Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

3月10日は東京大空襲の日

2017年03月10日 23時37分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25-26日の5回は大規模であった。特に死者10万人以上と著しく多い3月10日を東京大空襲をいう。
 横浜は1945年5月29日の日を大空襲の日と呼ぶ。こちらは死者8千~1万人といわれる。
 1951年生まれのわたしには空襲体験、戦争体験はないが、いくつかの忘れたくない日として刻み込まれている。人それぞれにきざみこまれた日付というものが、その人の思考・指向の基盤になっていると思う。あるいは刻み込むことで自分の思考・指向をつくりあげてきたのかもしれない。神社や寺院で拝礼や合掌することはまずないが、頭の中で静かに瞑想することを忘れない日のひとつである。

井上光晴詩集から「壁」「ふたたび壁」

2017年03月10日 22時01分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
  壁

どこにいったって壁につきあたる

きげんをとることと
きげんをとらないことと
どちらがくらしいいか

きげんをとれば自分にあいそがつき
きげんをとらなければいさこざかおおすぎる

どちらがくらしいいか
俺は哀しく俺は淋しく
俺はいらいらする

どこにいったって壁、壁、壁だ!


  ふたたび壁

この救われようのない
いらだたしさはどこからくるのか

私はそこここの本をみひらき
投げすてて
若い眼のやりばに困る

頭はしんからにぶい音をたててうなり
インキびんでも壁にぶっつけたら
少しはすうっとするんだが

まだ絶望ではない

ああ、このなやましさは
どこからくるのか



 私の持っている「井上光晴詩集」(思潮社)にはこのふたつ詩に印がつけてある。奥付には1979年1月第4刷、と記してあるので私が就職して4年が経とうとしているとき、結婚して2回目の正月を迎えて以降に購入している。
 どういうわけどこの印=チェックをしたのかもう今となってはわからない。どういう状況でこの詩を読んだが、あるいは読もうとしたか、もわからない。
 このわからない状況が、私の井上光晴理解の水準であったのだと思う。要するにわかっていなかったのだと思う。とにかく本のページをめくればわかったように思っていたのか、あるいはわからないから次々にページを追っていったのか。たぶん後者である。

 「インクびんでも壁にぶっつけ」、「まだ絶望ではない」「このなやましさはどこからくるのか」と叫んでみたい衝動から、忘れられてしまった還暦過ぎの私に、あまりに「悩まし」過ぎる詩である。
 この詩集を紐解くとそんな気恥ずかしさが立ち上ってくる。今年中にいくつかの作品を読みなおしたいが、こんな気持を再び味わうのだろう。そんな気持ちに耐えられるだろうか。

霧笛橋

2017年03月10日 20時05分28秒 | 山行・旅行・散策
 神経痛の痛みは本日はほとんどなかった。朝起き抜けと、マッサージを終わった直後、そして今の時点で少しだけ痛みがあった。いづれもすぐに痛みはひいた。特に朝マッサージを終えて以降は、杖をリュックに仕舞って横浜駅まで歩いた。その後もみなとみらい線の終点の駅から近代文学館まで歩いて往復、さらに横浜駅で書店と家電量販店をまわって歩いて帰宅できた。
 暖かくなってきたから、あるいは1か月経って回復過程か、といろいろといわれるが、本人としてはまだ何も言えないと思っている。またいつ痛みが再発するか、まったく予測が立たない。臀部と太ももの深い部分で痛みがまだまだくすぶっている気配が濃厚である。実感している。

   

 近代文学館の前には霧笛橋という名の陸橋がかかっており、大佛次郎記念館側に毎年ハクモクレンと思われる上向きの白い花が今の時期に目を楽しませてくれる。ことしも港を背景に美しく咲いていた。

 一昨日に続いて本日も「シューマニアーナⅢ」を聴きながらパソコンの前に座っている。昨日届いたばかりの新しい椅子の座り心地は悪くない。

井上光晴を描いた「全身小説家」上映会

2017年03月10日 18時30分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は神奈川近代文学館で井上光晴の最後を追った「全身小説家」(監督:原一男)の上映会に参加した。上映時間2時間37分という長い作品。
 井上光晴自身の出生や幼少期に関する「嘘」とドキュメンタリー風の「事実」の探索、そして映画そのものに登場する井上光晴と彼を取り巻く家族や友人、伝習所の人々等の「虚」「実」がないまぜになって映画は進行していく。
 何が「真実」なのか、何を「井上光晴」が訴えたいのか、輻輳しながら最後の葬儀の瀬戸内寂聴の弔辞へと収れんする。観客は何が「真実」なのか、「真実とは何か」と常に問われ続けられながら2時間37分目を迎える。
 井上光晴という人格が、全身、いや存在そのものが「虚構」を地で行った生涯に託して、何を表現しようとしたか、私は常に引き込まれていく。
 そして「文学と政治」「生活と政治」「真実と虚構」「虚構の向こうに見える人間存在の不可思議な真実」‥「井上光晴」という小説家の描く世界は常に二重・三重の網を被っていて、そして存在の本質に迫ろうとしている。

 ざっくばらんな感想でいえば、もしも映画のような宴会での振舞いや伝習所の講評の場面がそのままの井上光晴の実像ならば、私は多分近寄りたくない人格である。あのような押し出しの強い自己主張は面と向ったら、わたしなら逃げ出す。だがしかし、その場面を最後まで覗いて見たい欲求はとても強い。それがわたしがいつも惹かれる井上光晴の軌跡であり、そして魅力である。