誰にも
真似できないたたきつけるようなしぐさでない力強さを
全体にみなぎらせているのです。

今まで聴いたことのないベートーヴェンでありながら、
これがそうなのかもしれないという確信が沸くのです。
バックハウス、ケンプ、仲道郁代、高橋望と誰とも
かぶることなく、何の誇張もなくすんなりと聞ける
ピアノでした。
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清志郎は死んでねえぞを聞きたくて

2009年08月15日 23時31分05秒 | ライブ・コンサート・展覧会
暑い日でした。

ここのところ泉谷がライブで清志郎の歌を歌い
清志郎は死んでねえぞとマイクパフォーマンスを
するのをネットの配信で見ていました。

彼のネット放送局で、祭りだ祭りだと騒いでいました。

奉納ライブを今日富岡八幡宮でやるというのです。

そうか。

じゃあ生で久しぶりに泉谷の歌を聞きに行ってみようか。

狭い境内で、ネットでももちろん地元の広報でもチラシも
できているので、これは相当の混雑が予想されます。

そんな暑い野外ライブに耐えられるだろうか。

それに境内に無事たどり着けるかと気になりましたが、
いやこれは生で死んでないを聞きいにこうじゃないか。

何せ奉納なんだから。

というわけで、門前仲町に行きました。

すでに地下鉄には、浴衣姿の祭り参加者が見られます。

ライブは、境内特設舞台で1時よりとなっていました。
私は、12時半には着いていました。すでにギターの音を
チェックし、何台ものカメラがその姿を捉えていました。
用意されていた椅子は、8割り方埋まり私は舞台正面のカメラの
横に陣取り、立ったまま始まりを待ちました。

カメラの所には今日のセットリストがありました。

テーマ
すべて時代のせいにして
春夏秋冬
雨上がりの夜空に
野生のバラッド
テーマ終わり

でした。
1時ちょっと前に泉谷が現れると一気に歌い、
客をあおり、一緒に強制スタンド&ジャンプと
客をいじりつつ一気にライブはのりのりで終わりました。

あっという間の40分弱のライブでしたが、熱く楽しい
時間を過ごせました。

周りではいいもん見れたという声や、すげえよという
満足の声が聞こえました。

生はいいなあ。
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即興曲の連続と何でエリーゼのために

2009年07月06日 01時04分38秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昔の作曲家というのは超天才といわれ、現役において
すでにスーパースターという人も最後はボロボロで
落ちぶれたしまったり、身体的にどこか病んでしまったり
と幸せな人生の人や世に最後まで愛された人というのは
まれです。

しかし、そんなクラッシックという分野がなぜ今も
繰り返し演奏され何度もあの曲はああだこうだといわれ
続けるのでしょうか。

最近では、流行の音楽でも個人の携帯プレーヤーでの
できごとで、世にいつも流れていて国民全てに愛される
などというものはなくなりました。

しかし、国民誰もが知っている世界中の人が知っている
メロディは今でもあるのです。

今日は、いつも聞きにいく地元のピアノ演奏家が川越
でコンサートをやるというので、川越の散策とピアノの
コンサートを楽しむ休日を堪能しました。

幸いなことに、天候もくもりと梅雨の降ってばかりの天候も
この日は少しお休みしてくれました。

往きは、いつもお出かけのときに定番のレッドアローで
いつもの時間に起きていつもの時間の電車に乗り、所沢
で乗り換えてそこからまたレッドに乗り継いで本川越に
着きました。

川越は今、テレビのドラマの舞台になっているとかでなぜか
人がたくさん散策していました。

今の時期なら、箱根や鎌倉が旬なんじゃねえのかといぶかしみ
ましたが、そのドラマの影響で中高年の団体がやたらいました。
話し声などから判断すると結構遠くの方からやってきて地元の
人が案内しているパターンが多いようでした。

私は、興味があったのは建物と自家焙煎の珈琲屋さんだけ。

みやげ物のいものなんたらなんて全然興味なしです。さらに
駄菓子の店も今となってはあえて足を向けたいとも思いません。
ただ、商店街や蔵の街並みは立派な観光資源だと思います。

古い店や商店が並ぶさまは秩父を思わせます。しかし、商店街や
機織工場が残る街並みは今はなく、空き地ばかりが目立つ山間の
町になってしまいました。

そんな昔の商店街の雰囲気がまだ少し残る大正ロマンあふれる
建物や、戦国時代から武士ゆかりのちでもあり、いざ
鎌倉への交通の要衝で、古くから栄えたのでこれだけ蔵の残る
おもしろいところになったのでしょう。

でも、埼玉県の都市の特長として、ちゃんとした整備計画が
整うまでに開発が進んでしまい、無秩序な発展と開発により
駅周辺の煩雑な町とそれに続く住宅街の連絡の悪さと閉店した
商店街など行政の無力さを示すものです。

それと、埼玉県に限ったことではありませんが、首都圏に
向かう交通ばかりが発展して、東西の交通網の不整備で
何事も中央頼みのお任せ行政も浮かび上がります。

よく美濃部都政と畑県政で道路行政や整備は大きなマイナスに
なったといわれます。

確かに効率の良い近代化がなされて、内需主導型の強い経済も
リゾート法などというばかげた法律など作って浮かれなければ
案外県北の工業化と東西交通網環首都圏交通の発展とともに
都内だけに集中しない産業分散も成功したかもしれません。

しかし、これが民主主義の残したものであることは間違い
なく、無駄の多い行政ばかりがはびこるこの国の問題点
でもあります。

大分話がそれてしまいましたが、蔵の街を楽しんだ後、
昼は割烹の店で天丼を食べ、これが実においしく、よく
観光地で食べるエビばかりの天丼と違い野菜と魚の配分が
よく、色々な味のてんぷらのうまさを堪能しました。

そして、よいよもうひとつの楽しみの珈琲屋ですが、
これが地元でよく行く店と良く似た店でびっくりして
しまいました。

ブレンドがNO1から5あるのも同じだし、お変わりすると
次から半額になるシステムも自家焙煎なのも同じです。
ですが、この店は自家焙煎を特別宣伝することもなく、
スペシャリティ珈琲の店とその特別入手の豆を強調して
いるところが入店のきっかけになりました。

飲んだのは、本日の旬というケニアの農園の豆でした。

ここの店も金属フィルターで淹れていてなんだかうちの
珈琲と同じ感じでした。

段々もうこれ以上の珈琲はないというところまできて
いるような感じを受けてしまいます。

よいよ御三家といわれる珈琲にご対面する時が来たと
感じますが、結果もおなじになるような気がします。

それと同じに、今回のコンサートも同じような感想を
持ったのです。

珈琲の豆がよければある程度の抽出技術で味が極端に
変わることはなく、焙煎の時期や仕方さえ間違えなければ
そうたいした差はないということです。

同様に、ある程度のピアノの技術者であれば、そうできに
差があるものではなく、超一流と一流の差はあるものの、
聞く側の欲求により、受け取り方は差がありますが、出来は
そうプレーヤーにより差が出ないというものです。

そして、この地元のプレーヤーは曲演奏に関しては、実に
実直であり、律儀という印象を持ちました。

今回は、手元がよく見える位置で見たのでその技術の高さは
申し分なく捉えられましたし、後は表現者としてどれだけ
のものを伝えようとするかという点では、ランランのような顔芸
でもなければ、早弾きという点では十分なものがあり、その正確
さも十分な表現があり、ただ、表現者としての情熱がどれだけ
聞くものに伝わるかだと思います。

それが実直さがあるだけに、パフォーマンス能力が今後どのように
変化するか興味があるところです。

音楽家は、時に病気やハンデや性格破綻などを持ちますが、それを
芸術家の魂として持ち合わせるから人々をより感動させより引き寄せ
たりするのでしょう。その時に不利な物がない十分に普通の人が
実直さだけで勝負したらどうなるのか、世の評価は今後どうなるのか
まあおもしろいではないですか。

ピアノ弾きは、これからまた人生を重ねてその解釈や実直さも変化
するでしょうし、精神に変化も受けるでしょうから、それを見、
世の中の評価も知ることとなるとすればそれはそれで楽しみだといえます。
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トビュッシーの夜

2009年06月14日 23時29分47秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日の夜は、またまた地元ピアニストの
コンサートに出かけました。

今回はオールドビュッシーのプログラムで
結果からいうとあまり楽しめませんでした。

というのは、やはり私はピアノ曲ならショパン
とかヴェートーベンのソナタとかバッハとか
ちゃんととヅンタタな曲でないとだめなんだと
感じました。

ドビュッシーの時代では、様々な詩人や画家が
活躍した時代で、インスパイアされる事象には
事欠かなかったのでしょう。

ドビュッシーの曲も試みもあまりに突拍子もない
ものであれ、えがこうとした物や志向した方向は
わからなくもなく、ただそうしたとしてやはりもの
足りないと感じました。

それは最後にアンコールで弾いたショパンのワルツで
はっきりしました。

やっつけで早弾きで弾いたような感じでしたが、それでも
その美しさに今まで聞いてきたドビュッシーとは違う
きらめきをしっかりと感じました。

そこで気がついたのが、ドビュッシーもピアノ単体だから
今回のような物足りない感じもしたのかもしれないという
ことで、これがオーケストラならまた余計絵画的な印象を
得たかもしれません。

ランランほどのピアノが弾むような強い引き方でなくても
やはり強弱のリズムがないとピアノのように消えてしまう
音は情景をえがく物としてはそれだけでは役不足なのか。

そんなことを色々考えながら、夜の町へ夕食を食べに
出かけました。

土曜の夜なのに、どこもがらがらでした。

そういえば昼食べた蕎麦屋でもそうでした。

すっかり消費が落ち込んでそれが定着したという
ことなのでしょうか。
ラーメン屋だけに行列が出来ていました。

私は、いつも行くすし屋で夕食にしましたが、
ここも普段こんなに空いていることはないのです。
座敷は人がいませんでした。

まあその方がいいのですが。

いつもの酒飲みがいてたぼこ臭くなることもなく、
ゆったりと食事できました。
ただ、最後のすしに来てまたがっかりです。
シャリがやわらかすぎるのです。

大好物の赤貝のヒモキュウを追加で頼んでいたのですが、
せっかくの赤貝もシャリがこうやわらかいとぶち壊しです。

まともな赤貝のヒモキュウ巻きも食べられなくなって
しまったのかと悲しい気分でした。
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