King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

珈琲の味深まる

2023年09月03日 13時14分45秒 | 珈琲
ロスコの話が出てくるとここで触れなくてはと思うのが高村薫です。あの日経の連載の突然の中止で作家生命は致命的損傷でもう活躍を見込めないかと思ったらさにあらずその後もその作家スタイルを深化発展させたのです。
彼女がNHK日曜美術館に出てロスコの画を見てこんな小説を書きたいと言ったのは多くの人の心に刺さったシーンとして語られます。
一方秩父出身の落語家たい平氏は笑点に出てから全国区の人気になりテレビにもよく出ますが、本家落語家として古典落語も真剣に取り組み高座にもでます。そしてテレビで高座に上がりよい落語を演じるために芸術作品の鑑賞は欠かさないといっていたことがあります。私はこれは非常な違和感を感じました。彼のポジションは茶の間の人気者、笑点のタレント化した落語家であり林家というのは代々そんな存在です。古典落語を彼がやるというのも需要があるのかその情熱は何からもたらされるのか元々体力と奇抜さで得たポジションを大事に維持するのが生き残る道なのに古典落語を芸術体験をして感動できるものを作るとはどこから発想されたものかと。
ずん喫茶に出てきた珈琲の自家焙煎店のマスターが珈琲の蔵書を飯尾に誉められて言ったのが珈琲の本を読んでも珈琲の味はよくならないといっていました。飯尾は芸風とその持てる力からそれ以上の会話をやめて食レポになりましたが珈琲屋はそんなのが多いのです。
そして、秩父のピアニスト高橋望氏は難解なバッハの曲を繰り返し演奏し、自らその曲のレクチャーまでする、それを聞くとなにがどう難解で総花状態なのがよくわかるがなぜ現代ピアノで再現演奏みたいなことをしなくてはならないのかは語られない。でも聞いてみると最初と最後のアリアで戻ってもそれはもう違うものでありもとに戻ることはできないというtsエリオットの引用も妙に心に落ちるのです。
多くの芸術家やら芸能の人が自分の世界や芸術世界を広げたく精神世界の拡充に腐心するがそれは多くの一流に触れ感動し心を満たすことで完成でしょうか。
それは私自身毎日夜10kの距離を自ら走り自然との対話があり出来上がっている部分があるような気がします。
ただたい平がやったように自分の努力を語るのは楽屋話で実際にはライブで形に残らない一期一会の世界で感動が残らなければ何にもならないのです。
珈琲も飲んで感動や他のものと違うと想わせてこそであり舞台裏や自分語りは意味がないのです。
ただいえることは自身が感動できてないものに人の感動は得られないことです。多くのアーチストや料理屋で自らのパフォーマンスの感想を聞きたがります。忌野清志郎がいっていた自身は最高の音楽を届けた満足感があり感想とかどうでもいいですといっていたのが印象に残ります。
まあそんなわけでこれからはこんな珈琲シーンにこんな豆をという形でお送りしたいと思います。
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