Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「箱根山 火山の状況に関する解説情報 第4号」(気象庁)

2015年05月05日 23時03分38秒 | 天気と自然災害
箱根山 火山の状況に関する解説情報 第4号
    平成27年5月5日16時00分 気象庁地震火山部
<噴火予報(噴火警戒レベル1、平常)が継続>
1.火山活動の状況
 箱根山では、火山活動がやや高まった状態で経過しています。本日(5日)、気象庁は現地調査を実施し、大涌谷温泉施設で蒸気が引き続き勢いよく噴出しているのを確認しました。
 4月26日以降増加している火山性地震は引き続き多い状態で経過しています。本日(5日)06時台に箱根町湯本で震度1を観測する地震が2回発生しましたが、07時以降に震度1以上を観測する地震は発生していません。
 気象庁と神奈川県温泉地学研究所が設置している傾斜計に、この地震活動に関連するとみられるわずかな変動が引き続き観測されています。
 4月26日以降の火山性地震の発生回数は以下のとおりです(速報値を含む)。
 4月26~30日 67回、
 5月 1日 2回、 2日37回、 3日36回、 4日34回、
    5日(15時まで)97回
 低周波地震、火山性微動は観測されていません。
2.防災上の警戒事項等
 箱根山の大涌谷浅部における熱水活動が不安定な状態となっています。大涌谷付近では規模の小さな噴出現象が突発的に発生する可能性があります。箱根山は活火山であることに留意し、地元自治体等の指示に従って危険な地域には立ち入らないでください。
次の火山の状況に関する解説情報は、6日(水)16時頃に発表の予定です。なお、火山活動の状況に変化があった場合には、随時お知らせします。

(⇒http://www.jma.go.jp/jp/volcano/info_03_20150505160017.html)

 さらに17時付けで、「箱根山火山活動解説資料」が出されている。
(⇒http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/tokyo/15m05/20150505_315.pdf)

 巨大地震の後には火山の噴火が起こる、とよく言われる。しかし4年前の地震は太平洋プレートの沈み込み帯に発生した巨大地震である。火山の噴火がその地震に連動して起きるならば、東北地方を南北に走る火山帯である。北は青森の恐山から南は那須連山くらいまでであろうか。確定的なこととは断言できないが‥。
 箱根山はフィリンピン海プレートが北アメリカプレートにぶつかって沈み込んでいるところである。地形は複雑であるが、4年前の巨大地震とはメカニズムが違う場所である。あの巨大地震との連動とは云えない。しかしこれについてもこれ以上のことは軽々には言えない。
 今回の箱根山の活動についても、公的な発表は靴の底から掻くようで、もどかしいものがあるが、しょうがないのかもしれない。わからないことばかりで、確定的なことが云えないというもどかしさは常に付きまとう。

久しぶりに会報作り

2015年05月05日 22時32分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は風が少し涼しく、Tシャツ1枚では二の腕がうすら寒いが、ガマン。
 朝からパソコンの前に座って、退職者会のわがブロックの会員に配布する会報づくり。年度の最初の会報なので昨年度の決算報告や向こう一年の予算を掲載し、メーデーや5.3憲法集会の記事を掲載したら、A4で4面となってしまった。ほぼ9割方出来上がった。10日までに70部ほど印刷が終わればいいので間に合わせることが出来た。
 一日中座っているわけにはいかないし、疲れたので15時過ぎに横浜駅まで往復してきた。特に買い物の予定はないが、講座の受講料の支払いを2件。後は本屋で立ち読みを15分ほどして、再び歩いて帰ってきた。連休中とあって喫茶店は満員で入れず。遠回りして広めのコンビニに寄って、缶コーヒーで一服。椅子の置いてあるコンビニも悪くはない。
 箱根の地震が気になっている。地震活動は上向き、本日はこれまででもっとも多い地震が発生したとのこと。気象庁からは火山の状況に関する解説情報の3号と4号、ならびに箱根山火山活動解説資料が出されている。

5.3憲法集会での大江健三郎氏の発言

2015年05月05日 11時28分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 遅くなってしまったが、やっと見つけた。大江健三郎氏の発言は以下のとおり。
https://youtu.be/ZOANAqpXvuo
https://youtu.be/8L-Csqq8kcY

「公でスピーチするのはこれが最後の機会になるかも」、「米両院のスピーチはあまりの虚­偽。日本人の賛同を得たことがないことをはっきり言う必要がある。集団的自衛権の行使・安­倍の積極的平和主義 戦争への自己弁護」

「フランダースの野に」100周年(小沼通二氏)

2015年05月05日 03時24分21秒 | 読書
 世界平和アピール7人委員会のホームページ(http://worldpeace7.jp/)の「今月のことば」に、小沼通二氏が次のような文章を掲載された。なかなかいい文章だと思うので、このブログにも掲載させてもらうことにした。

「フランダースの野に」100周年      小沼通二
 2006年5月に、ベルギー西部のイーペル(Ypres、Ieper)に行く機会があった。ここは第1次世界大戦のときに完全に破壊された街であり、この郊外は初めて致死性の毒ガスが大々的に使われた激戦地である。ホテルのロビーに In Flanders Fields という手書きの詩が大きく掲げられていることに気が付いて、引き込まれた。見事な韻が美しい。その後いろいろわかってきたことがあり、インターネット上にいくつもの和訳があるが、すべて納得できなかったので、私の解釈の新訳まで作ってしまった。

In Flanders fields
        John A. McCrae

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.

フランダースの野に
   ジョン A. マクレー

フランダースの野にポピーが揺らぐ
十字架の間に、何列も何列も、
ここがぼくたちの場所 今でも
空には元気な声で飛ぶひばり
 その下にかすかに聞こえる砲声

ぼくたちは死んだ 数日前には
生きていて、夜明けを感じ、輝く夕焼けを見た
愛して、愛された、それなのに今では
フランダースの野に横たわる

敵との争いを終わりにしよう:
弱ってきた手でぼくたちはトーチを投げる
受け止めて高くかかげてくれないか
死んだぼくたちとの約束を守れないなら
ぼくたちは眠れない、ポピーの花が
フランダースの野に咲き誇っても

 この詩は、この街の郊外で第1次世界大戦の激戦中、今からちょうど100年前の1915年5月3日にカナダの軍医中佐ジョン・マクレー(1872 –1918)によって作られ、英国の週刊誌「パンチ」の12月8日号に掲載されて広まった。ドイツ軍は10日ほど前の4月22日から全面的毒ガス攻撃を開始していた。砲撃が命中して戦死した親友の飛散した遺体を拾い集めて埋葬した翌日に書かれたのだった。
 いずれ詳しく書きたいが、100周年にあたり、この詩をめぐる話題の一端を紹介する。この詩から米英でポピーが戦没者を偲ぶシンボルになり、この詩を受けて多くの詩が作られた。英連邦諸国では毎年11月の第2日曜日を第1次世界大戦の戦没者追悼日(通称ポピーの日)として、多くの人が胸に造花の真紅のポピーをつける習慣が始まった。私がもっているだけでも3枚の切手がカナダとオーストラリアで発行されている・・・。
 私が、これまでの和訳に納得できなかったのは、10行目の ”take up” だった。ほかの行はすべて平易であるのに、10行目だけは二つの深い意味を持っている。一つは「敵との戦いを再開してくれ」という意味である。そうすれば以下は戦いを鼓舞する詩となる。そして実際この詩は戦意高揚にも使われた。しかし私の解釈は異なる。オクスフォード英語辞典(全20巻のOED)によれば、現代では使われなくなったが、15〜16世紀には「友好的に収める」という意味にも使われた。その例として挙げられているのがシェークスピアの1600年の『お気に召すまま』の“Take up a quarrel”(第5幕、第4場、104行)などである。サムエル・ピープスの1666年10月24日の日記の“take up”も同じ意味だとOEDにある。
 マクレーは愛馬を連れて戦場に赴き、戦場で迷子になっていた猟犬を拾って飼い続けるという優しい心を持ち、毎日、軍医として悲惨な死傷者を相手にしていた。そして親友の死によって打ちひしがれている中でこの詩を作った。10行目の最後にコロン「:」があるので、以下最後まで10行目を説明していることになり、第2の意味の方が納得しやすい。軍医として戦争を直接批判できない立場にいた彼は、シェークスピアを引用し、13行目の「約束」の内容を明示しないことによってこの詩に見かけと彼の真意の2重性を含ませたと私は考えている。彼は1918年1月に発熱、喘息、毒ガスの後遺症、脳出血を併発して、ドーバー海峡の見えるフランス海岸の軍事病院で29日に45歳で急死した。彼の最後の言葉はこの詩の13、14行目だった。