Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「クラリネット三重奏曲 作品114」

2015年05月28日 22時28分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 最近は偏りすぎているとは思っているが、ブラームスばかりを聴いている。こんなにまとまって、長期間にわたってブラームスに浸っているのは初めてかもしれない。以前からブラームスは気に入っているが、今回器楽曲、管弦楽曲を全曲聴いてみて、いっそうはまってしまったかもしれない。

 さてクラリネットとチェロとピアノによる「クラリネット三重奏曲」。ブラームスの最晩年の曲である。第一楽章のチェロとクラリネットの掛け合いがいい。二つの楽器の絡み合いがこんなにも美しいものになるものとは、この曲を聴くまで想像できなかった。
 第二楽章のクラリネットの響きは、クラリネットの低音と高音の音色の違いをうまく利用していると思った。私はクラリネットという楽器のこの高音と低音の音色の違いが好きになれなかった。チェロの音色が加わることでクラリネット特有の高音のとんがった音色が柔らかに聴こえるのかもしれない。そして消えてしまいそうな弱音、止まってしまいそうなゆっくりとしたテンポが心を落ち着かせてくれる。
 第三楽章、ピアノとクラリネットが華やかで踊りだしそうな掛け合いをするのだが、チェロが抑制的に絡んでくる。踊りだしどこかで飛躍しそうなメロディーがチェロの響きにやさしく抑え込まれて静かに収束する。ここもまた聴きごたえがある。
 終楽章は、リズミカルな曲で早いパッセージが多い。そのために、第一から第三楽章と違いピアノが活躍する。クラリネットが控え目にピアノを支えているように聴こえる。
 あっという間に聴き終えてしまう24分40秒である。実際よりも早く終わってしまうような名残り惜しさがある。

 チェロではなくバイオリンとピアノによるモーツアルトのクラリネット三重奏曲はこれとは対照的に明るく華やかな曲ということらしい。聴いたことはないので、想像するしかないが今の時点ではおそらく私の好みはブラームスの方だと思う。

明日から始まる講座「沖縄の祖先祭祀」(小熊誠)

2015年05月28日 21時16分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朝から会議で出かけたが、途中で相鉄線の事故で45分ほど遅れて会場に着いた。会議そのものは時間通りにはじまり、予定時刻に終了した。事故で電車がかなりの頻度で運転見合わせとなるが、退職して通勤時間でもない時間帯に足止めを食ったのは初めてであった。通勤時間帯ではなく、かといって買い物時間帯でもなく、席にかなりのゆとりのある時間であったためか、。事故に遭った方には申し訳ないが、社内で待っている人の表情はゆとりがあったと思う

 会議の終了後、久しぶりに保土ヶ谷区内を歩き回り、2万歩ほど歩いて帰宅した。昨日ほどではなかったものの、かなり暑かった。しかも湿度は昨日よりも高かった。熱中症は昨日よりも本日の方が発症しやすかったかもしれない。

 私が現役時代に厚生労働省の統計をネットで調べた時には、熱中症は統計上かなり屋内で発生していた。特に高齢者では4割を超える人数が発症していたと記憶している。
 高齢者は若年者に比べて、暑い季節には住宅内、屋内にいる場合が多いためだともいえるが、屋内は換気が悪く、冷房や扇風機を回していないと室内の温度や湿度が高くなりやすいようだ。現に私の叔父もそれで亡くなった。
 南北の窓を開けて風通しを良くすることや、冷房や扇風機を利用して体温の上昇を抑える工夫を忘れないようにしたいものである。

 私の場合は、夏はどちらかというと外に出たい方である。夏のうだるような日光のもとにいてカーッと照らされることもちょっとした快感に感じることもある。汗を大量に書きながら散歩をして、適度にコンビニや喫茶店に入ってお茶を飲むのはなかなか快感である。
 そんな楽しみをいつまで続けることが出来るであろうか。そろそろ気をつけないと危ないと思う。歳をとればとるほど、残念ながら体がそんなに機敏に反応しなくなってくるのだと思う。



 さて明日からの講座は、「沖縄の祖先祭祀」(講師:小熊誠)。講師は神奈川大学歴史民俗資料学科教授。沖縄が民俗学的な見地から中国と日本の狭間でどのような位置にあるのか、興味のあるところである。

「2015年度第1期横浜美術館コレクション展」(その2)

2015年05月28日 20時12分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 横浜美術館のホームページの解説を再度掲載してみる。
3.とらえられた身体
 身体という言葉から想起されることは様々です。このセクションでは異なる視点、異なるアプローチによって身体の持つ豊かな、そしてだからこそ謎めいたテーマに挑む作品を紹介します。
4.入れかわる身体
 このセクションでは入れかわる身体と題し、名画の登場人物に自らが扮した作品で知られる森村泰昌が、メキシコの女性画家を題材にした「私の中のフリーダ」シリーズをはじめ、平野薫による横浜美術館での滞在制作によるオブジェ、同じく横浜に滞在制作の経験のある遅鵬のCGによる巨大な平面作品などをご紹介します。
5.そこにある身体
 日頃、自分の身体の存在を意識する機会は多くはありません。
一方で私たちの身体は今ここにあり、それに目を向けることは、世界に相対する手がかりとなり得ます。ここでは、作品と鑑賞者の身体との関係を想起させるような作品を中心にご覧いただきます。


 この3つのセクションから私が気になったり惹かれた作品は、3では1959年生まれの石原友明の「Untitled」(1995)、4では1951年生まれの森村泰昌の「私の中のフリーダ」(2001)、5では、1973年生まれの三瀬夏之助の「ぼくの神様」(2008)。しかし三瀬夏之助についてはまだ私の考えはまとまらない。今回は省かせてもらうしかない。機会があれば挑戦してみたい。



 石原友明のこの3枚の組写真の作品を見ていて不思議な感覚を味わった。まず真ん中と右側の写真からは作家が自らの身体にどこか常に違和感を持ちながら捜索活動をしているように思った。それが作家の原点であるかのような記載があった。自身の像がぼやけて明確な像を結ばない、しかも目を瞑っているというのは、ポートレートを写真にしろ絵画にしろ作成することにおおいなためらいを常に持っている証だと思われる。対照的に点字とそれをなぞる指先にはピントが合っているということは、「見る」ということよりも皮膚感覚に大きな親和性を持っているという宣言なのではないか、と感じた。
 しかしふたつとも黒枠に囲まれている。これは決別、あるいは過去に自己に対する否定を意味するのだろうか。同時にこの3枚の時間の流れも気になる。
 一方左側のシャンデリアと思しきものを接写で焦点を合わせて撮った写真は中央と右側の写真とどのような関わりがあるのかが未だにわからない。可能性としては電気の明かりの温みとガラスの硬質な皮膚感覚には親和性がある、という暗喩なのかとは思ったが、それだけでは単純すぎないかとも考えている。
 いづれにしても「視覚」というものに対するどこか否定的な感受性を持っていそうである。だが、この感覚が「見る」ことを前提とした作品として提出する、という行為にもまだ私には飲み込めない感情が湧いてくることも事実である。
 さて、このコーナーの始めに以下のような解説が掲げられている。「石原友明も自身を作品の中に登場させています。写真が可能にしてくれる自らの肉眼で見ることのできない自分の姿は、言わば自身の身体の発見でもあります。石原は自分自身が抱く自らの身体イメージと画面上で変化させるそれとの間で生まれる差異に注目します。こうした石原の視点は、突起にすぎないものが実は豊かな意味を持ち、触れることでコミュニケーションが生まれる展示を扱った作品においても示されています。」全体として、特に3番目と4番目の文章のつながりがどうしても私には意味がわからない。このような難解な説明は困りものである。
 この作品を前にして、一挙にこれだけの疑問が湧いてきた。少なくともこれだけの感覚的な刺激を与えてくれた作品は、このコーナーではこれだけであった。私は是非とも作者の言葉を聞いてみたいと思った。



 次が、あのフリーダ・カーロに触発された森村泰昌の作品。私がフリーダ・カーロの作品を知ったのは何時だったか。とても強烈な印象を受けた。「私の中のフリーダ」はいくつかの作品につけられているが、特にこの作品に惹かれた。私のフリーダ・カーロの体験をもっとも鮮烈に思い出させてくれた。
 自らの身体の、しかも見方によっては負の部分をさらけだすことで自己表現を執拗に繰り返した稀有の画家の像である。
 「折れた背骨」(1944)をほぼそのまま額に入れたような写真である。空と接する地平線と、空の広さ、そして髪の毛のボリュームが少し違っている。しかしもっとも大きな違いは背骨の描写である。実際の作品ではコンクリートの柱のようなまっすぐな背骨がところどころ亀裂があるのだが、こちらの作品は人間の腕のような形状の骨である。ものすごく太く、首のところが手首のような形に成っている。さらに乳房の上のバンドの締め付けが実際の作品よりもさらにきつい。
 実際のフリーダ・カーロの作品よりも痛々しさを強調しているのかもしれないが、同時に彼女の痛みの原因が背骨だけではなく、人間関係によってもたらされたものでもあることを示しているのだと感じた。それは周囲の政治的な集団の軋轢というのではなく、夫ディエゴ・リベラとの厳しい関係であることは彼女の伝記を紐解けばすぐに理解できる。



 さらに彼女の頭部と髪は細長く変形している。日本人的な顔と髪に変えられている。フリーダ・カーロの作品よりも生々しい肉体に見える。これはどういう暗喩なのであろうか。気になっている。