Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

入りたくない飲食店

2017年02月03日 23時31分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は整形外科で坐骨神経痛の治療の一環として注射を打ってもらった。すぐには痛みはひかなかったが、昼食後のコーヒータイム中にスーッと痛みが引いていったのが実感できた。
 これまでならば横浜駅から図書館まで30分ほど歩いていったが本日は電車を利用して歩く時間は10分ほどに短縮。図書館で新しい本を借り受け、ゆっくりと40分ほどかけて帰宅した。家についても痛みは再発しなかった。
 夕食後に椅子から立ち上がったところで若干の痛みが再発したが、これまでよりはずっと楽である。明日・明後日とどうなるか、明後日の退職者会の新春のつどいまでは何とか痛みは再発しないでもらいたいものである。

 さて本日は整形外科のある大きなビルの地下で昼食を食べようとした。よく行く居酒屋のランチを食べた。しかし隣にこじゃれた洋風の食堂が出来ている。若いОLが列をなしており、人気である。ところが驚いたことに使用する野菜が店の前にそのまま山積みにされている。以前も気にはなっていたが、本日は特に多かった。ビルのオーナーはどのように対応しているかわからないが、マナーの悪い店の経営者だなぁという感想はぬぐえなかった。しかし私が一番嫌なのは、その衛生観念である。あのまま通路に剥き出しで山積みにされていた野菜が食用に供されるのかと思うとぞっとした。その傍には便所があり、皆が歩いている通路に白菜やキャベツの葉が垂れ下がっているのを見ると愕然とする。
 通路の消毒はしているかもしれないが、殺虫剤をまいているので、その殺虫剤に直に触れていることになる。
 以前このブログに記載したか否かすっかり忘れてしまったが、もう一度私の飲食店選択の基準を列挙してみたいと思う。
 嫌われるのを覚悟で、口うるさいオヤジの憎まれ口である。

A.見ただけで絶対に入らない店
1.店の周りに食材を積み上げている店
2.入って飲食スペースと厨房が不潔であることが一目でわかる店
3.値段が明示されていない店

B.一番安いものを注文して、その分の金額だけを払い出てくる店
1.厨房やスペースの不衛生が目についた店
2.便所が汚く、手洗い石鹸も置いていない店
3.メニューに載っているにもかかわらず注文しても複数のものが理由も云わずに「できません」という店
4.メニューよりも壁に貼り出したものを勧める店

C.二度と来ない店
1.分煙になっていない店
2.会計が不明朗な店
3.美味しくない店(味のバランス、歯ごたえが固すぎ・柔らかすぎ、素材の味がいきていない‥)
4.味が濃い店
5.「大盛り」を売りにしている店
6.注文をなかなか聞きに来ない店、催促しても音沙汰のない店
7.あたたかいはずのものが温かくない店
8.電子レンジで温め直している店
9.常連が大きな顔をしていたり、常連が店員のように手伝っている店
10.従業員の声が必要以上におおきかったり、騒がしい店
11.注文したもの以外にしつこく他のものを勧める店


D.できれば次は来たくない店
1.タレントなどの色紙をたくさん張り出している店
2.調理員や店員が客と話し込む店
3.能書きがうるさい店

 こんなところである。こうやって列挙してみると、味よりも衛生上の問題、接客上の問題が判断基準になっているようだ。思いついたらまた書き足すのもありか。

 口うるさい年寄りなのでどうせならここまで憎まれ口をたたいてしまえという開き直りである。

「信仰の眼で読み解く絵画Ⅱ」(岡山敦彦)

2017年02月03日 17時09分52秒 | 読書


 先日市立図書館で借りた図書(「中世の美術(ケンブリッジ西洋美術の流れ2)」(アニー・シェイヴァー=クランデル著、西野嘉章訳、岩波書店))はまだ読み終わっていないが、結構読むのは大変で、建築関係の言及が中心。絵画関係を中心に眼をとおすことにしているが、時間がかかりそうである。
 同時に申し込んだ「信仰の眼で読み解く絵画Ⅱ~ブリューゲル・デューラー・クラーナハ~」(岡山敦彦)が本日配本となった。
 信仰心のかけらもない私が読むことになるとは私もびっくりだが、読み物としては読みやすそうである。信仰する立場での絵画鑑賞はしたことはないので、信仰者の眼という視点でどのように鑑賞しているのか、興味が湧いた。もっともミッションスクールだったので半世紀前のブラザーの言動などは実際に見聞きしている。半世紀前と今とでは信仰者の言動も随分と違っている可能性はある。しかも今回の著者はプロテスタントである。どのような論なのか、興味がある。
 多分電車の中や喫茶店での読書として手ごろに思える。信仰の押し売りではない書物・叙述であることを期待している。

大勢の前でしゃべること

2017年02月03日 10時12分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝も臀部から右足大腿部の側面にわたって痛みがひどい。起きてすぐに洗面所にいくために家具や壁に手をついてようやくたどり着いた。再び布団に戻り足を若干動かしてから起きると多少痛みが薄らいだ。起きてから時間がたてば徐々に痛みは薄らいでいくが、完全に痛みが去るということがない。
 もう一度医師の診断と治療を求め、それでも治らない場合は別の病院にかかることも選択肢に遡上させないといけないようだ。
 私のすむ団地の傍にも整形外科がいくつかあるが、どうも納得のいくところがない。歩いて25分ほどのところにある整形外科の医師は評価できるがとても混雑しており、待ち時間が2時間もかかることがしょっちゅうである。それだけこの近辺には信頼される整形外科が少ないということの裏返しでもある。

 5日の退職者会の新春の集いの司会役をさせられることになったが、着るものがない。ズボンは通勤で履いていたズボンは入る。しかしそれに合う上着はない。ワイシャツとネクタイと薄手のセーターでごまかすしかないが、果たしてネクタイ姿が身に付いた格好に見えるか、大きな謎である。ほぼ5年間身につけていないものは、よそ目にもフィット感がない。それは自分が他人を見ていても分かる。正装が怖くなる。「正装すると肩が凝る」ということばが身に沁みる。
 そしてあいさつ、来賓者紹介などのことばがスムーズに出てこないと思う。同じことを伝えるにしても、50人未満のいつも顔を合わせている身内のような慣れ親しんだ人を前に話すことと、140人くらい公的な場での発言は、ステージが違う。どちらの場面も現役時代はいつもこなしていたので、特に前もって準備しなくても出来たが、今はまったく自信がない。言いよどんだり口ごもったりすることは特に問題はないが、言い忘れ、言い回しの間違いが怖い。言葉は発声してしまったらもう取り消しも訂正もほぼ無効である。むろん間違えました、といって訂正すれば仲間内でもありそれは許されないことはないが、相手を傷つけたり、失礼をしてしまったことはなかったことには出来ない。
 実は昨晩布団の中で、あいさつや来賓紹介の時の一般的な言い回しをさらっていたが、すぐに寝てしまった。まったく練習にならなかった。何度も口の中で唱えるように繰り返すことで、応用力も含めて身に付くのだが、今晩再度挑戦である。
 昼間、喫茶店や歩きながらやったのでは、人目が恥ずかしい。