Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

百円ショップで湯たんぽを探す

2017年02月07日 23時10分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は17時前には10メートル近い風が吹いた。瞬間最大風速では16メートルを超えたらしい。それ以前に帰宅していたのでほっとしている。20時現在も北風がときどき音を立てて枯木の枝を揺さぶっている。

 マッサージの治療と整形外科に行った。整形外科での牽引よりは、鍼による低周波治療の方が効果があるように感じる。しかし2000円近くかかるので毎日は無理。来週の予約をした。そののち、横浜駅近くの百円ショップで小さな湯たんぽを探したが、湯たんぽそのものの在庫がなく、入荷の予定もないとのこと。以前は棚に並んでいたのだが残念。百円ショップで販売している商品を購入するために隣りの桜木町駅や関内駅まで往復266円、412円の交通費をかけるのも勿体ないので本日の処は湯たんぽの購入は断念。大きいもので我慢することにした。
 神経痛でなければ、一駅くらいはいつも歩くことにしているが、今回は無理。痛みがなければ明日は東神奈川駅の傍にある中規模の百円ショップに出かけてみることにした。
 じっとしているのができない性分というのも困ったものである。歩けるようならば少しは歩いてみたい。

「桐火桶無絃の琴の撫ごゝろ」(蕪村)

2017年02月07日 19時36分35秒 | 俳句・短歌・詩等関連
桐火桶無絃の琴の撫ごゝろ(蕪村)



 蕪村は陶淵明を敬愛していたといわれる。無絃の琴、というのは陶淵明は琴は弾けなかったが、酒に酔うと絃の無い琴を撫でて、無為自然な振る舞いを愛した、という故事に因む。陶淵明は「桃花源記」の作者でもある。
 句意は、冬に桐火桶を抱いていると、陶淵明がこよなく愛した無絃の琴を撫でるというような気分になる、とでも解釈できようか。



 私は、以前はこの句が好きであった。しかし蕪村の描く武陵桃源図の人間のあまりに生々しい表情に首を傾げてきた。あまりに俗っぽい表情なのである。そして私は「撫ごゝろ」というのが最近はとても気になる。火桶を撫でるという行為は人の温もりも欲することでもある。しかし無絃の琴を撫でるという行為は人の交わりからは離れる指向、孤独へ馴致ではないだろうか。そこが俳諧らしいひねりといわれればそれまでだが、少々違和感は残る。
 ひょっとしたら、蕪村ならではの陶淵明批判なのかもしれないという風な解釈もできるのかと考えるようになった。

痛みは少し和らいできた

2017年02月07日 08時49分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝も坐骨神経痛の痛みはある。真っ直ぐな姿勢はとれないので、お尻を後ろに突き出すように腰が曲がっている。それでもここ2週間の痛みに比べたらかなり痛みが和らいでいる。痛くて悲鳴が上がったり、壁に手を突いたり、家具に手を添えないと歩けない、ということはない。
 整形外科での注射や軽い牽引が効いているのだろうか。それてもまだ1回しか施術は受けていないがマッサージ、鍼、灸の効果なのか、あるいはここ杖を突いたゆっくりとした歩行がそれらを促進したか、それとも昨晩教わった湯たんぽが良かったのか、どれが効果的だったのかはわからない。
 私の体の持つ自然治癒力がまだまだ捨てたものではないということで、時間という薬が解決してくれているのだろうか。

 昨晩教わった湯たんぽの利用はなかなか気持ちが良かった。続けようと思っている。我が家にあったのは2.3リットルと少々大きめ。朝でも50℃位はあった。もう少し小さめのものを百円ショップで探してみることにした。

 いづれにしてもこの快方に向かっているかもしれないという実感が湧いて来たような気がする。ただし予断は禁物。
 本日はこれからマッサージ・鍼・灸の予約をしている。昼前には整形外科にも顔を出すことにしている。

 お昼から午後にかけては予定がないので、喫茶店で読書タイム。