朝、目が覚めふと窓の外に目をやるとドーンと武甲山が鎮座している。
この山容を見るだけであー守られていると安堵感が広がります。
そして、南北に流れる荒川。町の中心には秩父神社が鎮座し、北辰妙見信仰が古くから見られ、南北に流れる川は天の天の川に通じ非常に特別な地と古くから人々に信じられ日本書紀のなかにも登場します。
そもそも神社なのに妙見信仰がとも思われますが、元々インド発祥の星を神格化した教えは仏教とか道教とか散々まざりあって日本にたどり着き、天に星を眺め、地の川をたどり田を耕し、祭りをして人々は町としてきたのです。
今は暗渠になったり細々とした水路は昔は船で往来できるほどのものだったといいます。その水路に流れるのは険しい周りの山々からもたらされるものです。
我が家の近くにも湧き水や武甲山の伏流水など地下水も豊富です。
そんな自然豊な周りに山に囲まれ守られたような土地に文化の高い人々の暮らしがあり、それが時々に感じられるのが秩父です。
昨日もいつもの地元ピアニスト高橋望氏のリサイタルがあり出掛けました。
プログラムはベートーヴェンのピアノ・ソナタ3曲という贅沢なものなのです。
通常ですと三大ソナタ『月光』『悲愴』『熱情』ですが、悲愴の代わりに『田園』が演奏されました。
これは三月のリサイタルで悲壮を弾いたからということなのだと思いますが、まあ迫力というかバランスからしたらやはり悲壮をいれた方がいいと私は思いますし、やるべきだといいたかったのですがプレトークや回りの声を聞くと私と同じ思いの人はなく、生で聞けるなんて贅沢だ程度のものです。
実は悲壮は来月のコンサートでも演奏予定でならばここであえて田園を聞けるのはありがたいとも思えるし、演者としての真意はいかばかりかとプラトークをじっくりと聞きたいと30分以上前に会場入りしてしまいました。
会場にはいつもよりおしゃれをしてきましたとう感じの年配のご婦人方を中心に続々と集まり、8割方会場は埋まりました。プレトークは田園とは交響曲の田園とは違う出版社がつけたものでと教科書的説明があった
だけでなぜ田園にしたか特別に触れられませんでした。
そんな印象とは関係なくさくさくと演奏は進み最初の月光も終わります。CDで何度も色々な演奏者のものを聞いた曲で高橋望の師匠ベーゼルの生の演奏も聞いています。あの時は興奮して、帰りの地下鉄に向かう道すがらずっと感想をしゃべり続けたのを覚えています。
それからすると随分弾き方も印象も違います。
普通ある艶っぽい演出とか暴力的荒々しさとか色気や演出がどれもあっさりと排除され譜面通りなのかなというそっけないともとれるそつなくともとれる演奏でした。
ただ、それだけでないことも今回感じました。
それはピアニストの意識というか演奏で今意識している旋律とかマイクの前にたっているのは今は右手のメロディで次は左手のこの部分でと演者の意識のスポットライトが当たっているのが右手左手と移るのがCDなんかでもはっきり感じ取られるのですが今回の演奏では、全くそういうのはなく右手と左手でそれぞれ別の人が弾いているかのように独立している感じなのです。
特に驚いたのは熱情でした。
テンペストや熱情もよく聞くピアノ・ソナタですが、今回の三曲のソナタで一番強く感じたのは熱情で最後の一番激しいところの音の連打は今まで聞いたなかで一番激しく早いのでした。
そうなるとやはり一番ドラマフルな悲愴は余計聞いてみたかったと思ったのでした。
アンコールはヘンデル作曲メヌエットでした。
こんな特別なピアノが日常的に聞けてしまう秩父に暮らす醍醐味の一部なのです。
こんな世界的な演奏家が生で三大ピアノ・ソナタを聞かせてくれる贅沢。
いつしかドイツ大使感が後援につくようになったのも世界的演奏の証でありそれでも秩父中心の演奏活動をやめないというのも秩父に育ったという特別性が本人も感じてのことなのだと思います。
秩父の日々はこうして続くのです。
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