といっても、20数年昔の職場仲間の年に一度の飲み会が金曜日にありました。
この職場は、いわゆる法人向けの営業部門の中に新設された部署でした。
この新設部署には、色んな職場から、それぞれの知識と経験を有したツワモノの集まりといっても過言ではない
異色の職場でした。 当時のIT技術を駆使した“お客様の課題・問題解決”を主眼とした営業スタンスで、
いまでは当たり前ですが、当時としては(特にこの会社としては)初めての試みで、
何をどのように進めて行けばよいのかも分からず、すべて自分たちでその方法論を決め体制を決めて取組んで、
それなりの成果を収めていた自他ともに認める力のこもった職場でした。
そんな仲間の集まりでしたから、あれから20数年経っていますが、みんな元気で既にリタイアした人もいますが、
大企業の社長や監査役で頑張っている人もいて技術も環境も一変していますが、
それぞれの近況スピーチの中には当時の思い描いていた熱い思いが今も変わらずその片鱗が受け止められるのでした。
自己の想い出話になりますが、会社のこれまでの事業スタンスはシステムや機能を説明して売り込む、
いわば“押し売り式”のやり方‘(販売)でしたが、新設の職場は“すべてを受け入れて”
お客様の問題を解決する・・当時の言葉でいえば、“ソリューション”提供型(提案営業)の部署でした。
お客様の課題や問題を抽出して、それを解決する手段の提案から運用までのトータルなインテグレーションを
目指した職場でした。
お客様とは、超一流の全国規模の大会社700社あまりで、検討依頼も勿論ありますが、自主的にこちらから
課題・問題を抽出しては、お客様のどこに提案を持ち込むかも含めて当方で思案しながらの戦略?を
めぐらした戦法のようでした。
ひょっとして、お客様を困らせていたのかもしれませんが、結果的にはかなりの割合で受注していましたから
むしろ喜ばれていた・・?
この職場は、お客様の課題・問題を抽出して提案する“上流工程”を担当する部門50名ほどと、
それを実現するための設計・構築する部門にわかれ総勢200人くらいの規模でした。
更に実際には、メーカーや専門事業者への発注をしますから全体としてはかなりの事業規模ではありました。
恒例の飲み会に集まるのは、この上流工程を担当していた仲間たちです。
やはり、それぞれに当時の苦心や活躍が心に残り、それなりに充実した自信が後の職場へと繋がってきた
そんな思いがあるのかもしれません。 現在のそれぞれの職場は違っていても、そこに流れる精神は
今も共に分かり合える、楽しさを実感した飲み会でした。
少し早目に出かけたので、始まる前に日比谷公会堂が80周年記念とかで、懐かしいポスターなどを
展示していましたので、ちょっと覗いてみました。
東京市長であった後藤新平の主張により、1929年に竣工した、「東京市政調査会(市政会館)」
およびそれに併設する公会堂である。コンサートホールとして、内外の著名な演奏などが繰り広げられてきた、
そんな歴史が伺えました。
公会堂に隣接する、日比谷公園では錦鯉の展示会場としてその準備が行われていました。
(ウイキペディアより)
当時の職場を思うとき、なぜかナバロンの要塞、荒野の七人の映画を思い出します。
この職場は、いわゆる法人向けの営業部門の中に新設された部署でした。
この新設部署には、色んな職場から、それぞれの知識と経験を有したツワモノの集まりといっても過言ではない
異色の職場でした。 当時のIT技術を駆使した“お客様の課題・問題解決”を主眼とした営業スタンスで、
いまでは当たり前ですが、当時としては(特にこの会社としては)初めての試みで、
何をどのように進めて行けばよいのかも分からず、すべて自分たちでその方法論を決め体制を決めて取組んで、
それなりの成果を収めていた自他ともに認める力のこもった職場でした。
そんな仲間の集まりでしたから、あれから20数年経っていますが、みんな元気で既にリタイアした人もいますが、
大企業の社長や監査役で頑張っている人もいて技術も環境も一変していますが、
それぞれの近況スピーチの中には当時の思い描いていた熱い思いが今も変わらずその片鱗が受け止められるのでした。
自己の想い出話になりますが、会社のこれまでの事業スタンスはシステムや機能を説明して売り込む、
いわば“押し売り式”のやり方‘(販売)でしたが、新設の職場は“すべてを受け入れて”
お客様の問題を解決する・・当時の言葉でいえば、“ソリューション”提供型(提案営業)の部署でした。
お客様の課題や問題を抽出して、それを解決する手段の提案から運用までのトータルなインテグレーションを
目指した職場でした。
お客様とは、超一流の全国規模の大会社700社あまりで、検討依頼も勿論ありますが、自主的にこちらから
課題・問題を抽出しては、お客様のどこに提案を持ち込むかも含めて当方で思案しながらの戦略?を
めぐらした戦法のようでした。
ひょっとして、お客様を困らせていたのかもしれませんが、結果的にはかなりの割合で受注していましたから
むしろ喜ばれていた・・?
この職場は、お客様の課題・問題を抽出して提案する“上流工程”を担当する部門50名ほどと、
それを実現するための設計・構築する部門にわかれ総勢200人くらいの規模でした。
更に実際には、メーカーや専門事業者への発注をしますから全体としてはかなりの事業規模ではありました。
恒例の飲み会に集まるのは、この上流工程を担当していた仲間たちです。
やはり、それぞれに当時の苦心や活躍が心に残り、それなりに充実した自信が後の職場へと繋がってきた
そんな思いがあるのかもしれません。 現在のそれぞれの職場は違っていても、そこに流れる精神は
今も共に分かり合える、楽しさを実感した飲み会でした。
少し早目に出かけたので、始まる前に日比谷公会堂が80周年記念とかで、懐かしいポスターなどを
展示していましたので、ちょっと覗いてみました。
東京市長であった後藤新平の主張により、1929年に竣工した、「東京市政調査会(市政会館)」
およびそれに併設する公会堂である。コンサートホールとして、内外の著名な演奏などが繰り広げられてきた、
そんな歴史が伺えました。
公会堂に隣接する、日比谷公園では錦鯉の展示会場としてその準備が行われていました。
(ウイキペディアより)
当時の職場を思うとき、なぜかナバロンの要塞、荒野の七人の映画を思い出します。