Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

あらたな不安と絶望を予感しつつ‥

2017年03月07日 23時27分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日バスの移動中や病院で待っている間、横浜駅の喫茶店で合わせて1時間ほどの読書タイム。
 「地球の歴史(上)」(鎌田浩毅、中公新書)を読んでいた。ようやく半分読み終わった。ちょぃと時間がかかり過ぎ。ようやく第3章「プレート・テクトニクス開始と大陸の成長」まで漕ぎつけたところである。

 美術関係の書籍と、地球物理関係の本、古代史、小説・文学関係、詩・短歌・俳句関連の本、その他の本を交互に読み進めるのが私の理想である。ただし古代史関係とその他(中井久夫や白川静などなど)については、今は中だるみ・中休みの状態。中だるみ・中休みの部類はそのときの精神状態や興味の向きに従いときどき変わる。どうも本や興味の内容が不定期に変化し、落ち着かないのは私の欠点である。浮気性なのだといわれている。

 先日取り上げた加藤楸邨の句集「山脈(やまなみ)」から。いづれも1950年から1952年の句を集めたものだが、以下の3句ははじめの方に収録されているので、多分1950年の作と思われる。私が生まれた年が1951年。まだまだいたるところに1945年に敗戦となった戦争の影が残り、そして東西冷戦の余波を受けたあらたな戦争が確実に目の前に迫っていた時期である。そんな不安をこの句からも嗅ぎ取ることができる。

★大いなる冬日を負ひぬ遺児として
★わが咳がたたしめし冬の蝶は舞ふ
★一燈を消せば雪ふる夜の国

気力の回復の仕方

2017年03月07日 22時25分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 シャセリオー展の感想につかう作品を図録からスキャナーで取り組んでいるが、本日はその取り組んだ画像の整理がようやく終了。あとは文章だけとなった。
 明日・明後日くらいには第一回目の記事をアップできると嬉しいのだが‥。

 神経痛を発症して以来、このような作業もあまりはかどらなくなった。どうしても痛みに対する警戒感や緊張感が作業の進行を妨げるようだ。神経痛の痛みが、脳の働きや気力とどのうようにかかわっているのかは私自身も分からないが、気力が続かない。
 人間このように気力というのが衰えてくるものなのか、と日曜日に友人と居酒屋に寄ったときに何の気なしにボソッといったら、65才くらいで何をぼそぼそと言っているのだ、一括された。そういえばあの2月7日の痛み以来、弱気になってしまっていたのかな、と反省した。
 痛みの回復だけでなく、気力の回復をどのように図ったらいいのだろうか。痛みの低減化とともに気力が自然に回復してくるのだろうか。あるいは意識的に追求しなくてはいけないものなのか。いろいろなことが頭の中を駆け巡っている。

有元利夫「花降る日」を借りる

2017年03月07日 20時06分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後から大腸内視鏡検査の結果を聞きに行った。特に問題はないとのことで、わずか3分ほどでおしまい。説明の内容は内視鏡検査が終わった直後に検査担当の医師から直接画像を見せてもらいながら受けた内容と同じ。誓っているのは組織検査をした結果として、という形容詞がついたことくらい。この程度のことなら郵送してもらった方がずっと楽なのだが‥。

 病院を出た頃にちょうど雨が降り始めた。いったん横浜駅にもどり、再度図書館までのバスに乗車、読み終わった本「ゲルニカ」(宮下誠、光文社新書)を返却。我が家への帰途もバスを利用。結局本日は6回(1296円分)もバスに乗ってしまった。600円の市営バス一日乗車券を利用して助かった。



 図書館では予約した腰痛体操の本はまだ貸し出し中なので借りられないが、「花降る日」(有元利夫&容子、新潮社)を借りた。図書館で借りている本はないが、まだ読み終わっていない本もいくつもあるので少し躊躇したが、衝動的に借りてしまった。

朝のぼやき

2017年03月07日 10時06分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝起きてから午前中にときどき神経痛の痛みが出ていた。3日の朝がひどく痛んだが、それ以降は2日以前の水準よりも落ち着いている。痛みが再発しそうになると軽く腰痛体操を行う。痛みが顔を出してすぐに引っ込んでくれる。その腰痛体操を行う回数も減少してきたように思われる。少しずつ回復に向かっていることを信じたいものである。

 しかし外にいてこの痛みが始まると困る。痛みをこらえながら10分ほど歩くとおおかたは痛みはひくのだが、そうでない場合の対処が困難だ。寝転んで体操ができるといいのだが、街中でそんなことが出来るところはまずない。公園のベンチや芝生ならば恥ずかしいが何とかなる。だが、いつもベンチに人がいないとは限らない。しかも最近は公園のベンチも長いものがなく、ひとり・ふたり用に区切られている。寝転がっての長時間使用を避けるための措置と思われる。しかし私などの坐骨神経痛持ちにはちょいと残念である。

 何しろ住宅地の公園では、サラリーマンやタクシーの運転手やさまざまな工事の職人が公園で弁当を食べていると、「不審者、よそ者を追い出せ」と公園の管理者である市に抗議の電話がかかってくる時代である。
 こんなことで委縮していては、我が身が持たない‥と思う。神経痛の痛み以上にやるせない気分が昂じてくる。