★身の闇の頭巾も通る月見かな 蕪村
1768(明和五)年の作。先に取り上げた「おのが身の闇より吼えて夜半の秋」(蕪村)の「身の闇」は同じだが、こちらの「身の闇」はちょっとわかりにくい。「おのが身の闇より‥」の方は狗の「野生」のことと理解できる。そしてそれは人間が社会生活の中でいつの間にか持ってしまうどろどろとした情念の喩えにもなっている。
一方この「身の闇の頭巾‥」の句では「身の闇」があまりに曖昧としている。句としては成功していない部類の句だとは思う。しかし1768年という江戸時代中期、明治維新の100年前の句として見ると現代的な句に思える。近代の波をかぶったような句ではないかな、と思う。あるいは私の江戸時代の理解の至らなさなのかもしれないが‥。
同じ年に有名な「月天心貧しき町を通りけり」(蕪村)の方が、余程「身の闇」を感じる。こちらの方が俯いて、何かの強い思いを抱えた人間の姿が自然に浮かんでくる。
現在横浜では雨は降っていない。夕方から出かける予定があったが、杖を突きながら傘をさして歩くという芸当はしたくないので、ずっと家にいた。そしてとても寒い。
「シャセリオー展」の感想を書かなくてはいけないので、先ほどから図録を読んでいた。シャセリオーという画家、どんな闇を身の内に養っていたのだろうか。そんな切り口を見つけられたらいいのだが。
この図録を読むのに、椅子にずっと座り続けるとまた神経痛の痛みが間違いなく出る。ベッドに寝転がったり、いろいろ工夫をしている。しかしベッドに横になるのは痛みを引き出す可能性の方が高い。特に俯せの姿勢はよくない。間違いなく痛みが出る。
お昼に友人から整体の本を勧められた。さっそく購入しようと本屋を2件回ったが置いてなかった。ネットで購入するか、図書館から借りてくるか、どちらにしても一度手にして、やってみたいと思っている。早目の方がいいのだが‥。
1768(明和五)年の作。先に取り上げた「おのが身の闇より吼えて夜半の秋」(蕪村)の「身の闇」は同じだが、こちらの「身の闇」はちょっとわかりにくい。「おのが身の闇より‥」の方は狗の「野生」のことと理解できる。そしてそれは人間が社会生活の中でいつの間にか持ってしまうどろどろとした情念の喩えにもなっている。
一方この「身の闇の頭巾‥」の句では「身の闇」があまりに曖昧としている。句としては成功していない部類の句だとは思う。しかし1768年という江戸時代中期、明治維新の100年前の句として見ると現代的な句に思える。近代の波をかぶったような句ではないかな、と思う。あるいは私の江戸時代の理解の至らなさなのかもしれないが‥。
同じ年に有名な「月天心貧しき町を通りけり」(蕪村)の方が、余程「身の闇」を感じる。こちらの方が俯いて、何かの強い思いを抱えた人間の姿が自然に浮かんでくる。
現在横浜では雨は降っていない。夕方から出かける予定があったが、杖を突きながら傘をさして歩くという芸当はしたくないので、ずっと家にいた。そしてとても寒い。
「シャセリオー展」の感想を書かなくてはいけないので、先ほどから図録を読んでいた。シャセリオーという画家、どんな闇を身の内に養っていたのだろうか。そんな切り口を見つけられたらいいのだが。
この図録を読むのに、椅子にずっと座り続けるとまた神経痛の痛みが間違いなく出る。ベッドに寝転がったり、いろいろ工夫をしている。しかしベッドに横になるのは痛みを引き出す可能性の方が高い。特に俯せの姿勢はよくない。間違いなく痛みが出る。
お昼に友人から整体の本を勧められた。さっそく購入しようと本屋を2件回ったが置いてなかった。ネットで購入するか、図書館から借りてくるか、どちらにしても一度手にして、やってみたいと思っている。早目の方がいいのだが‥。