蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

九鬼周造  (bon)

2019-08-12 | 日々雑感、散策、旅行

  九鬼周造(1888~1941)は、日本の哲学者で、日本固有の精神構造あるいは美意識を
分析し概念化した『粋の構造』は有名です。また、自身の存在から派生した(?)『偶
然性の問題』なども特異です。

 哲学者、九鬼周造の哲学観を西洋哲学の視点を取り入れながら分析し、「世界の哲学史
における日本哲学の位置づけを示した」と高い評価を受け、第36回渋沢・クローデル賞を
受賞した シモン・エベルソルトさん(31)が新聞(読売新聞、8月8日朝刊文化面)に
紹介されていました。受賞論文は「偶然と共同―日本の哲学者、九鬼周造」でした。

 渋沢・クローデル賞というのは知りませんでしたので、ネットを見ましたら、『1984年
に、創立60周年を迎えた日仏会館
が、創立者である渋沢栄一とポール・クローデルとを
記念して設けた賞で、2007年度まで毎日新聞社
、2008年度より読売新聞社が共催しており、
日仏両国において、それぞれ相手国の文化に関する優れた研究成果(著作や翻訳書)に対
して贈られる。』とありました。
 今回(36回)は、日本側の受賞者はなく、フランス側の受賞だけでした。

 シモン・エベルソルトさんは、パリで生まれフランス人の父と日本人の母を持ち、母と
は日本語で会話したり、日本にも良く来ていて、2011年から 5年間京都大学に留学し、
九鬼周造の研究に打ち込んだそうです。

 新聞の紹介記事によれば、彼は、必然性を根幹とする西洋哲学にあって、九鬼周造の
邂逅(偶然めぐり合う)によってすべての現象が生じるとの根本的な哲学の定立(テーゼ)
を強調するとともに、九鬼の偶然性の問題を考えると同時に普遍的なものを追及していた
とも指摘しているそうです。

      暑いベランダに咲くムクゲ(記事と関係ありません)
      

 

 また、研究論文(安立衣津美氏)によれば、九鬼周造という人は、明治21年に、官僚で
ある父と京都祇園の出と言われる母との間に生まれますが、母は当時 父の部下であった
岡倉天心と恋仲になり、父母は別居し、周造は母の下で暮らした。たまには父と会うこと
はあるが、父と母が会っているところを見たことがなかったという。

 論文では、『本来なら子供(自分)は夫婦の愛の結晶であるはずなのだが、父隆一と
母波津の間はもう冷え冷えとして何も残ってはいない。では、自分の存在とは一体何なの
か。 自分はなぜ、何 のために生まれてきたのか。複雑な幼少期の中で育った九鬼には
この体験が深く根を下ろしており、それが自分の存在に対して疑問を抱かせる要因となっ
たのは間違いないであろう。故に、九鬼が考える偶然性とは、存在の無根拠性、非必然性
を意味する。つまり、彼 が偶然性を問題にするとき、それは存在することもしないことも
あり得たにも関わらず、実 ・ 際に存 ・ 在してしまっている己の実存の無根拠性、非必
然性の問題に他ならない。』とあります。

 

 長くなりますが、私が若い頃に読んだ「粋の構造」の一部を当ブログ『粋(いき)の
構造』(2011.6.5)にアップしていましたので、以下に再掲します。

******ブログ 九鬼周造「粋(いき)の構造」より*************

 若いころに読んだ本の中で、印象に残っている一つにこの本があります。哲学者、九鬼
周造の「粋の構造」(1930、岩波)です。昭和5年の本ですからざっと80年くらい前の本
ですね。お読みになった方も多いと思いますが、どのような内容であるか 私の記憶して
いる・・というかインパクトを受けた中身かも知れませんがちょっと思い出してみたいと
思います。

 粋(いき)は、日本特有の特に江戸における美意識の一つであった。わび、さび など
と並んで日本の美的観念と共通部分もあるが、茶道の中で生み出された高踏的な「わび」
「さび」に対し、「いき」は、庶民の生活から生まれてきた美意識であるという点に特徴
があるという。
 「いき」には必ず異性に対する「媚態」が根本にあり、異性間の緊張がつねに存在して
いる状態がいきの構成要素である「つやっぽさ」や「色気」を作り出すとしている。・・
「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係
を構成する二元的態度である。 そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」
「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならな
い。」・・・
 「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態
は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。」 
 つまり、異性がお互いに ほのかに想い続けるその緊張感を持続させている状態であり、
その状態が崩れて「例えば合体など」してその緊張がなくなってしまえば媚態もなくなる
といっている。


 粋の反対語は「野暮」であるが、この異性間の緊張つまり媚態がほんのちょっとですぐ
にくっついて緊張が消滅するのは、粋でなく野暮かもしれない。また反対に、いつまでも
緊張が続きっぱなしでどこまで行っても緊張だけというのもまた、「野暮」というもので
あろう。長すぎた春、とか わからずや・・。

 いき は、この媚態が根本にあるが、このほかに「意気地」と「諦め」の要素もあると
いう。意気地は、江戸文化の道徳的理想が反映されていて、「江戸の花」には、命をも
惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」・・・江戸っ子
は、宵越しの金はもたねぇ とか 武士は食わねど高楊枝・・などがそれである。
 
「いき」は媚態でありながら、なお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識であ
る。・・としている。 諦めは、一見粋とは関係がないように思えるが、「「いき」は垢
抜け していなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。
 「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。」などから
見るように、諦めも粋の要素であることが分かる

       

 粋の構造として、九鬼周造は、図の様な一つの立方体を提案し、それぞれの頂点に意味
を与えて、対角、平面などにもそれぞれ意味を与えている。

 粋の自然的表現として、視覚に対しては、「姿勢を軽く崩す」「薄物を身にまとう」
とか「姿がほっそりしている」「薄化粧」「素足」などが挙げられており、いきの芸術的
表現として、模様は縞柄、それも細い縦縞が良いとか 色も鼠色とか茶色系などがより粋
を表現しているなど江戸文化の芸術を引用して細かく述べられていて面白い。

 
 私の断片的な理解と記憶から抜粋してみましたが、投稿記事の表現は書物から得た印象
にほど遠いものとなってしまいましたがお許しを・・。しかし、最近思い返してみると
その分析の面白さに改めて気づいた次第でその片鱗をご紹介しました。

*****
 この記事に寄せられた、MACさんのコメントも素晴らしいですね。

 

 

 

 

 

 

コメント
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