今朝ブログに「思い返せば10代の末の頃から変わっていない自分がいる」と記した。17歳になる年の1968年、社会に自覚的に目を向けた年で高校1年から2年になった年である。あれから半世紀、50年という年数を経た。
変わった自分も当然ある。そして50年後の自分はまったく想定できなかった。60代の自分を想定できたのは、60歳間近になってから。そしてあと4ヶ月で67歳になる私は、50年前と変わった自分、変わっていない自分に大いに戸惑っている。最近はことあるごとに、変わった自分にも、変わっていない自分にも気がつき、驚きの連続である。
「思えば遠くに来たもんだ」という私には馴染めない映画や歌があるが、その気分とは一切関係なく、文字のとおりの意味で「思えば遠くに来たもんだ」という感慨が頭を過る。距離のことではない。時間という尺度で「遠くに来た」ものである。
今はまだひたすらもがき続けているわたしである。だが、いつかこの感慨とともに、遠くにかすむ過去の自分だけを眺めながら生きていくときが来るのであろうか。それが老後というものなのだろうか。
変わった自分も当然ある。そして50年後の自分はまったく想定できなかった。60代の自分を想定できたのは、60歳間近になってから。そしてあと4ヶ月で67歳になる私は、50年前と変わった自分、変わっていない自分に大いに戸惑っている。最近はことあるごとに、変わった自分にも、変わっていない自分にも気がつき、驚きの連続である。
「思えば遠くに来たもんだ」という私には馴染めない映画や歌があるが、その気分とは一切関係なく、文字のとおりの意味で「思えば遠くに来たもんだ」という感慨が頭を過る。距離のことではない。時間という尺度で「遠くに来た」ものである。
今はまだひたすらもがき続けているわたしである。だが、いつかこの感慨とともに、遠くにかすむ過去の自分だけを眺めながら生きていくときが来るのであろうか。それが老後というものなのだろうか。