

「日韓近代美術家のまなざし」展(県立近代美術館葉山)を昨日見てきた。韓国の近・現代美術についてはまったく知識もないし、作家自体の名も知らない。お隣の国といいながら、また歴史的に極めて深い関係があるにもかかわらず、私自身の不勉強もあり知っていることはかなり限られているし、それもあやふやなものが多いと実感している。
ここ数年韓国を数回訪れており、何回目かのときに、ソウルのサムスン美術館を訪れて、現代美術のコーナーも見たけれども、特に印象に残ったものが無かった。これは私の現代美術の鑑賞眼そのものが未熟なことも原因のような気がする。
今回の展示でいくつかの感想を述べてみると、近・現代絵画に果たした朝鮮半島の人びとの歴史、人物史を、私がまず基本的に欠落していること気になった。日本が植民地支配していた時代、それに対する抵抗の時代、日本敗戦以降の分断の時代等日本を抜きにしては語れないことは確かだが、朝鮮半島の主体的な絵画の流れをまずは知る必要があるのではないか、と考えてばかりいる自分を見ていた。
朝鮮半島の画家は、朝鮮半島を支配していた日本によって作られたいわゆる官展の流れ、官展とは一線を画してした西洋画の流れをつくった日朝の作家たち、日本に留学した人々、朝鮮半島に日本から行った人、さまざまなパターンがあるのだろう。だがパターンごとに絵の傾向があるのだろうか。もし傾向があったとしてもそれをどのように細分化してパターン化したり、分類してもそれは意味はないように思える。
傾向があるとすれば官展という上からの圧力に対して、作家自身の内発的な表現確保のためにどう格闘したか、位のものである。それは近代の芸術がいつも、世界中どこでも経験してきたことである。そしてそれは基本的な知識として、知る必要はある。
本当はそれよりも重要なのは個々の作家がどのように絵画そのものの展開に寄与したか、さらに広げるならばどのように時代や歴史を自己の精神史の中に取り込もうとしたか、時代とどのように格闘したかということである。
再度いうと、日本という植民地支配、文化圧力に対抗して表現者としての自己をどのように確立していったか、という朝鮮半島の画家たちの苦闘の歴史を基本として、それをまずは知る必要があると感じた。そしてそれは前提でしかない。それなのに私は残念ながらその前提の知識もない。
今回の展示の説明を一所懸命読んだが、その欠落している知識を補うものではなかった。
私がもてる感想は、藤田嗣治や藤島武二がどのように朝鮮半島の人々と接し、その自然をどのように受容したか、それを作品にどう展開したか、に言及する力を備えたいというものだあった。残念だが、そのような力量は今の私にはないことは今回の展示で当然にも理解した。ただ考える縁にはなったと思う。藤田嗣治があのように明るく描いた風景、藤島武二が明るい色彩とタッチで描いた女性像が、彼らの絵画の技法にどのような影響を与えたのか、何時かは知りたいと思った。教わるのか、自分で言及できるのかは、別にしても‥。
さて気になった作家は山口長男、入江一子、イ・ジュンソプ、キム・ファンギの4名。これは機会があれば他の作品も追いかけてみたい。浅川兄弟の作品、特に兄の伯教の陶器の作品を見たかったが展示が無かったのは残念であった。
もうひとつ残念であったのはポストカードが無かったこと。折角初めて接する画家がたくさんいるのだから、種類は少なくともいくつかは欲しかった。