米国のペリー提督がポーハタン号で1854年(嘉永7年)に下田へ来航した・・あの黒船のことです。
狂歌・・「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」は、当時の模様を呼んだものですね。
“上喜撰”は緑茶の銘柄だそうですが、もちろん“蒸気船”にかけていて、
緑茶をたった4はい飲んだだけで眠れなかった・・わずか4隻の蒸気船が来ただけで国内が騒乱して大騒ぎとなった・・んですね。
4隻のうちの一つ、“サスケハナ号”(ウイキぺディアより)
(蒸気外輪フリゲート 3,800t)
このように見ると、あまりおめでたい話ではないのに、“なぜ黒船祭”なのか?
この祭り、ちょっといい加減?なところがあるようで、当時、開港80周年を記念して、
第1回の祭典を昭和9年4月20日に開幕、2週間の日程で繰り広げられたとのことですが、その頃、
東京音頭が流行し、神戸港祭りも華やかだし、ここはひとつ「何か一つ、ぱぁっとやらければ駄目だな」と
町役場と保勝会(観光協会)で発案されたとか。
その後は、例年5月の第3土曜日あたりに開催されているそうです。
理屈的には、幕府側全権と日米和親条約付録下田条約を了仙寺で締結し、薪水供給基地として下田が開港され、
さらにハリス総領事が柿崎・玉泉寺へ日本最初の米国総領事館を設置して幕府と日米通商条約を締結しました。
そして、安政5年(1858) 下田条約は日米貿易に先鞭を付け、日本開国と近代化を推し進める契機になった・・
とされています。
玉泉寺 と ペリーロード
玉泉寺や了仙寺は、よく知られた観光名所で今日も多くの人が訪れていますね。
季節も良く近くでもあり、ちょっと出かけられては如何でしょうか。
以前、何度かこのあたりに行ったとき、お昼時に近くのお店で食した金目鯛の煮つけが大変美味だったことを思い出しました。
電車で行ったとき、偶然このような展望車“黒船号”に乗り合わせたのでした。
狂歌・・「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」は、当時の模様を呼んだものですね。
“上喜撰”は緑茶の銘柄だそうですが、もちろん“蒸気船”にかけていて、
緑茶をたった4はい飲んだだけで眠れなかった・・わずか4隻の蒸気船が来ただけで国内が騒乱して大騒ぎとなった・・んですね。
4隻のうちの一つ、“サスケハナ号”(ウイキぺディアより)
(蒸気外輪フリゲート 3,800t)
このように見ると、あまりおめでたい話ではないのに、“なぜ黒船祭”なのか?
この祭り、ちょっといい加減?なところがあるようで、当時、開港80周年を記念して、
第1回の祭典を昭和9年4月20日に開幕、2週間の日程で繰り広げられたとのことですが、その頃、
東京音頭が流行し、神戸港祭りも華やかだし、ここはひとつ「何か一つ、ぱぁっとやらければ駄目だな」と
町役場と保勝会(観光協会)で発案されたとか。
その後は、例年5月の第3土曜日あたりに開催されているそうです。
理屈的には、幕府側全権と日米和親条約付録下田条約を了仙寺で締結し、薪水供給基地として下田が開港され、
さらにハリス総領事が柿崎・玉泉寺へ日本最初の米国総領事館を設置して幕府と日米通商条約を締結しました。
そして、安政5年(1858) 下田条約は日米貿易に先鞭を付け、日本開国と近代化を推し進める契機になった・・
とされています。
玉泉寺 と ペリーロード
玉泉寺や了仙寺は、よく知られた観光名所で今日も多くの人が訪れていますね。
季節も良く近くでもあり、ちょっと出かけられては如何でしょうか。
以前、何度かこのあたりに行ったとき、お昼時に近くのお店で食した金目鯛の煮つけが大変美味だったことを思い出しました。
電車で行ったとき、偶然このような展望車“黒船号”に乗り合わせたのでした。