Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

公園でコーヒータイム

2017年03月19日 22時04分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は 毎日履いているGパンがボロボロになってしまったので、安いものを2本購入した。足の短い私に合わせたように裾上げなしで履けるものを見つけた。1本2000円しないのにはビックリ。

 本日の午後からは雲が一面空を覆ってしまったが、暖かかった。買い物に付き合って家から20分ちょっとのスーパーまで。本日まで5日連続で杖を突かずに歩いた。
 荷物は持たされなかった。一応情けをかけてもらった。風はほとんどなく西に傾きかけた太陽が雲の向こうに弱い影を見せていた。
 コンビニで購入したコーヒーを持って、スーパーの近くにある大きな公園のベンチでコーヒータイム。春になった実感がした。公園の外周に植わっている桜はまだまだ固い蕾である。チューリップの丸まって尖った葉が15センチほどの長さに伸びていた。
 明日は退職者会の取組みで代々木公園まで。横浜駅に11時集合。退職者会の集合は早い。決めた時間の30分以上前に行かないと怒られてしまう。昼食を摂って集合ということにしたので、集合時間が中途半端に少し早すぎたかも知れない。
 帰りは例によって渋谷近辺で慰労会、帰宅は夜になりそうである。



「暁の歌」(シューマン)

2017年03月19日 18時11分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 伊藤恵の「シューマニアーナⅣ」におさめられている「暁の歌」(作品133)。私はことのほかこの曲が気に入った。
 Wikipediaには次のような記述もある。
「「朝の歌」とも訳。はロベルト・シューマンのピアノ独奏曲集で、全5曲。1853年10月、シューマンの死の3年前に作曲、彼の最後の作品の一つ。この頃精神的、感情的な不調に苦しむ。本作は明晰な形式的、調性的、旋律的構成を示すが、集中力低下と精神異常の亢進で作曲過程が難解。自殺未遂と精神病院収容のわずか5ヶ月前に作曲され、「偉大なる女性詩人」ベッティーナ・フォン・アルニムに献呈された。妻クララ・シューマンは日記に、「暁の歌、いつもと同様独創的だが難解で、その響きは甚だ奇妙」と書いている。晩年の多くの作品と同様、まことに難解である。音楽は非常に絶妙でありながら、時として落ち着きないものとなっている。作曲者の精神的崩壊が音楽に陰を落としている。シューマンの最後のまとまったピアノ作品」。 〈要約〉

 「難解」という記述の仕方がなかなか理解できないが、わたしにはとても親しみがわく。このような静かで沈潜する曲が私の趣味である。
 CDの付属解説にはシューマン自身のことばが引用されている。
「これらは夜明けの感じを描いた小品ですが、それは音画というより、感覚を表現するものなのです」

 「精神敵崩壊」がこの作品のどこにどのように現われているのか、わたしにも、この曲を聴く多くの人にもわからない解説である。何度聴いても「落ち着きのない」という箇所がどこを割いているのかもわからない。
 「精神的崩壊」があったとしても、作品を作り上げる時には作曲家の頭脳は明晰であり、綿密に練り上げられたヴィジョンのもとに意識的に作られたものであると私は楽曲であろうが、詩・小説であろうが、美術作品であろうが間違いがないと信じている。「精神的崩壊」に帰着すればすべてが解釈でき、評価したつもりになるのは多分なにごとも語ってはいない。

 楽曲の分析的な評価・解釈がどのようなものかはわからないが、この曲を聴いて気持の安定と静寂を得る私は果たして「精神的崩壊」と不可分にあるのだろうか。とてもそんなことはあり得ない。

 高橋悠治は
「暁の歌」の暗く重い響きは
きらきら輝く和音をもとめてたえずのびあがっている。
尖塔の高窓に反射する最初の日の光なのか、
実は落日の名残ではないのか。

と述べている。実は私も「暁」ではなく「落日」を思い浮かべた。
 暗く思い響きの中にきらめくような音の乱反射を聴き分けることが出来る。聴き分けられる時は私の精神が、いい状態のときである。

安野光雅「きりえ百首」から -2-

2017年03月19日 12時28分26秒 | 読書
★わられかつて魚(うお)なりし頃かたらひし藻の蔭に(かげ)に似るゆふぐれ来たる    水原紫苑



 これはかなり有名になった歌で私でも記憶している。前回の道浦母都子よりも一世代後の1959年生まれの歌人。私はこのふたりの世代の間に生まれた。
 「魚なりし」に女性の「性」を感じる。道浦母都子が「弧」にこだわりその世界を追いかけたのに比べると、この世界は「ふたり」の世界である。世代論というのはあまりピンとは来ないが、団塊の世代、全共闘世代と、その後の世代のこだわりや寄ってたつところの違いを水原紫苑が注目されたときに云われていた。
 私は水原紫苑の現在の展開などはわかるべくもない不勉強である。しかし歌というのは現在も大切な要素かも知れないが、若い感性をどう処理しようとしたか、もまた読む者には大切な契機となる。それだけ私の思考も停止しているのかもしれない。

★指からめあふとき風の谿(たに)はみゆひざのちからをぬいてごらんよ    大辻隆弘



 前回は岸上大作の歌を取り上げた。岸上大作は1939年生まれだから、道浦母都子よりはさらに一世代上。今回の大辻隆弘は1960年生まれ。水原紫苑と同世代といえる。
 似たような情景だが、男が歌うと直接的になるという証だ、という評もある。
 果たしてどちらがより直接的なのか、受け取り方もあるだろう。私は水原紫苑の歌の方に直接的な「性」を感じる。

 そして安野光雅のきりえ、両者の歌の違いを、樹木の太い直線的な構図と、海藻の揺らめく曲線の豊かな巾で際立たせている。頁は違っているのだが、この対比に惹かれた。


会議はまだまだ続く‥

2017年03月19日 01時02分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 19時に始まった団地の管理組合の会議が24時を過ぎてもまだ続く‥。もうこれは会議ではない。とてもではないが、ついて行けない。
 次年度以降、どのように変えたらよいか、それを考えただけでも頭が重くなる、憂鬱になる。これから2年間付き合わないといけないと思うとただただ憂鬱になる。

 聞いているだけで疲労困憊してしまった。