King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

『夜の谷を行く』読了

2017年08月16日 18時20分08秒 | 読書


猛烈な暑さがここ数日すっかり涼しくなった
この物語の終了と同時期同様な空模様の時に読み終えたのは
何かの符号かと思うようなシンクロぶりでした。

NHKのアナザーストーリーで浅間山荘事件を取り上げたときには
ダッカのハイジャックによる超法規措置により連合赤軍の犯人は
国外に逃亡し事件はまだ終わっていないと締めくくられていました。

この小説では、超法規措置により海外に逃亡した犯人は海外で
テロ事件を起こし逮捕されているという書かれ方をされ、事件の
解決を見たように印象付けられています。

連合赤軍事件をリアルタイムで見てきた世代としては
あとからドキュメントで見る事件の概要はなんとも驚きの
事実ばかりで、当時の関係者が語る物語としてはカップ
ヌードルがあの実況で売れるようになったというなんとも
的外れ的事実の紹介が世の中何でも経済で人に知られると
いうことがいかに大事かという印象を持ったのですが、
私はあの実況をみてもカップヌードルをすする警察官の
印象より警察がやる気を出すとこうもものすごいことに
なるんだというものでした。

カップヌードルというとどこかインスタント麺でも高級感が
あり、後にコンビニができるようになると簡単に目にする
機会が増えましたが、当時スーパーや小売店にはペヤング
などの製品しかないように記憶しています。

当時を生で知る世代としては簡単に興味本位で覗いては
いけないもののような気がして事件の全貌を書いた本やら
首謀者本人の書いた本が多数発行される中、当時の新聞や
新聞や週刊誌で得た知識以外に後に作られたドキュメント
など当時の関係者の語るインタビューなどは多くテレビ
などでみるものの逮捕者や活動家がどうなってどんな人生
を歩んだかはやはり闇の中のことでした。

そんな底辺を行くような世界を書かせたらやはりこの人の
力量はものすごく、本当の世界とか事実をよりコントラスト
を強くして浮かび上がらしてくるような力があります。

もともと小説として底辺を暴くような本はいくつもあるものの
西村賢太のような汚い世界を描いても別にそれが広がりをみせる
わけでもなく所謂私小説という作家の体験したものにとどまる
という小説の限界を見るようで人々はほんの興味から手を
とってしまうけれど何かしら本という以上その人なりの世界観なり
本にする必然を求めたくなります。

桐野夏生はその点、こういうルポっぽいものを書かせると非常に
光る作家だと思います。

一冊の単行本で読むより、人の手でしわっとなった雑誌の
連載で読むようなそんな作家です。

私がこの本を手にしたきっかけはラジオで複数の人が
読むべき本として取り上げ紹介していたからです。

それを耳にして本屋で探しても見つからず、本の題名も
あいまいだったことから作家名から検索しても本がなかなか
出てこないという売れてない印象でした。

しかし、ネットで書評や感想文はあふれていて、知っている
人は知っているということなのでしょうか。

当時、事件の舞台は榛名山のどこかだと思っていたら私も
よくスキーに行く迦葉山という有名な地だったとは意外でした。

いまなぜ連合赤軍事件なのかというようなことから本の紹介が
されていますが、やはり超法規的措置で国外逃亡しいまだに
各地で活動している彼らは存在していて今でこそ日本でそんな
テロなど起きないだろうという安易な気持ちの人も多い中、
かつて日本で銃撃戦が起きて三人の死者も出ていまだに犯人は
逃亡中という現実を認識しないといけないと思います。

ロス疑惑の三浦和義がサイパンで今更逮捕されてロスに送られ
自殺してしまうという結末と大震災と永田洋子の死という流れ
で昭和とその結末をやはり記憶に整理しておくことが人々に
もとめられていてオリンピックを控えた大事な時期に日本人の
こころとか震災とか各自の整理を促した物語です。

この物語の主人公が歩み家族とも疎遠になりさらにひとりに
なっていく姿は、聖書の物語のようです。

活動家はやはり殉教者と同じなのか、本来の結末としては
三浦和義のように海外にわたって逮捕という結末にする
つもりだったのがこの結末にしたことにより、より複雑な
物語になった感じです。
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太宰治と江戸川乱歩

2017年08月09日 14時01分13秒 | 読書
長生き台風で各地が被害をもたらし
関東でも竜巻注意報や大雨警報が
次々に出てその間に地震の情報など
あり、災害が繰り返される日本列島です。

最近、NHKのテレビ番組ではやたらジオ関係
の番組が多いのと何か呼応しているようで
なんの思惑なのか日本の成り立ち上しかた
ないということなのか、それとも新たな古事記
伝なのかという感じです。

最近やたらとパワースポットとか相撲とか日本人の
根本的ルーツをはやりにしてそれを真に受けた人たちで
たった数千円で開運やら安心やらを得るために人々が
行列を作っています。

秩父ではまず第一に三峰神社がそれに挙げられます。

人類の進歩とか科学的な発展とか発見から見れば
まったく意味がないこととして忘れらされるはずの
神社に人々が何を託して集まるのか。

本当にそのパワースポットに自身の人生を変えるパワーが
潜むと思っての行動なのでしょうか。

たとえば今人気の相撲も日本古来からのもので
神事であるといいます。

国譲りの物語で相撲を取って負けたので、出雲の
国は高天原の神々の大和の国になったということで
諏訪神社に負けた神は祭られ勝った方は鹿島神宮に
祭られているといいます。

さて、それでは秩父の総社秩父神社は日本書紀にも
出てくる古い神社といいますが、何の神が祀られて
いるのか気になります。

同様に皆さまが全国から殺到する三峰神社はどうでしょう。

古い神社は皆古事記に出てるく神が祀られでいて、
その神話上の剣だとか勾玉だとか鏡などがご神体と
して保管されています。

古事記とか日本書紀などは原本はないもののそれらに
かかれた神由来の品々が現存するというのも不思議な
感じがします。

実際に科学的検証がされることはないでしょうが、
所謂伝承とか文字とかがない古代のものが伝わるという
証拠として歴史的価値があるといわねばなりません。

そうなると実際にはない超常的な力が潜むとか言い始めて
も罪はないのかもしれません。

そんなものに近い存在が明治期の小説にもそんなものを
感じます。

その流れをくむ昭和初期の小説なども漱石から読み比べて
みると小説がいかに多くの人々を楽しまさせてきたかを
思い至らせ人工知能に多くの人の職が奪われ世界が変革
迫られようとしているときに芸術的創作物にはまだ幾許かの
猶予があるとホッとしたくなる思いに駆られます。

そんなわけで最近よく読むのが





これらはみなラジオの朗読の時間で聞いたもので
また読み返してみました。

最初に読んだのは中学のころでよく内容は解らなかった
ことを覚えています。

それなのにいきがった友達と悲劇名詞と喜劇名詞の出し合い
などしてその根拠を言い合ったのを覚えています。

そして銀座や神田にあこがれ太宰がよくあらわれ座った
椅子があるバーだとか三島が座った椅子がある店など
めぐったりしました。

今読んでみると太宰作品や生き方にカッコよさや
憧れを抱くというよりあまり近づきたくない、そばに
寄せたくないもののような感じがします。

江戸川乱歩なども北杜夫が昔伏字になっている本に
ドキドキしながら読んだというのを読んで読んでみましたが
ミステリー作品があふれた現代では『悪魔の紋章』など
直ぐ犯人が分かってしまうし
物語としてもそんなに優れているかというと三億円強奪事件やグリコ森永事件
などを経験した昭和の世代の人間には肯定しかねます。

グロテスクな事件とか血なまぐさい事件でもオーム真理教の一連の事件
とか連合赤軍事件や巣鴨信金籠城事件など小説を超えた世界で
強烈に印象に残っています。

そう思うとこれらの小説の価値というのも聖遺物的な価値しか
ないのかもしれません。
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『長流の畔: 流転の海 第八部』読了

2017年08月06日 09時51分08秒 | 読書

夏の木陰とエアコンの効いた部屋の友に本は欠かせません。

もちろん珈琲もなくてはなりません。

このシリーズはとても長いお付き合いで、私の人生の場面場面に
この本を読んでいたという記憶とともに重要シーンが思い返されます。

今回の時代はケネディが暗殺され、日本では新幹線の開通とオリンピック
の開催があり、日本が輝いた時代です。

この本には出てきませんが、発展の途中に公害問題や様々な暗部が
出てきて世の中の人も今より熱く人と人の結びつきやそれが織りなす
ドラマももっと熱く濃いという昭和の特長が軽く流されつつ、日本の
情緒性を能の場面などを取り入れ投影したり、日本人の醜さを
権力に関係なかったものがひとたびその力と地位を得ると容赦なく
執拗にその力を弱いものに使うという場面を見てきたと何度となく
醜い場面として指摘しています。

ロシアの文学が民衆を描いて輝いた時の小説のように大河ドラマ的に
一人の人生を時代とともに描く自伝的この小説は、日本人の心とか
故郷とかを思い返させてくれます。

前作にも能の場面やそれが描こうとする世界について言及があり
ますが、今回は月見座頭が伸仁の目から見た物語として語られ
感想としてすごくてその夜は眠れなかったというものでその物語の
筋を母に語って聞かせるのだが問題はその内容が正確に能のテーマ
となっているものと伸仁の語る筋のテーマにずれがあることに
この物語のテーマとしているものにもよりスポットが当たるような
謎があると思いました。

つまり、わざと高校生の目から見る月見座頭のテーマとしている
ことをずらして身分とか芸術を愛する人やその習性からくるもの
の方をあえて強くみせてこの小説のテーマとしているものを印象
づける狙いがあるのかと思われたのです。

周りの人々からは大将と慕われ、人望も経済的成功も得ている
ように見える主人公の松坂熊吾だが、ここまで四人目の妻にして
やっと長男を得、自らの女遊びでその妻に愛想をつかされ別居
状態となってしまうというこの物語の最後にきてこのような
家族分解状態になっているのをみると松坂熊吾はばかなのか
運がない運が尽きた状態なのかと思うだけでこの物語を堪能
した感じがします。

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『騎士団長殺し』読了

2017年06月11日 15時15分33秒 | 読書
このある意味華麗なるギャッビーのような物語を
ギャッビーの謎を解きすべてを露にして物語の終局と
完結を求めるのが小説家であり、どのような複雑で現代的な
謎を作り出すのもその技の内として華麗の華麗なる意味を
描き出したところで、様々なメタファーを直喩に言い換えただけの
ことになりはしないかというそんな考察のような作家の思惑と
手の内を明らかにしているようでいてその手の上で遊んでいる
という感じが展開する作品で楽しめる人と作品の力量を感じられ
ない人といるかもしれません。

私は華麗なるギャッビーも白鯨も大好きな作品であり、悪霊の
ように現代的な事件をモチーフにする作品も好きです。

この騎士団長殺しなる奇妙な題から何が主題になっているのかを
巧妙に隠し、複雑な人生の命題をちりばめ芸術と人とのかかわりをも
考えさせる展開はワクワクとして読み進められます。

奇妙な題と主人公の語りの下手な感じの文体の直喩止めのような
語りが定法的にとられ時には直喩が暗喩なり、イデアやら
二重メタファーとあえて手の内をさらすかのような定義をして
みせてまったくとぼけたキャラクターまで登場させています。

主人公が描く絵が未完成のままあえて完成させないという点や
描かずに仕舞ったスバルフォレスターの男の絵などこの作品の
芸術観とか見えているものと見えない世界とか全てを語りつくすに
値しないことを見事に表現してそれでいて皆収まるところに
おさまったかのようにして見せたのもなかなかの手腕です。

小説を書き始めたばかりの人のような繰返す比喩的表現と
章題の一節まる使い的な素人臭を前面に出した文体など巧みな
枠組みと雨田具彦といったスバルフォレスターといった誰もがしる
名詞のように使うことで特別な存在感を醸し出し思わずネット検索を
かけると実際のモデルがいたという新聞記事がヒットするなど
実にあざとい仕掛けになっており、難しい展開にするなあと
いう技量的な腕力を見せつける第1部-顕れるイデア編の読後の第一印象があり
ました。

今まで、誰も聞いたことのないようなクラッシクの曲をモチーフ
にしたり、ビートルズ好きで滅多に聞かない曲を持ってきたりと
やり方としてはこれは漱石の使ってきた技であり、小説技法です。
その焼き直しの域を出ない作家だと半ば決めつけてきたような村上春樹
観を持っていました。

さらにここのところの海辺のカフカや1Q84などは時代に迎合したり世間受けを
意識したような漱石的なところが多々見受けられ何かを待っているかのような
書き方でしたが、ここにきて本当に書きたい等身大からの初期の短編群に通じる
ものを感じさせてくれました。

と同時に実在の画家をモデルにするなど誰もが知るドンジャバンニという
オペラなどと日本画という相容れないものが交錯する絵とオペラと
戦争と過去、肖像画家が自分の描きたい絵を見つけ出しテーマも掴み
かけ、人生の命題と自身の生き方も見つけていくというあらゆる方向に
向く物語を作り出すという難しい設定にするなあとワクワクとさせる
力を見せつけてくるのです。

それに華麗なるギャツビーの免色なる人物までだしてメタファーの解放
という展開にまでもつれ込みます。

第一部での一番の見せ場は舞台設定として現実にいた作家のアトリエと
そこに残された絵の秘密とがどう明かされるのかということです。

しかし、ここで免色なる人物が出てきて雨田具彦の人生と華麗なるギャツビー
でああ秘密の行方は大体予測できてきます。

この一部での唯一の欠点というか私が気に入らない部分は、芸術的
表現で漱石は生がうまくいかなくなりそこに詩が生まれ画が生まれると
肯定的に芸術家を描きましたが、雨田の弟が自殺した原因に対して
ショパンをうまく弾くことだけの人間に現実面で正しき事は
望めないというように自殺したという表現に戦場では芸術家は無用であり、
無意味というところが引っかかりました。

雨田具彦の過去の秘密と謎の絵のテーマがその弟の死と自身の受けた
戦時中のトラウマを込めて騎士団長を殺すということになったとしたら
やはり芸術は世界を変えたり暴走を止めたり正しき道に留める力はないのかと
思えてしまいます。

ショパンを美しく弾くだけで新しいイデアを示して世の中を変えることや
新しい免色さんを作り出すことになったりしていいはずです。

ネット社会のせいで一代で世界のトップテンに入る富豪になれたり
するものの世界を動かすスーパーパワーにはアクセスできず、所詮
世の中を動かす支配階層にはなれないという現実にもっと新しい視点を
示すかのようなストーリーでもよかったのではと私は考えるのです。

第二部にはいり、免色の計画と主人公の芸術的成長があり、イデアの
開放により物語が展開するのですが、後半になるとこんな残り少なく
なるページでどう全てにけりをつけるのかとこちらの方が心配して
しまうような物語の進み方で、結局大きなテーマと現実的側面との整合性は
避けられてしまったかのような印象もありました。

ここでひとつ自身の心配を書いておくとこの主人公のたどる異世界の冒険と
いうか体験は全く同じ過程のものを私も夢で見ており、なぜだろうと色々と
探ると元となる物語がどこかで見たのです。
ええ
宇治拾遺物語の中にでも出てくるインド起源の古い話にあることであり、
各地の神話も色々と共通事項が多々あるのも何か元の事件があるに違い
ありません。

元々説話集として取りまとめられ保存したものがやがて散逸してしまう
という歴史の中で、話だけは古来語り続けられ人々の中に不思議なこととして
語り継がれているのです。

日本書紀の中にも地下のこの世以外に生霊を探しに行く話はあり、
そんな行動とは別にいやもしくはそのために騎士団長は殺す必要があり、
殺したことにより主人公にも芸術的展開と妻との再会という展開が
あるわけでそれぞれの謎は残ったのか華麗なるギャッビーのように
秘密を明かして主人公も死んでしまうという解決イコールカタストロヒィ
とならないところで、イデアを開放し殺して主人公の異界への冒険と
いうカタストロヒィで代替という何ともファンタジーな終わり方に
一抹の不満も残ります。

これは主人公が行動したことと説明的な最後のまりえの告白も騎士団長の
提案とそれにつながる手助けももしかして免色がアトリエに泊まりに
行ったときに行動するように騎士団長が助言すれば済んだことなんじゃ
ないかという疑問が残ることです。

つまりは最後の結末に必然がないのです。

この最後の冒険は必要であるとするならもっと免色の秘密もバランスも
踏み込まなくてはならないし、芸術家がただショパンを美しく弾くだけ
のものと表現されたところに収束され、芸術家は無用なものという結論に
行きつきそうでたまらなく不満と不安にさいなまれるのです。

この先はもっと行きがたいところだという手の内を明かしてしまった
ところにも不満がありますが、また楽しみも生まれたのでよかったのかも
知れません。

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『しんせかい』読了

2017年04月09日 12時51分49秒 | 読書



例によって文藝春秋にて読みました。


前回の芥川賞のコンビニ人間が面白かっただけに
今回の受賞作はまたあの時代におもねった売れる
為の作為に満ちた感じに変わり、文学性やら芸術的な
側面より商行為的に作られている感をどうしても抱かずには
おれないものでした。

文章も読みづらく、おかしな点が気になり、虚構を否定
したような告白も落胆を増した感じです。

日経の履歴書を倉本 聰が書き改めて注目が集まる中、
その倉本 聰が主催した富良野塾を舞台にした小説が
受賞したということが全てであり内容的には何も目新しさも
文学的感動もないというお寒い内容です。

でも、これを読み作品を読ませるために必要なことが
解ったような気もしました。

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『太陽の棘』読了

2017年04月05日 12時52分48秒 | 読書

沖縄には何度か行ったこともあるし、ニュースに
流れることもあり、南の島とかリゾート地とか
基地問題に揺れる町とかいくつのイメージが直ぐに
浮かぶ土地でもあります。

ただ、この小説を読みいきなり戦後直ぐの沖縄が
描かれ、今までそんな破壊尽くされ焦土と化し、
それても人々はたくましく生き抜いた土地という
イメージは一度も思い至ったことがなく、いきなり
衝撃を受けます。

本土戦という一番の激戦地であり、ひめゆりの塔
とかがまでの悲劇とか伝え聞いている事件はいままで
あるものの焼野原直後が舞台となった作品は非常に
珍しいと思います。

そして、この小説が事実をもとにしているというのも
非常に重く、かつ非常にうまく書かれていると実感
します。

これは外国人の視線という戦勝者からの立場という
特異な観点をとったことと描くのが芸術家という
特殊な人々でもろもろの陥りがちな罠を避け、人と
芸術のかかわりを描いたところにこの作品の持ち味と
作品の成り立ちの重要性があり、沖縄という日本にとって
戦後の繁栄の棘を思い直すきっかけになっていると
思います。

他にも領土問題とか日本にはいくつかの重要な忘れ
得ない棘があるのですが、何をもってこれを解決すべきか
まずはどちらにもくみしない冷静な目を持って追体験する
重要性を感じます。

私が訪れた「斎場御嶽」にもいまだに艦砲射撃を受けた
窪地があったのを思い出します。

観光地であり重要な聖地でも、あえてそのままに残して
ある点に深く沖縄の心を思うことになる光景でした。

今の日本人も結局ニシムイの画家たちと同じ、故郷で
ありながら何もできなかった自分たちが現地でできることと
して芸術村を作り活動するという心は日本人として
守り得なかった地という意識と同じ視線と重なりあうものが
あり、現地の悲惨さを今更暴き立てるのでなく、復興の
為に集まり活動する彼らの姿が米兵医師との交流で通じ合う
物として心打つという構造は何かの可能性と何かをもう
一度信じ託せるものに通じていると思います。

これはオバマが広島を訪れ安倍がパールハーバーを訪れた
ように勝者と敗者でできることがきっとあり、それは今後
またこのようなことが繰り返えされないように必要なこと
なのだと思います。

最近気になったのは、中国では日本と違い老舗というものが
ないということです。

日本には1000年以上続く老舗とか親の職業をずっと受け継ぐと
いうことが当たり前にあるわけですが、伝統とか職人の技とか
連綿と継承することが当たり前な世界と西欧の文化や技術を
柔軟に吸収するという能力もあるわけです。これは逆に特異な
特性かもしれません。

中国は文化大革命という悲劇のせいで古いものは排除すると
思っていましたが過去のものをすべて否定することから
現代を作った彼らに日本人と同じ文化に対する思い入れや
芸術に対するこころといったものが同じように理解され
尊ばれるとは思えません。

この日本人が持つ特性ともいえる礼節や美に対するこころとか
自然を愛するこころなどこそが世界遺産のようなもので、いくら
金や物質的に豊になったところで日本の様にはなれないのは
こころにそういう高潔な覚悟と審美的なこころがないと文化も
成り立たないのです。

そういう特異性を私は最近目立つタカ派的なものに結び付けて
はならないと思います。

歴史的に否定した教育勅語の教材復活とか銃剣道の採用とか
敵基地攻撃能力とかとかく物騒なニュースに何か勘違いして
いる人たちが増えているような気がしてなりません。

ニシムイの人と米兵士が理解しあえたように同じ目線を持つ
努力が必要であり、それこそがお互いの棘を取り去ることに
繋がるのだと確信します。

日本人が特異な民族と理解し優越を感じるのでなく、同じ
視線と文化を持ってもらうことこそが侵略とか格差とか
ポピュリズムから脱却できるのではと思います。
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銀河鉄道の夜の味わい

2016年10月17日 14時44分05秒 | 読書
昔読んだ時にはとにかくものがなしくて
突然友達がいなくなってしまう恐怖とか
どこの世界のことなのかわからいもどかしさとか
非常に厄介な作品に感じたものでした。

これが今なら色々な科学的な世界観と彼の宗教観が
生み出した傑作だとわかりますが、かつてまだ相対性理論や
時間と空間とか暗黒星雲とかブラックフォールとかが知られて
いないときに、この小説は童話ということにされ大事な科学的
検証とか理論的説明が省かれて顧みられていなかったことが
解ります。

星の王子さまは有名な童話ですが、それは人の体験や珍しい
動物や植物から来る博覧的知識から導いた物語であるのに
対して銀河鉄道の夜は科学的考察と宇宙観と人の生と別れを
絡めた小説なのです。

いまだに多くの人がこの不思議な小説に魅せられ科学的な説明を
すべく現実の研究の世界に入った人もたくさんいます。

それが最近の発見でアルファケンタウリに地球型の惑星があること
の発見があり、プロキシマケンタウリに水のある惑星があると考察
されたりと賢治の知見がこの最近の発見にまで及んでいるかのような
不思議さを含んでいるのです。

それは今まで通り、宗教観も科学的知見も関係なく童話として
味わっても味わい深いものがありますし、全く逆に今知られている
科学的知見と自身の持ち合わせる宗教観と照らしてみるのも
面白いのです。
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『コンビニ人間』読了

2016年09月17日 13時33分28秒 | 読書



例によって夏の読書のひと時として文芸春秋を常用し、
どこか夏の避暑地にと山の中の温泉か海辺のホテルに
出かけるのが毎年の恒例です。



しかし、今年はなかなか出かけられないばかりか、夏休みという
まとまった時間もありませんでした。

この本を読んだのも今月になってからです。

本の懸賞もすでに締め切りになっており、パズルを真剣に解いて
付属のはがきで出してみようかと葉書を見たら期限切れでした。

本は9月号ですが、これは8月中に読まれることを想定しているのです。

そんな当たり前のことに気が付きながら今更に読んだ『コンビニ人間』は
今までになく面白く感じました。

時代におもねり人気コメディアンの作品を受賞作にしたりこの芥川賞
事態に疑念と諦念に満ちてそもそもこの読書を続けるべきかとも感じて
いたのですが、この作品には作品の完成度よりも先にテーマといい
小説としての面白さを感じました。

何かとんでもないものを見てしまったような自身が何を見たがっていたのか
人間の根底にあるものとか人生とか色々なものをまざまざと知らしめるような
独特の世界があり、異様な人間の生きざまで自分とは違いそれでも現代とは
何かを知らしめてくれるそんな他人の生と社会の一コマから覗いているようで
いて実はもっと深い根底の部分を知ることになるのです。

それが解った時に人の世界という他の生命と違うものにふと感情という
ままぼろしに色々と思い至らせずにはおられずようになり、これぞ人間の
生だと感じるのでした。
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『スリジェセンター1991』読了

2016年07月07日 11時32分21秒 | 読書


世良先生の視線から展開する物語群が前回読んだブレイズメスとこの
スリジェとさらにその原初の『ブラックペアン1988』と三部作を構成
します。

私はブレイズ、スリジェ、ペアンという順番で読みそれはれでおもしろい
効果があったと思いました。

まず訂正しないといけないのは私は天皇陛下の受けた天野教授の手術が
静脈を使ったものだと思いましたが、これはあやまりで静脈同様動脈も
とっても大丈夫なところが何箇所かあるようで、1990年代は静脈を使っての
手術しかなかったらしく、この小説ではそんな過去を語ることにより
医療の行き先を考えさせる構造をとったのです。

改めて思うのは博打がモチーフとなっていることです。

手術とはもともと確率として成功がはっきりと残る医療行為で
これは命を博打にかけることと同様だとがん告知の際に患者が訴える
のですが、まさにそれが現実であり、人生そのものがいつもそんな
博打に似た決定の連続でもあるのです。

またその医療行為が経済力に左右されてはならないという当たり前の
ことが実はそうでもないという現実も垣間見られ我々に医療とはと
改めて考えさせるのです。

そんな意味もあり、自分の命を丁半博打のようなルーレットに掛けさせる
天城教授の病院はいくらバブルの絶頂でも作られてはならないのであり、
それが小説の中でも姿を現したくなかったのでこの小説の結末になった
のだろうと思わせます。

これはこれで予測もでき結末としても納得でさらに現代に通じる
世良が現代でどんな医者になったかも興味が持てる内容となって
います。

私はこの小説の後先祖返りのようにブラックペアンを読み、それは
それでまた楽しめ、なぜ過去を舞台にしたのかも理解したつもりです。

前作で感じた物語が何の盛り上がりも展開もなく、著者だけが見えている
ような書き方に違和感があったのもなぜなのか解りました。

これはまさしく読む順番が違ったからなのです。

そして世良先生が物語の主人公のシリーズといいましたが、
主人公は三作品ともスター的な登場人物がいて、世良は試験に
受かったばかりの新米であり、ラスボスと対決する主人公は
別にいるのです。これは三国志の書き方と同じで時代の英雄は
曹操であり、圧倒的勝者も覇者でもあるのですが、世はなぜか
蜀の劉備玄徳を正義の人のように正当な世の代表者としてみる
のです。

そして、後を継いだ孔明ができの悪い二代目を先代の意思を
つぎ苦労する物語が好まれるのです。

時代の成功者は孔明ではなく勝者でも司馬 懿であり、それでも
一般には孔明が三顧の礼で迎えられた最高の軍師となっています。

歴史などというのは斯くも見方や解釈により都合よく書き換え
られ信じ込まれるものなのです。

見る目を養い見極める力をつけることは肝心です。
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『ブレイブメス1990』読了

2016年06月15日 13時03分39秒 | 読書
たまたま立ち寄った古本屋でみつけた海堂尊の
『ブレイブメス1990』を購入読了しました。

チームバチスタなど映像化された作品も多く、一時は
ブームにもなった本でしたが、最近はこのシリーズもの
も随分ご無沙汰でした。

それにしてもこの本の題名の1990とはずいぶん古い本なのかと
手に取るのをためらわせる題名です。

バブルの絶頂であり、あまり思い出したくない時代である
あの時代が舞台なのかということで今手に取る本ではない
気がしたのです。

そもそも実際の世の中において心臓の動脈手術は何が最善で
最新の手技なのか気にかかります。

天皇陛下の手術は天野教授による静脈移植だったはずという
記憶がずっと気にかかります。

というのはこの本の中ではバチスタ手術という画期的手技が
最新であるが追試が待たれる状態でそれに代わる天城雪彦の
動脈換置術だというのです。

なぜこの手術が優れているかというと静脈バイパス移植だと
また何年かすると動脈が流れが悪くなるという予後の成績が
問題になったということです。

つまり、天皇陛下が受けた手術は万全ではなかったのかということです。

それだけでなく身近な心臓の手術をした人がみな数年後に
なくなっているという事実がそれに重なります。

そしてこの本の年代が二十年以上昔であり、本の中でも心臓手術の
技術も10年で進歩を果たすということから今は何が最新手術なのか
が気になったのです。

プロフェショナル仕事の流儀でも紹介された天皇陛下の手術をした
医師は数々のテレビ番組に登場しその手術のすご技が紹介されました。
それが静脈バイパス術です。

その予後が良くないとは本当なのでしょうか。

それともそれは克服されたのでしょうか。

なんかそんな疑問が残る小説でした。

彼の小説の特徴として芝居がかった登場人物と作者にだけ見えていいる
場面の映像があるようでチームバチスタというような聞きなれない言葉で
ひきつけて登場人物にドラマ展開を促すも願ったような動きを見せない
という例の方が強く、物語の盛り上がりが足りないような物足りなさと
がっかりな感じが付きまとうところもあり、この作家に付き合って
作品群を読み継ぐべきかどうか悩むところです。

別に医療と政治に一大改革をもたらす意見やシステムを持っている
わけでも暴きたいスキャンダルや正たい倫理問題が絡んでいるので
もないのです。

つまりこの先付き合ってもいいことないかなと思うところがこの膨大な
作品群に投資する価値を測ってしまうのです。

本というのは求められることが意外と多いのだと今更思うのでした。
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『行人』読了。空気を読む

2016年05月26日 16時19分28秒 | 読書
歴史小説を続けて読んでいましたが、
しばらくまた夏目漱石に戻りました。

そして、この作品に出合い、100年も前にして存在していたことに驚愕する
のでした。

例えば作品に出てくる空気が生まれたという現代に通じるこの言葉も
すでに漱石により使われていたという事実。

空気を読むという言葉がはやり言葉になったのは20世紀のことでしょうか。

漫才の突っ込みに使われてみんながそんな空気を意識したときに、もはや
明治の時代に空気を意識することは行われ小説になっていたということと
このテーマになっていることや描かれていることが現代に通じることばかり
で逆に精神世界において何の発展ももしかして我々は成しえていないのでは
と思えてきます。

多くの小説家が現れ、ノーベル賞をとるような作家も現れているのに、
漱石を古いと笑えないのはどうゆう事かと考えてしまいます。

あのいつもノーベル賞の頃になると受賞があるのではと騒がれる作家も
丸きり漱石の焼き直しでしかないと思えるし、作中にあまり聞く人もいないジャンルの
クラッシックの音楽を伏線として出したりする手法も漱石がよく用いる絵画と
禅の世界をタブらせたりする手法によく似ています。

そして、主人公は何も解決せず何も行動として残さないものの、なにかとても共感したり
何か重要な体験をした感じになるという不思議な感覚もよく似ています。

最後が手紙という形も漱石の小説にはよくある得意の形で独特の緊迫感が
漂い、現代の新聞もとらず手紙などもやり取りしない現代でも臨場感や
場面展開がよく伝わります。

兄さんがよいよおかしくなったという時に大学でテレパシーの実験をやった
などというシーンなどもそんな昔からこんなことがと思うほど古さを
感じないばかりか逆に自分たちがより進歩を示せないで世界には貧困と
欺瞞に満ちた混沌が渦巻いているという現状を憂うのです。
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『新書太閤記』について

2015年10月27日 14時38分11秒 | 読書
『新書太閤記』

今三巻目まで読みました。

最初何を今更という感じでダウンロードしてはいても
読んでいませんでしたが、丁度読むものがなくなって
読み始めたらこれが面白くてやめられなくなるという
そういう本でした。

今までいろんな人が新太閤記を書いており、そもそもの
物語とか歴史的な事実とか言い伝えはみななんとなく
頭にあるはずです。

それを新と銘打つからには何か新しい新機軸なり解釈
なりがあるのかという事ですが、私が読んだこの吉川英治
の作はやはり現代の視線と日本人の精神というものを
醸成するしくみになっていて読む人の共感を呼び起こす
構図になっているものと思います。

これは誰でも人生をある程度経てくると人としてとか
世の中とかに感じるものができてきてそれを人に改めて
示したいという欲求があるので、日本人の中で一番出世した
男の生涯においてそれを描き出してみたいと作家として
の腕が鳴るのでしょう。

まずこの一巻で気になるのはやはりなぜ秀吉は貧乏で
奉公も口ばかりで務まらずあちこち転々した男がなぜ
武士になり草履取から国を統べる太閤にまで出世した
のかということです。

一番有名な草履を尻に敷いたなというといえ懐にという
エピソードもこの本には出てきません。

懐に入れておくにしても泥の方を腹にしなければいい
のにと思えるこのエピソードはやはり後の人の創作なのか
とい思えてきます。


となると三日普請も峰須賀一族の登用とかも実情はどう
だったかという疑問も沸いてきます。

寧子との婚礼のシーンなどはその時代の人々の生態から
焼き直しであることは容易に想像できます。

当時の会社勤めの人が会社に忠誠して同僚とどうつきあい
いつもいき付けの飲み屋があり、何といってはそこに仲間と
集まりというのは当時の風情であり、現代また書くとすれば
また違ったものになるのでしょう。

ですから、この小説はあくまで小説として楽しむべきもの
で、これを読んだからといってどうして秀吉が天下をとったか
ということや彼のとった政策が後にどう影響したかという
検証には役立たないものと思います。

それなのにページが止まらない面白さがあるというのが
この作家の力量であり、昭和の激動とか元気だった時代を
も感じることができます。
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『虞美人草』読了

2015年10月10日 10時53分16秒 | 読書


『虞美人草』は若い時に読んだのと
随分違う印象を与えました。

色々な人が読んで酷評している部類の作品ですが、これは
『こころ』や『三四郎』のような人気の代表作と同様主張しているもの
はおなじで、手法も現代の小説に多大な影響と基礎になっている
物を含んでいます。

まずはモチーフに出てくる美術品や植物や人物像を見ていくと
このそもそもの虞美人草とはなんなのかというと縁日で買った鉢植え
であるとかなんとはないような道具立てで、登場人物もあえて
特別な人を想像したというより、ロシアの小説のような人を
書いてそれが勝手に動き出すかのような群像小説なのかというと
そうでもなく、得意の高等遊民とこれから世に出ていくであろう
若者とそれを取り巻く美人たちといかにもドラマが生まれる構図を
持っています。

地方の人にとっては都会の生き生きとした生活ととらえたでしょうし、
路面電車が走り、美術展や芝居小屋の描写や音楽の表現は文化の投影
として新聞から見る今の東京の世界であり、そのすべてを衝撃と興味
によって受け取られたのでしょう。

なかでも当時この藤尾という女性を新しい現代的な生き方として
そのファッションまでが人気になったと言います。

この物語の結末というかこの藤尾の最後の描き方も若い時に読んだ
のと今読んでみたときに、今はとにかくこの結末はかなり衝撃的で
手法的な物語だなと感じたのです。あざといという結末ともいえる
持って行き方で、そもそもなぜこの文体とふざけたような呼称とか
クレオパトラとか紫とか謎の女とか自由自在でありながら、やはり
最後躍動感とともに一気に終局に持って行く舞台転換と雨と車の
疾駆感など未舗装の道路と人力車なのに妙に絵が浮かぶ文体です。

そして、彼がテーマとしている真面目ですかについてはまとめて
後で書きたいと思います。

京都から東京という舞台転換と登場人物、どれも見事としか
いえない作品です。

よく、前期三部作、後記三部作という呼ばれ方で、だいたい
その代表作を読めば漱石は網羅したと同様という世間的評価が
あるようですが、とかく読み残されるものには独特の楽しみが
あるものです。

因みにポピーは私の好きな花です。

抱一と虞美人草のコラボなど漱石の遊びと人は言いますが、
これは小説ならではの表現なのです。

それをどう楽しむのか、藤尾をどう評価するのか、この小説
には多角的に楽しめるのです。
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『スクラップアンドビルド』読了

2015年09月17日 11時02分31秒 | 読書


今回の芥川賞受賞作の火花のもうひとつの方です。

このもうひとつの方という言われ方で日陰者の扱いのよう
ですが、内容と文体や構成など質としてはなぜ今回受賞作が
ふたつなのかの意味を知る所となっているようにも感じます。

まず感じるのは非正規雇用といわれる人々が40%を超え、
日本の将来の社会保障制度や国民皆保険などの社会制度が
この先維持できるのかという懸念を生んでいます。

そればかりか、人口減や高齢化社会など社会の持つダイナミズム
がそがれ日本がどんどん斜陽化していく近未来をえが描く人が
多くなっています。 

増える医療費や介護問題にどんな解決策や対応策があるのか、
向き合う人達に今潜む問題点と現代の社会構造にこの小説は
スクラップアンドビルドで人生が動いていくさまをまざまざと
見せてくれたように思います。

そこに新しい活力を見出すとか新しい形を感じるという事より、
自身の再生と老人との接し方にも変化があるというひとつの
モデルケースを通して現代を透過するという事がテーマだと
思います。

しかし、実際に我々が考えるべきことは様々なチューブや機械
につながれて生きる老人に対してどんなことができるのか。

人の人生と生きる目的や価値という本質を問うものが潜んでいる
ところに社会問題として解決すべき諸問題が重く立ちはだかる
のです。

先進国の中には安楽死を認める国が現れています。

そして問われるのは人間の終わり方です。

ただ楽に死にたいからの安楽死なのか、現在の日本の老人介護や
寝たきりの老人や介護施設の不足や介護スタッフの不足など
死にまつわる今後の問題に我々ひとりひとりが答えを見つける
ことが真のスクラップアンドビルドとなるのでしょう。
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『火花』読了

2015年09月14日 12時35分12秒 | 読書


芥川賞受賞という事で読んでみました。

同時受賞の『スクラップアンドビルド』があることから、この
本の意味というか受賞価値が自ずと感じられます。

なぜ芸人として完全に破滅に至る話か売れていくが新たな狂気に
陥ってしまうなど型としてはあるはずなのにあえて中途半端な数多
いる食えるか食えないかの芸人の話にしたかのかという疑問が
沸きます。

これはやはりこの本に出てくる諸々のイメージがどこか借り物というか
何処かで見た物語だったりにダブるのはいまいち鮮烈な読書体験に
至らない原因なのかと思います。

もっとこの人の話を聞きたいとかこの不思議な世界に浸かりたいという
ものもなく、どこかで聞いたような話の中でリズム感の悪い文章を
我慢して読んで行っても結局あまり面白くならずに終わったという
本でした。

尊敬する先輩はもっと破綻に満ちていてもいいし、その才能がある
という尊敬に値する人物なら終わり方として借金まみれになっても
臓器を売りそれをテレビで話して人気者になるとかの方がリアルで
物語が浮かび上がってくると思います。

そのような事例が所々にあり、まあ、そういうことかという受賞作
なのだと思いました。

この本の受賞の直後、太宰治が佐藤春夫に宛てた書簡が発見された
というニュースがありました。

芥川賞受賞を懇願する内容という中身の紹介があり、昭和を代表し
誰もが知る作家で今でもファンの多いあの太宰にしてもこれだけ
受賞にこだわっていたのかと思わせるこの事件と漫才師の受賞は
どうしても相反する行為のような思いにさせる作品のできだと
思いました。
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