詩人の長田弘氏が亡くなった。5月の連休中だったという。
手元には生前のエッセイ集というより、私は幾人かの作家・詩人への追悼集と思うが、「詩人の詩碑」(朝日選書554、1996年)と、最晩年(ひょっとしたら最後?)詩集「奇跡-ミラクル-」(みすず書房、2013年)がある。
実は「長田弘詩集」(思潮社)で1980年代に初めて詩を読んだのだが、それはもう紛失してしまった。訃報を聞いて探したが本棚のどこにもなかった。
長田弘、1939年福島市で生まれ、1960年に詩人として一歩を踏み出した。
私が読んだ初期の詩集が手元に無いので、私が当時感動した詩は紹介できないが、最新の「奇跡」を私は気に入っている。
ベルリンはささやいた ベルリン詩編
ファザーネン通りの小さな美術館で
紅いケシの花を額にのせた
死顔のデッサンを見た。
一九一九年一月十五日の夜、
至近距離から銃で撃たれ、
蜂の絵状にされて路上に捨てられ、
身元不明の死体として
市の死体置場にまわされて
死んでいった男の、額の上の紅いケシ。
画家のケーテ・コルヴィッツが
カール・リープクネヒトの死顔の
木炭画の上の描きのこしたのは、
死者の額から流れおちた血の花弁だった。
ベルリンのユダヤ人を運んだ
アウシュヴィッツ行の
ドイツ帝国鉄道の貨車の始発ホーム。
出て行った列車の数を同じ数の
鉄板を銘板にして敷きつめた、
それは、いまは、どこへも行かない
人影のないほーむだった。
一九四四年十二月七日、
アウシュヴィッツへ三十人輸送。
ただそうとだけ刻まれた
雨にぬれた鉄板の一枚の上に
置かれていた、三本の紅いガーベラ。
死よ、死よ、おまえはどこなの--
ベルリンはささやいた。おまえの足の下だよ--
そしてもうひとつの詩の最後の5行ではこのような表現もある。
ベルリンのベンヤミン広場にて ベルリン詩編
‥‥
日の影はない。通ってゆく人もいない。
時が停まったように、
広場の噴水は停まっていた。
歴史は記憶にほかならない。だが、
現在というのは清潔な無にすぎないのだ。
戦後詩は多く場合、戦争という影を色濃く引きづっていた。今も引きづっている。長田弘の詩も例外なく、10歳に満たない時期とはいえ、鋭敏な心に刻まれた敗戦体験と、敗戦後の混乱とが、戦後詩の歩みを始めた青年に色濃く影を落としたことは確かなことである。
そして「奇跡」という詩集のあとがきに今は亡き詩人は次のように記している。
ふと、呼びかけられたように感じて、立ちどまる。見まわしても、誰もいない。ただ、自分を呼びとめる小さな声が、どこからか聞こえて、しばらくその声に耳を澄ますということが、いつのこめからか頻繁に生じるようになった。
それは風の声のようだったり、空の声のようだったり、道々の声のようだったり、花々や樹々の声のようだったり、小道の奥のほうの声のようだったり、朝の声や夜の声のようだってり、遠い記憶のなかの人の声のようだったりした。
そうした、いわば沈黙の声に聴き入るということが、ごくふだんのことのようになるにつれて、物言わぬものらの声に言葉にして記しておくということが、いつか私にとって詩を書くことにほかならなくなっているということに気づいた。
書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである。
こんないい文章を記す詩人の最後の詩集には美しい、しかし戦争と革命の世紀20世紀を歩んだ詩人の静かな叫びともいうべき言葉が並んでいる。
そこに、ケーテの、古い汚れた銅像が立っていた、
死者たちの、石の丘のほうに、顔を向けて。
いや、詩人の視線の、先にあったのは、
石の丘の上に、無のようにひろがる、
すばらしく澄んだ、青空だ。
(ベルリンの死者の丘で ベルリン詩編)
失ったものの総量が、
人の人生とよばれるものの
たぶん全部なのではないだろうか。
それがこの世の掟だと、
時を共にした人を喪って知った。
(空色の街を歩く)
ある日、東北の、釜石から
送られてきた、手づくりの句一つ。
「三・一一神はゐないかとても小さい」
未来はいまも、未ダキタラヌ時だろうか。
もう、そうではないのだはないか。
いま、目の前にある、
小さなものすべて。
今日という、不完全な時。
大切なものは最上のものではない。
(未来はどこにあるか)
戦争をしない国にそだったのだから、
わたしは心底に思い留める。世に
勝者はいない。敗者もまた、と。
(Home Sweet Home)
この国の、昭和の戦争の後の、小さな町々には、
すべてのことを自分自身からまなび、
「視覚は偽るものだ」と言った
エペソスのヘラクレイトスのような人たちが、
まだいたのだ。子どもたちのすぐそばに。
(晴れた日の朝の二時間)
そして最後に掲載されている「奇跡-ミラクル-」という詩は、詩人の死を前にした静かな心持が伝わってくる。後半を引用する。
‥‥
ハクモクレンの大きな花びらが、
頭上の、途方もない青空にむかって、
握り拳をパッとほどいたように
いっせいに咲いている。
ただここに在るだけで、
じぶんのすべてを、損なうことなく、
誇ることなく、みずから
みごとに生きられるということの、
なんという、花の木たちの軌跡。
きみはまず風景を慈しめよ。
すべては、それからだ。
(奇跡-ミラクル-)
長田弘氏から12年後に生まれ、戦後の混乱を人づてに生きながら、戦後政治の行きつ戻りつの中で翻弄されてきた私には、このような「ただここに在るだけで、‥みごとに生きられるということの、なんという、奇跡」こんな心境に果たして私はなれるのだろうか。