ツィッターで「教養」とは何かという議論があるらしい。「『教養』を何かある種の知識パッケージだと思っている人がいるようで困惑する。そういうことではなく、むしろいろんなことに好奇心を持って、功利主義的ではない勉強を、生涯継続していく姿勢を身につけることが『教養を身につける』ことなのではなかろうかと思う」という中島淳一氏のツィートがあった。
そういわれれば最近、教養ということが「知識の量」のような風に語られているのが気になっていた。
私は端的に言って「教養」とは、「自分で考えようとすること」ということを大学生になったころから自分でそのように定義するようにしている。もうひとつ加えるとするならば、「知への真摯なアプローチに対する敬意と尊重」もこの「教養」に含まれると思うようになった。これは最近特に強く感じている。
知が固定的で、そして人から与えられるべきものとして認識されることには、とても悲しいことである。知も、思考も、自分で手にしようとする努力であり、人に習いながらそれを自分の思考と実践で再構成する努力を抜きにしては語れない。自分がそれを為しきれている自信はないが、努力はしている。
ようやくそんなことに考えが行きつくようになった。
この話はもっと自分史との絡みからまとめていく必要がある。「知」に対する自分の態度と合わせて、整理したいと思っている。
そういわれれば最近、教養ということが「知識の量」のような風に語られているのが気になっていた。
私は端的に言って「教養」とは、「自分で考えようとすること」ということを大学生になったころから自分でそのように定義するようにしている。もうひとつ加えるとするならば、「知への真摯なアプローチに対する敬意と尊重」もこの「教養」に含まれると思うようになった。これは最近特に強く感じている。
知が固定的で、そして人から与えられるべきものとして認識されることには、とても悲しいことである。知も、思考も、自分で手にしようとする努力であり、人に習いながらそれを自分の思考と実践で再構成する努力を抜きにしては語れない。自分がそれを為しきれている自信はないが、努力はしている。
ようやくそんなことに考えが行きつくようになった。
この話はもっと自分史との絡みからまとめていく必要がある。「知」に対する自分の態度と合わせて、整理したいと思っている。