Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「雪の暮鴫はもどつてゐるような」(蕪村) 再

2017年02月09日 23時35分28秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★雪の暮鴫はもどつてゐるような(蕪村)

 1月26日にこの句について、西行の「こころなき身には‥」を下敷きにして、秋から冬への転換、北の古巣へ帰った鴫への転換、と記載した。
 しかし安藤次男の「与謝蕪村」を読んでいたら、別の解釈を記してあった。それは鴫を蕪村の独り娘「くの」にたとえる入るのではないか、と記してある。
 「くの」は1777(安永5)年12月に商家に嫁ぎ翌年5月には早くも実家へ戻している。半年ほどで離縁した(された)愛娘が、ひょっとしてその6ヶ月あまりの間に自分の家に戻って母親と何やら苦しい胸の内を語っていることを、それとなく知った父親の感慨ではないか、というのである。
 句の句、作句年代未詳なのでそのような現実と本当にかかわるのか、それは確定できないかもしれないが、安藤次男の解釈はいかにも俳諧的なところもあり、私はとても心惹かれた。
 これだ、という解釈はなかなかわからないものでもあるが、和歌的な雅からの転換をさらに一歩進めて、生活感の詰まった領域なのかもしれない。とても近代的な句なのかもしれない。

「信仰の眼で読み解く絵画Ⅱ」

2017年02月09日 19時44分35秒 | 読書
   

 本日読み終わった本は、図書館で借りて来た「信仰の眼で読み解く絵画Ⅱ~ブリューゲル、デューラー、クラーナハ~」(岡山敦彦、いのちのことば社)。西洋のキリスト教絵画はなぜか日本ではカトリックの立場で語られる場合が多いので、プロテスタントの立場からの書籍はあまりない。プロテスタントが総じて祭壇画や聖書に基づく絵画を否定しているという刷り込みが強すぎるのだろうか。またマリア信仰が否定されているような誤解も強い。
 本書はプロテスタントの立場、それもかなり信仰の立場を明確にした書物であるので、違和感の強い思いはする。しかし16世紀のヨーロッパを語るに宗教改革と中世から農民戦争に至る歴史を無視しては語れない。そういった意味ではとても参考になる記述が多数あったとおもう。特にデューラーについてはいろいろ勉強になった。

ヴァイオリンの活躍する管弦楽2曲

2017年02月09日 15時48分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 整形外科の診断を待っている間、後から入ってきた人が「雪が混じっている」と言っていた。診療を終えて、会計を待っている間外を眺めていたが、すでに雪はまじっていない。だが外はとても寒く、そして小雨はいかにも冷たかった。
 バスで帰ると二人で900円を超えるのでタクシーで帰宅するのと変らない。6円ほど高くなるだけなので帰りはタクシーを利用した。

 ウーロン茶を淹れてもらい、久しぶりに午後のFM放送をかけたらブルッフの「スコットランド幻想曲」が聴こえてきた。ヴァイオリンはサルヴァトーレ・アッカルド、管弦楽はライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、指揮がクルト・マズアであった。
 この曲はヴァイオリン好きには欠かせない曲である。確かに美しい。本日も聞き入ってしまった。

 そののちは、ショパンのバラード第4番。ピアノはチョ・ソンジン。そして今はラフマニノフの「交響曲第2番」がかかっている。管弦楽が、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団で指揮はエド・デ・ワールト。ラフマニノフの第2番は私はあまり聴く機会がなかった。いかにもラフマニノフ流というのだろうか、作曲家のサービス精神満載の曲である。ヴァイオリンのソロがやはり聴きどころでもある。
 ブルッフのスコットラド幻想曲といい、ラフマニノフの交響曲第2番といい、こんな寒い日にはいい選曲となったようだ。

 十年ぶりくらいにラフマニノフを聴きながらボーっとしていたら、妻が「また雪交じりになった」と喜んでいる。確かに白いものが雨に混じっている。不謹慎だとはいえ、雪を見て心が躍るのは致し方ないか。現役の頃は37年雪と付き合ってきて、雪を見ると条件反射でげんなりしていたが、ようやく5年かかってその状態から脱しつつあるようだ。それがいいことなのか、どうかは分らないが‥。
 本日はその雪を見ながら日本酒を飲みたくなってきた。ランチタイム後、スーパーで焼き鳥、しかも皮を塩で5本購入してもらった。これで少しは元気づけ。

坐骨神経痛の診断と対処方針は変わらず

2017年02月09日 14時47分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 9時15分過ぎに家を出て、総合病院の整形外科を受診、レントゲンで腰と脊椎を撮影し、診断をしてもらった。
 横浜駅傍の整形外科での見立てと変わらず坐骨神経痛とのこと。そしてこれも前から言われていたが脊椎棺狭窄が見られるとのこと。骨盤に異常はないらしい。
 いづれにしても抜本的な治療はなく、痛みが出たらそれを和らげるための痛み止めと低周波治療くらいしか対処方針はないらしい。通いやすいこれまでの整形外科での治療を続け、痛みとながく付き合うしかない、と云われた。
 ウォーキングやストレッチなどは症状を自覚しなくなってから再開するように云われた。これも当然といえば当然だが、いつからかということは何ともいえないとも‥。
 もとから予想されていた結果ではあるので受け入れるしかない。あたためるのは有効だが、ただ、痛みがひどい時は湯たんぽや長湯は避けて、痛みがひいてから温めた方がいい、とのこと。
 10時前の受付で「整形外科は混んでいて長く待ちますよ」と云われたが、結局11時半には会計も済ませることが出来た。
 妻と病院で待ち合わせて、パン屋のイートインコーナーでランチを摂ってタクシーで帰宅。本日の夜の「「オルセーのナビ派展:美の預言者たち―ささやきとざわめき」“ブロガー・特別内覧会”」は断念することとした。

 寒い上に小雨とはいえ雨が降りやまない。傘をさしながら杖を突いて歩くというのは、痛みがいつ再発するかわからない状態では不安である。元気な時ならばとても考えられない理由である。人生これまで体力にものをいわせて好き放題して来たのだから、仕方ない、あるいは自業自得と云われれば飲み込むしかないのは十分承知をしているが、寂しいものである。自分の意識と、肉体がこのことをどうやって受け入れていくのか、なかなか摩擦が強そうである。