King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

華麗なるギャツビーと模倣犯

2016年09月22日 23時42分48秒 | 日々のこと
昨日テレビで見た『模倣犯』。
なぜいまさらというほど昔見た感じと話題になった
宮部みゆきの原作です。

宮部みゆきが直木賞をとって話題になり、色々と映像化
されましたが、すでにその当時ミステリーの大御所として
成功していたのになぜという印象とより加速的に賞により
有名になり、あらゆるメディアに登場するようになり今まで
通勤の友だった人がいきなりメジャーになったような売れる
とはこういうことみたいな現象を印象強く持っていた人でした。

それをなんでまたテレビで再ドラマ化したのか興味があり、
見ましたが、そして感じたことがあります。

それは何日か前にテレビで見た映画『華麗なるギャッツビー』です。

華麗なるギャッツビーといえぱロハートレッドフォードの主演で
映画化され、その当時はあまり好きなイメージでなく原作ともなじみが
なく、インパクトも感動もこんなものかという感じでした。

今回ディカプリオでなんでまた作らなくてはならないのかという疑問と
ともに見たのですが、映画の作り方というか映像化がもはやそうなのか
という感じのものを強く感じ、どんな絵でももはやつくれてしまうという
ダイナミズムとリアリズムからより求められる演技というものがあるのだと
いうことを思い知らされました。

ディカプリオの演技もつい地が出てしまうというあたりの彼がやるからという
すごみと傍観者としての役者対比とロングアイランドとニューヨーク中心街を
車で移動するときの映像と文学的距離感と抒情感が実によくできていて今の
映像だから可能になったのかという思いを強くしました。

ロングアイランドの湾を挟んで城のような豪邸を持ち週末に大きなパーティを
開く謎の男ギャツビー。

その隣にたまたま家を買ったばかりに傍観者としてことの顛末を
ひと夏経験する作家からの目線と位置関係を映画ならではの視線と展開で
見せられなおかつ時系列というものの見方を重ね合わせるとこうなるという
見事な対比であり展開だったのです。

役者の格とかギャップとかいろいろと面白く舞台とか小説とかいろいろと
考えることのある映画であり、またなぜ映画としては富豪に入れ替わると
いうような物語が好きなのか所詮どこかの馬の骨がみんな富豪とか上流階級
の正体という虚像の世界という権力と財力と恋の話とみんな詰まっているのが
このギャツビーの世界です。

この手法と模倣犯の時系列が行ったり来たり、誰かの視線での展開と
映像とその行ったり来たりぶりがこのギャツビーと似ていると感じたのです。

日本ドラマの場合、二時間ドラマなどテレビに出る俳優はみんなもう
見飽きた顔ばかりでみんな顔と役が同じ人ばかりで、違う面だとか味が
出にくいのが現状です。

そんなところで今回のもう見た原作をなぜまた現代に出す必要があるのか
それがあるのであえて見てみましたが、これがなかなか楽しめました。

現代に置き換えたのでネットやらスマホやらデジカメやらの使い方も
よく、落ちの使い方も違和感なく劇場型犯罪者がその枠の中で敗れていく
見ている方のカタルシスも果たしてくれる解決など工夫されています。

日本のドラマならではの台詞と役者の演技なども決まったようなかつての
絵回してなく、パソコンやらテレビのザッピング的な絵使いになり、時系列
も行ったり来たりを繰り返してスピード感と緊迫感をだし、それでも一本
筋を通したかのような家族の絆とか信じていてくれる人がいる大事さなどを
だして、ドラマを引き締めています。

もともとひょうきんな味のある橋爪功の演技などもじじいとしての位置と
一本筋の通ったところが良く出ていました。

杉本哲太と中谷美紀の夫婦はミスマッチな夫婦として違和感がありましたが、
主婦ライターと学歴のない鉄工所の次男坊という設定であり、わざとそうなって
いたのかという感じでした。

演技としては、やはり哲太より格段の主役中谷という感じですね。

判に押したようななじみの顔の俳優陣でしたが、中には初々しい人もいて
それがより新鮮でよい演技でした。

これも計算なのでしょう。
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