いつも夜のランニングでは雨と雷がセットで星が出ていて今日は大丈夫と思っていても影森辺りでは空も黒さをましてバシャバシャと降ってきたりまた市内に戻ると丸で雨など痕跡もなく乾いた道路だったりといった具合です。
8月の最後は色々の思い出とともにこの時期ならではのイベントも加わって様々な思いが去来します。
そのバックグランドには夏休みに出される大量の宿題に苦労した思いが今でも消せず背景に残っていることと今の自分と重ねておもうこととか複雑に重なりすんなり処分できない気分です。
こんな時に思うのは昔は友達でも親戚でもなにかにつけしょっちゅう顔を会わせお互いの家に行き来し、なにかと緊急呼び出しとか深夜の訪問も頻繁でした。
なにかとなにか作ったとか取れたとかで最初呼ばれたものが今思い出すものを重ねると家具の移動とか家電の配線とか組み立て家具の組み立てとかパソコンの設定だとかに呼ばれたことで友達とか親戚だから行き来していたというより何らかのレスキューだったり便利屋的なことで行ったり来たりしてたのかと思えてきます。
というのも昔の仲間とバスケットの試合で再会したりしても昔のただ楽しかった頃となにか違う違和感を感じているのです。
そして、新の課題のように襲うもろもろの事件もあり、昔はいつも顔を会わせていた人達が最近はすっかりご無沙汰のことが多いと改めて感じたり。でもこのお盆で同窓会のような会があっても私はそんな暇はないと出席しなかったり、そもそも人と遭おうとしないのは自分の自身の中の問題か。と、思ってみたり所詮用がなければそれでよいとしてみたり、中間決算の前と新の課題と残した夏休みの宿題など山積みの仕事の前に朝の珈琲であれこれ思索にくれるのでした。
今朝の珈琲はエチオピアのイルガチェフです。
エチオピアの珈琲はイエメンの内線やイスラエルの戦争で、紅海の封鎖ともうはいってこないといわれたのですが、何故かどこの商社でもエチオピアの豆はあり、なくなるから買えといわれます。
高すぎて売れなかった豆もイルガイェフは売り込みが多いのです。
しかし、どこの何がというのを知らないとこの安売りの豆を買うにも値段だけでは買えません。
投げ専門で培った情報の積み重ねとやはり自身の舌で味わうという行動で見極めた豆だけを買いこれだけ値上がりの激しい中生き残りに必死に激流を抗い続けている感じです。
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