
シャセリオー(1819~1856)がシェークスピアの「オセロ」を題材とした版画の連作の中の作品。1844年(25歳)に作られている。描かれているのはオセロの妻で関係にはまったオセロに疑われて殺されるデズデモーナが描かれている。この一連の作品以降ロマン主義への傾斜がいっそう明確になったと図録の解説には記されている。

そしてこのポーズはモローに影響を与え、モローの「牢獄のサロメ」(1873-76)のサロメのポーズに結実していると記されている。似ているといえば似ている。従来のサロメの像とは違っているように感じる。解説では「抒情的ともいうべき、メランコリックで内省的な」サロメ像である。俯いた視線の先には血の着いた刑具、後ろに微かに斬首を待つ洗礼者ヨハネが描かれている。
ヨハネとサロメの関係にまで想像されるというロマン主義的な物語に昇華されている。


1848年(29歳)の「カバリュス嬢の肖像」と1850年(31歳)の「エミール・ドサージュの肖像」。肖像画のポーズなどは師アングルの影響が色濃く残っているというのが評であるらしい。
わたしにはシャセリオーの肖像画は対象の人物にかなり思い入れや同調意識が強いように見受けられた。他の画家の肖像画とどう違うのか、と問われるとこたえる力量はないのだが、まずは眼に惹かれる。
アングルとドラクロアという対照的な画家が描いた肖像画も展示されていたが、シャセリオーの肖像画の眼はこちらをじっと見据えているようでいながら、本の少し上目遣いである。黒目の下にわずかに白い部分が描かれている。そのためにこちらを見据えているようでいながら、わずかに視線が画家を見つめる本来の視線からズレガあるように見えないだろうか。このわずかなズレが女性像の場合はなにかもの言いたげな表情に見え、男からするとちょっとドキドキする艶めかしさを感じる。男の場合は描かれている人物が画家の心を読もうとしているように見える。不思議な対話、凝視しあう関係を暗示させられるようだ。
「カバリュス嬢の肖像」では肌の色が青白い」などと不評だったそうだが、上記に記した通りとても魅力的な目の表情につよく惹かれた。「エミール・ドサージュの肖像」の人物は外交官であるらしく、謹厳で自他に厳しい性格を感じさせる目の表情が特徴的である。この作品では図録の解説には「冷たく神経質な雰囲気」と記されているが、私は逆に感じた。包容力と柔軟性を持ち、茶目っ気も感じる視線ではないだろうか。画家と対話を楽しんでいるようにも見える。人物を顔の表情や体型から類型的に見てしまうと間違うということを教えてくれているようだ。

1846-56年にかけて作られたらしい「コンスタンティーヌのユダヤ人女性」という題が付されている。完成作品ではないと思われる。この作品も黒目が少し上を向いている。視線は画家を見あげているが、顔自体は正面を見据えている。
先の肖像画のように社会的に有名な「上流社会」の人物ではない。シャセリオーは1846年ごろにアルジェリアを訪れている。この頃フランスはアルジェリアを植民地化しており、画家はこの地で大きな影響を受けているようだ。
早いタッチの筆使いに、新しい時代の印象派的なものに先行するのではないかと感じがした。果たしていかがなものであろうか。このアルジェリア旅行で色彩がいっそう明るく、そして空気感が透明になる。赤・青・黄といった現職に近い色が大胆に大きな割合を占めるようになる。


1850年の「授乳するムーア人女性と老女」、1851年の「コンスタンティーヌのユダヤ人街の情景」に描かれた人物像の眼も同じように正面を見据えているのに、黒眼はわずかに上向きである。
そして私の感覚ではこのヨーロッパとは違う地の人々を見るシャセリオーという画家の眼が、植民地の人々をさげすむ眼ではなく、またヨーロッパが見失った古代を連想させるものでもない。習俗が違っても、ヨーロッパの人々とは変わらぬものを見つけだしているように思える。植民地の人々を、見下したり、哀れんだり、というのではない、変らぬものを見つようとする視線である。この点に惹かれる。幻想的な過去や異国趣味という思い入れによるオリエントではなく、生きた人々への関心を強く感じる。

1853年の「雌馬を見せるアラブの商人」では幻想的な、イメージとしてのオリエントではなく、今ここから始まる物語を感じる。


本日は夜に鎌倉まで出かける予定が入っている。それまでにシャセリオー展の感想の後半を仕上げるべく努力中。

聴いているCDは「シューマニアナⅣ」を新たに。このCDは購入して一度聴いただけだと思う。本日初めて解説をめくってみた。この解説の冒頭に記された高橋悠治の詩の形式のシューマン論ともいうべき3ページにわたる文章。私はこの高橋悠治のことばを頼りにシューマンを聴くことにしたい。CDを購入したとくに読んでおけばよかったといたく反省。
解説を読む前に「ピアノ・ソナタ第1番(作品11)」を耳にしてすぐに引き込まれた。シューマンが20代前半に作られ、クララにささげられている。
2番目の曲「暁の歌(作品133)」はシューマンが自殺を試みた1854年43歳のときの作品。
3番目の「変奏曲」は遺作と記され1854年自殺を試みる直前に作られ、机の上にこの楽譜が置いてあった、と解説には記されている。
シューマンの「ピアノ・ソナタ第1番」の始まりは
世界と向き合って一歩を踏み出そうとしている
こどもの朝のひびきだろうか。
それとも
真夜中の空から人間の谷間を見おろす
鳥の音楽だろうか。
(略)
「暁の歌」の暗く重い響きは
きらきら輝く和音をもとめてたえずのびあがっているいる。
尖塔の高窓に反射する最初の日の光なのか、
実は落日の名残ではないのか。
(略)
音楽の底に低い一音が鳴りつづけて、
変奏を重ねてもそれを振り払うことができない。
和音が一瞬そこを離れることはあっても、
すぐ同じ響きに落ちこんでしまう。
メロディはやがて河のさざなみのように溶けていく。
音楽にあらわれたかたちは違っても、「詩人の恋」の最後に
「愛も苦しみも河底に沈めて」歌が止んだ後にのこる川浪の
遠いこだまようだ。
(略)
シューマンの音楽を演奏するのは容易ではない。
知的で複雑な構造がある。
単純によろこびやかなしみを歌ったりはしないので。
だか知性をのりこえて高揚する瞬間がやってくる。
(略)
(高橋悠治)

聴いているCDは「シューマニアナⅣ」を新たに。このCDは購入して一度聴いただけだと思う。本日初めて解説をめくってみた。この解説の冒頭に記された高橋悠治の詩の形式のシューマン論ともいうべき3ページにわたる文章。私はこの高橋悠治のことばを頼りにシューマンを聴くことにしたい。CDを購入したとくに読んでおけばよかったといたく反省。
解説を読む前に「ピアノ・ソナタ第1番(作品11)」を耳にしてすぐに引き込まれた。シューマンが20代前半に作られ、クララにささげられている。
2番目の曲「暁の歌(作品133)」はシューマンが自殺を試みた1854年43歳のときの作品。
3番目の「変奏曲」は遺作と記され1854年自殺を試みる直前に作られ、机の上にこの楽譜が置いてあった、と解説には記されている。
シューマンの「ピアノ・ソナタ第1番」の始まりは
世界と向き合って一歩を踏み出そうとしている
こどもの朝のひびきだろうか。
それとも
真夜中の空から人間の谷間を見おろす
鳥の音楽だろうか。
(略)
「暁の歌」の暗く重い響きは
きらきら輝く和音をもとめてたえずのびあがっているいる。
尖塔の高窓に反射する最初の日の光なのか、
実は落日の名残ではないのか。
(略)
音楽の底に低い一音が鳴りつづけて、
変奏を重ねてもそれを振り払うことができない。
和音が一瞬そこを離れることはあっても、
すぐ同じ響きに落ちこんでしまう。
メロディはやがて河のさざなみのように溶けていく。
音楽にあらわれたかたちは違っても、「詩人の恋」の最後に
「愛も苦しみも河底に沈めて」歌が止んだ後にのこる川浪の
遠いこだまようだ。
(略)
シューマンの音楽を演奏するのは容易ではない。
知的で複雑な構造がある。
単純によろこびやかなしみを歌ったりはしないので。
だか知性をのりこえて高揚する瞬間がやってくる。
(略)
(高橋悠治)



