なあむ

やどかり和尚の考えたこと

雲水道中記ー永平寺から最上へー 8

2009年11月16日 19時00分18秒 | 雲水道中記

心に決めた期日は迫ってきました。それでもなかなかお経点検は通りません。

もう明日が最終期限だという時に、私は無謀な行動に出ました。

「許可しないならしなくてもいい、俺はもう勝手に下りる」と荷造りを始めたのです。同寮の仲間は心配しながらも遠巻きに見守っていました。そこへ、難民キャンプで一緒だった修行僧の宮垣君がやって来ました。

「なにやってるの、バカなことはやめなよ。お経一つぐらい一晩徹夜したら覚えられるよ。今晩つきあってやるから」と言うではありませんか。

確かに、許可なく下山したとなれば、修行歴は白紙になり、曹洞宗の和尚として住職になるには今一度どこかで修行しなければならないことになります。

「宮垣君がつきあってくれると言うから、それじゃあ気を取り直して今晩一晩だけ頑張ってみるか。それでもだめだったら下りよう。」

その晩、約束通り、就寝時間後に宮垣君が来てくれ、人目のつかないところでお経の練習をはじめました。宮垣君は最初は一緒につきあってくれたのですが、途中から眠ってしまいました。それでも何とか一晩かけて苦手なお経を覚えることができ、次の朝の点検を無事通過することができたのでした。

20080320175831 その時はそれほど感じませんでしたが、後から考えれば、あの時宮垣君が顔を出してくれなかったら、おそらく、まともな和尚には成れなかったと思います。そう考えれば宮垣君は観音様の出現だったのかもしれません。

ともあれ、ようやく、修行を終えて、永平寺の山門から正式に送行することができるようになりました。晴れて行脚の一歩を踏み出すことができたのです。


雲水道中記ー永平寺から最上へー 7

2009年11月15日 21時23分34秒 | 雲水道中記

<師匠の遷化のためにこのコーナーをしばらく休んでいました。つづきをお待ちいただいた方にはお待ちどおさまでした。前の文をお忘れの方は読み返して下さるようお願いいたします>

日にちを決めて、送行の許可をもらいに係の先輩修行僧のところへ行くと、朝課のお経を全部暗唱できなければ許可しないということで、お経の点検を受けることになりました。永平寺の修行を終えて、朝課のお経も暗唱できないのは、永平寺として面目が立たないという理由でした。

6bbf61f7a596bf3071fdl 既に1年の修行で送行した者がいたのでそういう噂を耳にはしていました。

点検を受けるまでもなく、一つのお経がどうしても暗唱できないのは分かっていました。それでも何回か通ってその意志さえ見せれば何とか許してくれるだろうと甘く見ていました。

「歩いて帰る?それならなおのこと、お寺に泊まってお経も読めないのでは恥ずかしい」ということで許してくれませんでした。

もう少し時間をかけて、お経を完全に覚えてから帰るという方法もあるにはあったのですが、実は早めに帰らなければならない理由があったのです。

1年前、カンボジア難民支援に行ったボランティアたちが「曹洞宗ボランティア会(後のシャンティ国際ボランティア会)」を立ち上げ、東京に事務所を設けました。その事務所を開設したのは私で、永平寺に来る時に自分のアパートの家財をそっくり事務所に置いてきたのでした。そして1年後永平寺から帰って、事務所に勤めると約束していたのでした。

「歩いて帰るなんてのんきなこと言ってないで、永平寺の門前に車を横付けするから直ぐに帰ってこい」というのがボランティア仲間の声でした。


師匠の遷化 3

2009年11月15日 21時16分40秒 | 師匠の遷化

12日、師匠の本葬儀が執り行われました。
真に不思議なことに、当日は本当に良い天気でした。
Dscf0035前日も後日も雨風で、当日だけ、まるで台風の目のように晴れ渡りました。
師匠は、子どもたちや周囲の人々を心配し気にする人でしたから、みんなに苦労をかけたくないという思いでいてくれたことと思います。天気もそれに応えてくれたかのようでした。
11月というのに、本堂のガラス戸を取り外し、外からも参拝することができました。
ご寺院が65名、会葬者が400名ほどあったでしょうか。真にありがたいことでした。
Dscf0085 1週間で本葬の準備をするのは、実に大変なことですが、師匠も、涅槃衣、頂相、遺偈を自ら準備し、お金の面も檀家で生命保険に入っていたりと、早くから用意をしていました。
私も、覚悟はしていましたから、亡くなったら1週間か10日で本葬をしたいと、準備できるところは2ヶ月ほど前から準備を進めてきました。それが師匠の希望だったと思います。
お陰をもちまして、天気にも恵まれ、献身的なお手伝いの方々にも恵まれ、師匠の本葬らしい葬儀ができたのではないかと思います。
関わっていただいた方々、ご縁のあった方々、本当にありがとうございました。合掌


師匠の遷化 2

2009年11月10日 20時58分40秒 | 師匠の遷化

「大和尚さんはお経の読み声がよかったねえ」というのが、師匠に対する多くの檀家の評価でした。それが、私の読経の直後に言われたりすると、比べられているようで自信をなくしてしまいます。
もう何年もお経を読むことはできなくなっていましたので、懐かしい師匠の読経の声を聞きたいとずっと思っていました。
どこかに誰か録音している人はいないものかと、檀家さんに尋ねてもみましたが、みつからず残念ながらあきらめていました。
ところが、師匠が亡くなるちょうど1週間前、引越をする檀家さんの仏壇の心抜きを頼まれてお経を読んだ後に、「前の和尚さんと声が似てきたねえ」とうれしいお言葉。その後に、「前の和尚さんは本当にいい声だったねえ」と。「ほら、またきた」と思っていると、「何年か前に和尚さんに頼んでお経をテープに録音してもらったのよ」と。「え!あるの!」、「ある、ある」と、急きょ引越の荷物を開けてカセットテープを探してくれました。「あったあ!」。
さらにその場で、テープを買ってきてダビングが始まりました。
レコーダーからは、少し力は衰えていましたが、紛れもなく懐かしい師匠の声が流れてきました。
長年探していてようやく手に入った師匠の声を聞いたそのちょうど1週間目に遷化するというのは、不思議な因縁だと感じています。
お陰で、貴重な宝ものが手に入った心境でした。
12日の本葬の時にも、檀家の皆さんに聞いていただいて、師匠を偲んでいただければなと思っています。ますます比較されようとも。


師匠の遷化

2009年11月09日 21時29分08秒 | 師匠の遷化

11月6日、師匠が遷化しました。曹洞宗では、住職の逝去を遷化(せんげ)と言います。
今日は密葬と荼毘(火葬)でした。
会話ができなくなってからは数年経ち、2ヶ月前に入院してからはほとんど眠った状態でしたので、いつかはこの日が来ると覚悟はしていましたが、やはり肉体が消えるというのは寂しいですね。
父は、3歳を前にして父親を亡くしてから、苦労の少年時代を余儀なくされました。
縁あって10歳で寺に入り、住職として50年以上務めてきました。後半生はたくさんの皆様との出会いのお陰で穏やかな人生を送ることができたと思います。
姉と私の姉弟が子どもの頃、生意気なことやわがままなことを言うと、「明日死んでみせる」と言うのが酒を飲んだときの口癖でした。
「お前たちは、親のいない苦しみを知らないからそんなわがままなことを言えるんだ」と言いたかったのだと思います。
言葉に反して、80歳まで生きてくれたことは、子どもにとっては大変ありがたいことでした。そのために、子どもは未だにわがままのままかもしれません。
本葬は初七日に当たる12日に執り行います。
ようやく親を失った人々の寂しさが分かる仲間入りができます。


雲水道中記ー永平寺から最上へー 6

2009年11月06日 23時40分29秒 | 雲水道中記

永平寺の修行時代のことについては、拙著『やる気があるのか』に詳しいので、それをご覧いただくとして、その最後のところだけを書いておきます。

渡辺さんをまねて行脚僧の姿で歩いて帰りたい、という思いは1年間消えることはありませんでした。

P_waraji 修行を1年で終えて帰ろうと決めた時から、行脚の準備を始めました。一番大事なのは草鞋でした。地下足袋やスニーカーで歩くという選択もあるのですが、形を気にする性格上、どうしても草鞋でなければなりませんでした。しかし、藁の草鞋はおそらく1日か2日で擦り切れてしまうので、大量に持って歩くわけにもいかず使えません。そこで考えたのがビニールの草鞋です。永平寺の托鉢では藁の草鞋を履くのですが、ビニールのひもで編んだ草鞋は丈夫でいいよと教えてくれる人がありました。

草鞋と聞いてピンと頭にひらめいたのは田舎の母方の祖父でした。農家の祖父は、手先が器用で民芸品なども手作りする人でした。もちろん草鞋などは朝飯前です。

手紙でお願いすると、早速色々な種類のビニールひもで作った20足ばかりの草鞋を段ボールに詰めて送ってくれました。

福井から山形までの地図も準備したし、あとは送行(ソウアン、修行を終えて道場を去ること)するばかりだという時に問題が起こりました。


雲水道中記ー永平寺から最上へー 5

2009年11月05日 07時14分32秒 | 雲水道中記

3年目になったとき、新入研修生として入所してきた一人に福島県の渡辺さんがいました。やっぱり話をしたことはありませんでしたが、大学の同級生で、永平寺の修行を終えてからの入所でした。
授業の合間の休憩時間に、当番所で何か書いている渡辺さんをみました。
聞いてみると寺の新聞、寺報だとのこと、その記事の一つは、永平寺から福島まで歩いて帰ってきた道中記だと言います。

001 「えー、渡辺さん永平寺から歩いて帰ってきたんですか?」「ウッソー、ホントに?」「すごいなあ」
信じられないながら、かっこいいなあと思いました。
もしかしたら自分にもできるかなあ、そんなことできたらかっこいいよなあ。衣を着て、笠をかぶっての行脚姿、あこがれるなあ。

ここに、弟子丸老師との出会いとともに、もう一つの私の転換点があります。
永平寺から歩いて帰ること、寺に帰ってからすぐに発刊した寺報「いちょう」や「なあむ」、すべて渡辺さんをまねてのことです。独創的な発想でも何でもありません。
いずれにしても、修行を終えて帰る時の格好だけは決まった、という何だか分からない状態で永平寺に行くことになりました。


雲水道中記ー永平寺から最上へー 4

2009年11月04日 08時17分23秒 | 雲水道中記

2月だったのだろうと思いますが、親元の松林寺へ、研修所から入所許可証が送られてきました。
それを見た父親から電話が来ました。「すぐ帰ってこい」。

「海外開教コースとはどういう意味だ」「お前まさがこご終わっでがら海外さ行ぐつもりじゃないべな」
「んだ」
教化研修所は、授業料はなく、わずかですが月々の手当が出る研修機関で、将来曹洞宗の教化分野の最前線で活躍することを約束する制度になっていました。だから、終了後は、本山修行に行くのを除いて何らかの宗門の公的機関で奉公することが条件でした。どうせ奉公するなら海外で活躍してみたいというのが私の考えでした。
「3年でも長いど思っでだのに、その上海外なのとんでもねえ、そんなごどなら辞めですぐ帰ってこい!」
怒りもごもっともです。
Kaoidan しかたなく、海外コースを断念して一般コースへの入所を許可してもらいました。
しかし、海外への思いは断ち切れず、研修所2年目の時に発生したカンボジア難民の救援ボランティアに参加するきっかけとなりました。
とにかく、机に座ってまじめに勉強するのが苦手だったことから、外へ出て行く「研修」に積極的でした。
そんな3年目、またひとつの出会いがありました。


雲水道中記ー永平寺から最上へー 3

2009年11月03日 12時54分36秒 | 雲水道中記

「海外開教師」、お釈迦様や道元禅師の教えを、まだ届いていないところへ届け広める、そんなダイナミックな仕事があったんだ、そんな仕事のお坊さんならやってみてもいい、と、そう思いました。
20070629gatukou しかし、そのためにどうすればいいのかということを真剣に考えたわけでもなく、ただぼんやり過ごしていました。年末近くのある日、教化学大会を主催した教化研修所の機関誌が送られてきました。それを見ると、研修所の3つのコースの中に「海外開教コース」というのがあるではありませんか。「そんなところで勉強すれば海外に行けるのかな」と思いながら、しかし、今から3年間の研修期間を親が許してくれるとも思えず、気になりながらも何の行動を起こすこともありませんでした。
正月に山形に帰り、「いよいよ永平寺だな」というような話題をイヤな思いで聞いていました。どうせダメだろうと思いながら、教化研修所の機関誌を「こんなのがあるんだけど」と無造作に差し出しました。「何だこれ」と言いながら見ていた両親が、「お前こごさ入りだいのが」と聞くので、「入れるなら行ってみてもいいかなと思う」と言うと、「ようやく4年間が終わってあど1年すれば帰ってくると思っでだ」「今から3年間?そりゃ無理だ」と。「どうせそうだ」とあきらめて寝ました。
次の朝母親が「お前、昨日の話、本当に行ぎだいのが」「ゆんべ、父ちゃんと寝ながら、義道がはじめて自分から勉強したいって言うんだから、何とかならねえべがってしゃべったんだ」
「受げるだけ受げてみだら」と言うではありませんか。
がぜん元気が出ました。


雲水道中記ー永平寺から最上へー 2

2009年11月02日 13時18分40秒 | 雲水道中記

大学4年になると、卒論のためのゼミを選択しなければなりません。私は人の噂をたよりに、一番簡単に単位をくれるという理由でM先生のゼミを選択しました。私と同じ魂胆の学生が多かったようで、教室は学生であふれゼミの様相ではありませんでした。

M先生のゼミは「教化学」という分野で、仏教をどのように人々に伝えていくか、という学問です。それはそれなりに興味がありました。というよりも、他の分野は難しそうで、仏教くさかったのです。

4年生の秋、M先生から「11月に教化学大会があるから参加してみてはどうか」という誘いをうけました。

「教化学大会」は、曹洞宗教化研修所という機関が主催する、年に一度の教化学の研究発表会というものです。何故先生から誘われたのか、何故自分がその気になったのかは分からないのですが、私は参加してみてもいいなと思ったのです。

ブルーのブレザーを着てネクタイを締めて行ったことを今でもはっきり覚えているということは、自分なりに緊張感を持っていたのだと思います。

2日間にわたる発表会に出席しているのは、教授や大学院生や研修生など、学者やまじめな人ばかりです。私も、突然にまじめな学生になったようなふりをして座っていました。

Neobuddh1921 そこへ、大会の特別講師として登壇されたのが、弟子丸泰仙老師でした。

弟子丸老師は、サラリーマン生活の後51歳で出家、2年後坐蒲一つを持ってフランスに渡り、ヨーロッパ禅センターの基礎を築いた伝説の人。

その老師が、来日していた合間をぬって特別講義に来てくれたのでした。

その時の私は、弟子丸老師がどんな人かも知らず、ただその場にいたのですが、老師が壇上に立たれた時、そのオーラともいうべき雰囲気に、魂がひきずられるような気持ちになりました。

「ああ、こんなお坊さんがいるのか」「こんなお坊さんにならなってもいいな」と思ったのです。それが、お坊さんという仕事を肯定的にとらえることができた最初だと思います。