朝の内は太陽が顔を出していたが、昼前には南から西にかけて厚い雲が空を覆っている。東と北は雲は半分くらいだろうか。風が少し出ている。
13時を超えてから痛いのを我慢しながら横浜駅の整形外科に向かった。35分歩くのは難しそうなので、バスを利用。低周波治療のあとは珈琲の1杯でも飲みたいものである。
終日家にいると、見るともなくテレビの電源を入れている。私の場合はドラマよりも、科学番組・美術番組・クラシックかジャズの番組などが好みである。だが気に入るような番組はいつもは放映していない。どれも身を入れて見る気にはならない。かといって読書もままならない。不思議なものである。読書に身が入らないのは、最近のすぐに疲れる眼の事情もあるが、やはりあの7日の傷みの精神的な後遺症だと思う。臀部から太ももにかけての痛みが鈍痛として継続しているのが、どうしても気にかかる。テレビの場合はそこまで緊張感がなくとも継続して見ていられる。読書よりも眼は楽である。読書の方が本と眼の距離が近いためだと思われる。脳の緊張も、意識の集中力も読書の方が求められる。
小学校の時、今の3チャンネルで実験的にテレビでの実験などの授業が行われた。私は最初真剣に見ていた。今から思うと、意外と集中力がなく見ていたようで、細部の記憶がない。実際に蝋燭をともしてじっと見つめていた時の方が集中力と細やかな観察ができたと思う。その時の方の記憶の方が鮮やかである。
しかもテレビで見た蝋燭の燃焼実験は、教室でも行った実験の焼き直しだったうえに、教科書とは少し違うやり方や考察に飛躍があるように思えた。些細なことではあるが、蝋燭の燃焼実験で同じ形で同じ大きさの蝋燭の燃焼時間は同じ、という結論がどうしても納得できなかったことは鮮明に覚えている。
その結論に至るには、蝋燭を支える皿の形状・突き刺す台の針の形状や大きさ、最初の芯の長さなどが考慮されなくてはいけない、と感想を生意気にも書いたことを覚えている。そのどれもが教師から無視された。小学校5年生の担任には煩わしい児童であり、同級生からは小生意気に見えたと思う。その質問をした時の教室全体の冷たい目を今でも覚えている。
今はどうなっているかは知らないが、ビデオやテレビでの授業というのはどこか予定調和的なものがあるのではないか。実験などと言うのは、予期しない結果や想定外の事象が起きてこそ、その目的が徹せられる。予定調和的な実験など意味がない。そんな生きた授業は今の時代はどのように想定されているのであろうか。
しかし私は本当にかわい気のない小学生だったと思う。こんな児童は扱いにくかったと心底思う。私が教育者だったらどうやって付き合ったらいいのだろう。自分のことながら、今でも首を傾げてしまう。