★雪に来よといふ人住(すむ)やよしの山(蕪村)
有名な句だが、この句は西行の新古今集の歌を踏まえているということをきかないと理解はできない句である。
・寂しさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古今集627・西行)
(自分と同じように寂しさにたへた人がいたら、この冬の山里で庵をならべて共に暮らしたいものだ)
・吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ(新古今集1619・西行)
(私は吉野山に入ってそのまま山から出まいと思っているが、花が散ったらまた戻って来るだろうと、あの人は待っているかもしれない)
西行の歌は、自分が寂しい山里や吉野山で耐えている身になって詠んだ歌だが、蕪村の句はそのような寂しい庵から呼びかけられる句になっている。情景が主客が交代している。この変化を楽しんでいる。どちらかというと文人好みの高雅な遊びに徹している。
ここまでくるとちょっと趣味が高尚過ぎて、嫌味にもなってしまうそしりはあるだろう。それがいいという人もいるが、余程の西行好きでないと現代人には通用しないことは確かだ。
しかし一方で、解説を読めばすぐに理解できるというのも考えさせられる。寂しい山里に人を避けて住みたい、あるいはそのような誘いをしてくれる友人がいるということをうらやむ心性というのが、現代人にも理解できる。「日本人だけ」の心性ではなく、人間にとって普遍的な感情であるという視点からこの歌と句を考えてみるのも面白いのではないか。
有名な句だが、この句は西行の新古今集の歌を踏まえているということをきかないと理解はできない句である。
・寂しさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古今集627・西行)
(自分と同じように寂しさにたへた人がいたら、この冬の山里で庵をならべて共に暮らしたいものだ)
・吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ(新古今集1619・西行)
(私は吉野山に入ってそのまま山から出まいと思っているが、花が散ったらまた戻って来るだろうと、あの人は待っているかもしれない)
西行の歌は、自分が寂しい山里や吉野山で耐えている身になって詠んだ歌だが、蕪村の句はそのような寂しい庵から呼びかけられる句になっている。情景が主客が交代している。この変化を楽しんでいる。どちらかというと文人好みの高雅な遊びに徹している。
ここまでくるとちょっと趣味が高尚過ぎて、嫌味にもなってしまうそしりはあるだろう。それがいいという人もいるが、余程の西行好きでないと現代人には通用しないことは確かだ。
しかし一方で、解説を読めばすぐに理解できるというのも考えさせられる。寂しい山里に人を避けて住みたい、あるいはそのような誘いをしてくれる友人がいるということをうらやむ心性というのが、現代人にも理解できる。「日本人だけ」の心性ではなく、人間にとって普遍的な感情であるという視点からこの歌と句を考えてみるのも面白いのではないか。