Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「思えば遠くに来たもんだ」

2018年04月03日 23時29分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝ブログに「思い返せば10代の末の頃から変わっていない自分がいる」と記した。17歳になる年の1968年、社会に自覚的に目を向けた年で高校1年から2年になった年である。あれから半世紀、50年という年数を経た。
 変わった自分も当然ある。そして50年後の自分はまったく想定できなかった。60代の自分を想定できたのは、60歳間近になってから。そしてあと4ヶ月で67歳になる私は、50年前と変わった自分、変わっていない自分に大いに戸惑っている。最近はことあるごとに、変わった自分にも、変わっていない自分にも気がつき、驚きの連続である。

 「思えば遠くに来たもんだ」という私には馴染めない映画や歌があるが、その気分とは一切関係なく、文字のとおりの意味で「思えば遠くに来たもんだ」という感慨が頭を過る。距離のことではない。時間という尺度で「遠くに来た」ものである。
 今はまだひたすらもがき続けているわたしである。だが、いつかこの感慨とともに、遠くにかすむ過去の自分だけを眺めながら生きていくときが来るのであろうか。それが老後というものなのだろうか。

半ズボンが欲しくなってきた

2018年04月03日 21時20分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜駅近くの喫茶店で読書タイムのあと、神奈川大学のキャンパスまで足を伸ばし、生協の書籍売り場を除こうとしたが、春休みということで、店は閉店。疲れたので、外にある椅子に座って自販機のお茶を飲みながら、春休みでもサークル活動などで行き交う学生をボーっと見ていた。気がつくと日がすっかり落ちて寒さを感じた。校舎の中にある便所を借りてから再び家までの約2千歩を歩いて帰宅。

 明日は午前中は団地の管理組合の用事で関内の市役所に赴き、午後からは組合の退職者会の会議。明日も気温は高いようだ。自宅まで歩いて帰るとだいぶ汗だくになりそうな気配。毎日ウォーキングで汗をかくので、妻に嫌われる夏である。そろそろ半ズボンが欲しくなってきたものの押入れの奥にまだしまい込んである。


春の景

2018年04月03日 20時17分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 明日の会議の資料作りは完了。喫茶店にて1時間ほどの読書。横浜の気温は23.5℃まであがった。あたたかいというよりも「暑い」に近いような気分になる。
 百円ショップと家電量販店、そして書店といういつものパターンをこなして入った喫茶店。かろうじて席を確保。しかし春の陽気のように周囲に座る人の口が、はげしく動いていた。

★妻の遺品ならざるはなし春星も    右城暮石
★喪の家も春夕焼けの一戸たり     蓬田紀枝子

「生きる幅」十二句

2018年04月03日 10時55分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 生きる幅
雷一閃輸液の管の青白し
冬怒涛藍濃きところ高々と
生きる幅だけの雪掻き雀舞う
カタカナの言葉に詰まり秋あかね
特攻碑に尾は蒼穹へ赤蜻蛉
墓場まで秘して行くもの春疾風
いくさ世の語りに似たりすずめ蜂
冬満月地を這う風と祠まで
病葉落つ輪廻がひとつ終わる夜に
訃の滲むはがき携え寒すばる
どこよりも青き梅雨晴れ骨納む
炎天に墓石するどく手を焦がす



 昨晩、明け方までかかっていろいろと手を加えてみた。10年近く前の小さな句集から4句、これは手を加えなかった。その後世話になった俳句結社誌に載せてもらった句は、時間の関係もあり使用していない。
 一昨年、昨年におりに触れて偶成した句をいろいろいじってみた。
 以前から句づくりの先輩から「いじり過ぎる」といわれてきたが、その癖がなおらない。もう開き直っている。時間がたてばたつほど気に入らなくなる句が、却って気になるのである。それは多分未完で、まだよくなる可能性がある、あるいは別の情景や別の思いに転換すると生きてくると句が言っていると感じてしまう。そんなに立派な心境やら句づくりの技量があるわけではないのに‥。
 逆に言うと、以前作った句が何も語ってこないのは、もう良くならない、と句自身が言っているのではないか。
 出来上がった十二句をいじくりまわしている間に、社会からの隔絶感、友人の死、自分の病いや老いの自覚が滲み出ている句ばかりになってしまった。句をつくるきっかけがこのような心境だけというのはあまりにさびしい、といえるが、思い返せば10代の末の頃から変わっていない自分がいる。

 私が理解できているかははなはだ疑問ではあるが、白川静は「(謝霊運や陶淵明の)叙景詩は、かれらがその生を託した自然との深い交感の中から生まれたものであり、自然と自我との合一の場において成立したものである。自然のなかに自己投棄される自我は、社会的には疎外された生である。叙景の文学は、その社会的孤絶の状況において、はじめて成立する‥」(初期万葉論・叙景歌の成立)と記した。古代の人々の自然感への言及を抜きにして近代に強引に当てはめれば、大いに誤りを犯すが、それでも自然描写が人間の情感と共鳴し合うことは人類史の発展過程や地域や時代を超えて共通である。さらに人一人の生と死に至る時間とも交感する。同時に社会的な疎外と緊密な連関があると思える。

 そんなことを考えながら、この十二句を再構成して並べてみた。