Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

バンドネオン演奏会

2017年03月11日 22時07分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 横浜市の神奈川公会堂で開催された「春のコンサートin公会堂 Vol.ⅩⅣ」を妻と二人で聴いて来た。
 出演はバンドネオン小川紀美代、ヴァイオリン上原千陽子、チェロ三間早苗による、クラシックとタンゴの曲を17曲とアンコール2曲。14時~16時半までたっぷりと堪能した。
 無料ということもあり、神奈川公会堂は立ち見も出るほどの満員であった。
 タンゴの曲は実に久しぶり。十年ぶりといっていもいいくらい前に横浜美術館の石の広間で聴いた気がする。それ以来である。
 3月11日ということで、聴きに来た人も含めて全員で黙とうしてから演奏会を始めた。
 しかし前の椅子との距離も短く、途中から坐骨神経痛の痛みがで出てきて、つらかった。

「レクイエム」(ドボルザーク)

2017年03月11日 20時05分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 NHKのFMをかけたら、ニュースの直後からドボルザークの「レクイエム作品89」の演奏が始まった。ソプラノ:佐藤しのぶ、アルト:伊原直子、テノール:川上洋司、バス:多田羅迪夫、合唱:国立音楽大学、管弦楽:NHK交響楽団、指揮がハインツ・ワルベルクとなっている。92分を超える大作で、1990年の録音となっている。
 解説の池辺晋一郎氏は特に何も言っていないが、3月11日ということでこの曲が選曲されたのであろう。私はドボルザークにレクイエムがあるとは知らなかった。
 ドボルザークの曲は、弦楽セレナード、ピアノ五重奏曲第2番、交響曲第9番「新世界より」、スラヴ舞曲集、チェロ協奏曲、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」以外はあまり聴くことがない。
 声楽部分の比重が大きく、私の好みからは少し外れるものの、管弦楽の響きはなかなかいい曲である。

 ネットで調べると、「1890年1月から10月にかけて作曲された。イギリスのバーミンガム音楽祭のための新作依頼に応えて作曲されたもので、「スターバト・マーテル」の場合とは異なり、精神的衝動が契機となったものではないが、素朴で抒情的な美しい旋律にあふれたレクイエムであり、ブルグハウゼル(オランダ語版、チェコ語版、英語版)は「ドヴォルザークの全作品中最も哲学的な作品」と評している。初演は1891年10月9日、バーミンガム音楽祭において作曲者自身の指揮によって行われた。なお本作はテキストこそラテン語であるが、一部の区切りが独自的であるなど、既存のレクイエムからはやや逸脱したものとなっている。演奏時間は約1時間35分【Wiki】」と記されている。

3.11を迎えて

2017年03月11日 02時29分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 地震災害ということで、1995年1月17日の阪神淡路大震災とともに私の頭の中にきざみこまれている。
 阪神淡路大震災では労働組合としてどのようなかかわりができるのか、自治体としての行政支援のほかに労働組合としてのかかわり方を模索し、実際に活動を手探りでしたことを良く覚えている。しかしこの経験を60歳になるまでに再び体験するとは思いもよらなかった。
 3月11日の当日の行動はもうこのブログでも幾度も記載している。しかし自分の中でいつも反芻したいことでもあり、またしても書いてみる。
 3月11日の午後、歩いて近くの現場に出向いた私は、ちょうど下校が始まったばかりの小学校の傍を歩いていた。迎えに来た父母なども周辺にたくさんいたのを覚えている。
 近くの大きな駐車場を持つコンビニエンスストアから店員が「地震だ」といって飛びだして来たのを覚えている。そして同時にコンビニの駐車場に立っている大型で高さのとても高い看板が大きく揺れ、駐車場に停めてある車が弾むように上下するのに気が付いた。
 どこに自分の身を持って行ったらいいのか咄嗟の判断ができないうちに、多くの小学生がコンビニの大型看板の柱や、変圧器などをたくさん載せている東電柱にしがみつき始めた。中には母親も子供と一緒に柱にしがみついていた。
 咄嗟に「上から看板が落ちてきたら危険だから離れろ」と2本の電柱と看板の柱にしがみついている子どもと母親に声をかけたものの、いうことなど聞いてくれない。コンビニの大型看板にしがみついている子どもの手をほどいて駐車場の車両の無い場所につれて行こうとしたが、しっかりとしがみついているので離れない。私はやむなく看板の大きな揺れを睨みながら、柱にしがみついている子どもの傍についていた。もしも看板が崩れるようだったら強引に手を離させて逃げようと考えた。さいわいにもしばらくして揺れはおさまり、電柱も斃れず、看板も落ちてこなかった。
 しかし余震が来るかもしれないから、すぐに家に帰るように柱にしがみついている子に伝えたところ、電柱にしがみついていた他の子の母親が、その子に一緒に家に帰ろうと手を引いてくれたので、その子を預けた。
 この初動でのことが今でも頭から離れない。あのときの判断が的確だったか、今でもわからない。そしてもしもがけ地の傍だったり、駐車場の車があちこちに動き出したらどうしたらよかったのか、結論は出てこない。
 そして気がついたら信号が消えている。バス通りで通勤時は車は多いが、その時間帯はさいわい車の通行は少なく、学校の先生が出てきて交通整理をはじめだので、私は急いで職場に小走りで戻った。
 職場内は停電ではあったがけが人もなく、現場作業の職員は無線を常に携行しているので無事はわかった。所長の命令でほぼ全員が区内の点検に手分けして出かけることなど対応はすぐに軌道に乗った。
 しかし私は別途市内19か所に点在する組合員130余名の無事を確認したかった。定年1年前なので支部役員は降板していたが、それでも11月までは支部長であったので、どう連絡を取るか悩ましかった。また日本のどこの地震なのかもまだ不明であった。当時は携帯電話もつながらず、市内19の職場はそれぞれの区内で無線を使っているので、4チャンネルの無線を回しながら18の職場の無線の通信を傍受した。その結果18職場ではほぼ職員にけが人がいないこと、施設点検に18職場がきちんと動き回っていることが類推できた。問題は関内にある職場である。こちらは無線もないので状況はその日は最後まで分からなかった。
 夜になり暗い中でみんなの食事をつくろうとしたところ、施設点検の結果は問題ないので、「今晩は約半数だけ残り、解散と決まった。」ただし翌日は土曜なので、近くの人は翌日以降自宅待機とすることになった。私は定年前の人も解散でいいと労わられて帰宅することになった。それが20時ころであったか。かえっていいといわれても家まで歩いて15キロほど。バスも満員の上、ほとんど動いていない。停電で真っ暗の道をときどき行き交う車のヘッドライトを頼りに3キロ程歩いた。隣の区に入ると電気がついており、自販機も転倒しており、喉を潤し、スポーツドリンクで栄養を補給できた。しかし倒れている自販機もあった。
 自宅まで5つの区をとおり抜けるのだが、どこの区でも職場の庁用車を見つけることが出来、声をかけてそれぞれの職場にけが人のいないことは確認できた。
 沿道のどの店も食品棚はみんな空。便所は使わせてもらったものの、スポーツドリンクだけではお腹が満たされなく、寂しい思いはした。いくつかの町内会館では便所利用可、水ありなどの努力をしているのを見て、ホッとしたのを思い出す。
 関内駅傍の職場も帰宅途中にあり、短時間寄ってけが人がいないことを聴いたときは、嬉しかった。
 自宅にたどり着いたのは日付も変わりそうなとき、妻も六本木から横浜駅まで歩いて戻ってきていた。17キロ上は歩いたようだ。たいしたものだと感心したものである。
 さいわいすんでいる団地は計画停電も断水もなく、建物の被害もなく助かった。
 3月14日(月)以降は、電車も元に戻り、職場に出向いて組合員の安否確認をし、夜は組合の本部にも行き、各種の連絡に追われた。
 3月15日以降横浜市内の各区の被害状況が集まりだし、結構爪跡の大きいことがわかってきた。沿岸部での液状化、道路の陥没、高層ビルの長周期新道での内部家具の被害などなど。

 組合員への安否確認は思うようにはできなかった。現在は携帯電話等の回復も早いようなので、改善はされていると思われるが、課題としては残っている。

 東北地方は学生時代に過ごしたこともあり、知人が多いのだがなかなか連絡が取れなかった反面、この震災を機に35年ぶりに連絡が取れた方も多くいた。
 東北の復興支援や原発事故への関わりなども、この3.11のことを思い出すことで改めて記憶によみがえってくる。3.11当日のことを思い出すとそれ以降の自分の行動やかかわりや当時考えたことなどが縄を手繰り寄せるように思い出される。
 このことは語り継ぐということにおおきな役割を果たしていると思われる。どんな些細なことでも自分の中で反芻しながら思い出として蓄積していくことが大切なように思われる。

 さて、今年から政府の追悼式典ののちの総理大臣記者会見を中止するという報道があった。式辞で十分ということらしい。「一定の節目を迎えた」「(影響は)全くない」という政府の言い方では判断の根拠にはならない。出来上がった文章の朗読が人を動かすのは、練りに練った言葉の背景にあるその人の人格が滲み出てくるときである。またこの式辞に自信があれば、記者会見でのやり取りを進んで行うはずだ。この総理大臣の国会での答弁などを見る限り、そのような実のある式辞はとても期待できない。常にこの総理からは「誠意ある」言葉が聞こえてこない。何しろ「福一の事態はアンダーコントロール」と世界に向かって言ってしまう前科がある。
 3.11の風化と忘却と切り捨てが、政府から発せられてしまったように感じる。私だけの短絡だろうか。