突然、加賀百万石のお殿様が出て来ましたが、3月3日(旧暦)が忌日でしたので、取り
上げてみました。
前田利家公といえば、大方の知るところですので、簡潔にピックアップしてみました。
世渡りがなかなか上手な、したがって忍耐強い人かとも思っていましたが、なんの若い
頃は、気短で“かぶき者”といわれ、槍の名手で、戦好きで 結構戦功を挙げて、信長、
秀吉の側近として活躍したのですね。
もう少しだけ細かく見てみました・・。
前田利家は、1539年頃の生まれで、慶長4年閏3月3日(1599年)病死。享年62歳とあり
ます。
前田利家像
(ネット画像より)
尾張国 (現、名古屋市中川区)の荒子城主 前田利春の四男として生まれ、幼名を
犬千代といい、14歳の頃、織田信長に仕え、そのころから既に戦功を挙げ認められ、
槍の名手として「槍の又左」と異名を取るなど目立った存在であったようです。
元服して利家を名乗り、赤母衣衆(赤ほろ衆=信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)
として活躍し、柴田勝家の与力で 北陸方面部隊の一員として、信長より能登一国(23万
石)の大名(七尾城主)となります。 二十歳頃、まつ(芳春院)と結婚します。
NHK大河ドラマにもなりましたから、秀吉が足軽時代から近くに住んでいたこともあり、
夫婦ともども仲良しであったなど少しは イメージも残っているのですが、残念ながら
殆ど忘れてしまっているようです。
利家騎馬像(荒子駅)
(ウイキペディアより)
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付きますが、すぐに
羽柴秀吉に臣従し、賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍として布戦したのに、戦わず、羽柴軍
勝利へと導くのです。それなのに、柴田勝家が北の庄城へ逃れる途中、慰めたりもして
いるとありました。 で、秀吉から、加賀国を加増され能登から加賀の金沢城へ移るの
です。(1583年)
秀吉が聚楽第に入った頃には、家康と利家が政務を任されるほどになっていたそうです。
さらに、秀吉から上杉景勝、毛利輝元とともに従三位に叙位され、すぐさま利家が権中納
言に任じられ彼らとの序列が逆転するのです。 秀吉の、利家を家康に対抗させるための
考えであったのではとありました。よほど信頼されていたのでしょう。 この時、利家は
56歳でした。
そして、利家は病弱となりますが、秀吉の五大老・五奉行制度の、家康と並ぶ大老の
地位を得るのです。 しかし、翌年には、床に伏せり、家康の見舞いを受けたりしますが、
62歳の人生を閉じるのです。 当然 家康の加賀征伐が検討されましたが、長男、利長の
母まつの芳春院が人質になるとの条件で、この征伐が撤回されたとのことなんです。
長男 前田利長は、初代加賀藩主ですが、武力というよりは、知力が勝っていたようで、
加賀の国の伝統工芸を根付かせた主君なんですね。ついでながら、側室の子、四男利常は
二代藩主として武芸に優れるも、二人とも家康対応には苦慮していたようです。
前田利家には、正室まつに2男6女、側室5人に4男3女をもうけています。お家は安泰だっ
たのですね。
エピソードなどから人物像を少しだけ・・
・前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が家宝として残っている
そうです。 後年「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は
恐ろしいものだ」と口にしていたとありました。
・学問も学び、茶の湯、能などの文化的活動も積極的に行い、茶道は千利休・織田有楽
に学んだそうです。
・子供のなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授ける程の関係であった。
・加賀には次のような歌が遺されている。 「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに
咲く」 つまり、「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲
く」という意味だそうです。