Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「黒い港」(井上光晴)

2017年02月12日 23時16分22秒 | 読書
 私の衝撃を受けた作品のひとつを今でも覚えている。19歳の私にはまったく知らない世界と認識があった。

 黒い港

血糊のあとはまだ消えない
昨夜も黒人兵が射殺された

ふつ、ふつ、ふつ、ふつ
ふつ、ふつ、ふつ、ふつ
コンクリートの声をあげて
波はたえまなく打っているが
汽笛ひとつ鳴らさずに
この港からは毎日
二隻ずつ輸送船がコーリアにむけて
出て行く

腹部に二発、肩に一発
まだぴくぴく動いている死骸を
ジープは一瞬のうちに
運んでいったが
彼等は脱走しない方が
よかったのだ
いくら戦争がきらいでも
むしろ逃げないで
同僚たちとともに
なんにもいわず玄界灘を
渡ったほうがよかったのだ
そうすれば、あるいは、
そんな無惨なめにあわずに
すんだろう

血痕のあとはまだ消えず
この街の昼は夜よりも悲しい
だけどまだ逃亡兵をかくまう
バラックさえ
そのバラックの抵抗さえ
芽生えていないのだ

白いひらひらみえるのは
一晩だけのジャパニーズ恋人の
握るハンカチ
貂蝉へ、貂蝉へ
死にたくない涙をいっぱいうかべて
黒い貨物船は今日もでていく


「全身小説家井上光晴展」(神奈川近代文学館)

2017年02月12日 22時07分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は午前中に管理組合の諮問機関の会議ののち、県立神奈川近代文学館で開催している「全身小説家 井上光晴展」を訪れた。
 井上光晴の「書かれざる一章」(1950年作)はわたしにとっては衝撃的な体験であった。これに続いて読んだ「病める部分」「重いS港」「虚構のクレーン」「地の群れ」などが20歳直前の私に重いパンチを見舞ってくれた、と思っている。
 この作品が作者が24歳の時の作品と知ってさらに衝撃を受けた。わたしには到底及ばない早熟で、そして根源的な思索に思えたのだ。自分の体験の何とみすぼらしいことか、自分の思索のなんと未熟で情けないことか、パンチを食らって床に長々と伸びているボクシング選手のように起き上がる気力もうせた気がした。
 当時の60年代後半の混沌とした世界の世相を、どのように読み解くかということへのとっかかりを貰ったような気もした。
 展示の最後に埴谷雄高が書いたという「井上光晴之霊」という位牌が心に強く残っている。

         

 本日は展示を見ながら全部は読んではいないが、自分が読んだ諸作品の原稿などを見ながら、その作品に接していた頃の自分を思い出しながら見入った。1980年以降、井上光晴の作品に接することが無くなったので、思い出はなかなか蘇らない部分もあった。
 2月19日の「虚構の人・井上光晴」(講師:紅野謙介氏)の講演会を申込み、そして映画「全身小説家」の前売り券を購入してきた。

   

  のろし

のろしはあがらず
のろしはいまだあがらず
ああ五月野(はるのの)に草渇(か)るるまで

のろしはあがらず
のろしはいまだあがらず

「春の水山なき国を流れけり」(蕪村)

2017年02月12日 12時19分37秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★春の水山なき国を流れけり(蕪村)

 蕪村の句はいくつも眼にした記憶があるが、昔はそんなに意識したことはなかった。安藤次男氏の「季題考」を開いた時、最初に「春水開眼」の項があり、この句を取り上げていた。この記述によると「春水」を詠んだ佳句が多いと指摘している。ほとんどが「春風馬堤曲」がつくられた1777(安永六)年以降の作であるとして11句をあげている。
 この句だけが例外で1771(安永元)年以前の作としている。
 この「春の水山なき国を流れけり」は大きな景色を詠んでいる。山の少ない平野をゆったりと流れる川、どこの地域であろうか。木津川・宇治川・桂川が合流する地点から大阪へ流れ下る淀川のことを詠んでいるのではないかと私は思っている。
 中国の長江を思い浮かべるのも自由であろう。逆に山城や摂津や河内などと言う旧国名が伝わらない方も多いかもしれない。「国」という言葉ですぐに中国を連想される方が多い時代になってしまったかもしれない。
 固定観念に縛られてはいけないが、春の水は是非とも山なき国を滔々と流れてほしいものでもある。
 さて1777年以降の春水の句は大きな景よりも観察の細やかさに基づいた小景の句である。たとえば、
★足よはのわたりて濁るはるの水
★流れ来て池をもどるや春の水

などがある。
 例外として
★橋なくて日暮れんとする春の水
がある。
 安藤次男氏は「「春風馬堤曲」は、蕪村の水(春水)開眼だった、といってよそさうである。因みに蕪村の水墨画の名品の多くは、やはり安永六年以降の作品である。‥「馬堤曲」は、芭蕉の「ほそ道」紀行がそうであったように、新風への重要な転機となったものだと思う」と記している。
 もう一度「春風馬堤曲」を読み返してもいいと思わせる指摘だ。