Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

父と子の和解とは

2018年04月20日 23時29分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 こんな俳句に出くわした。
★をだまきの紺の深さの父子の情     末増省吾
 「をだまき(苧環)の花」は春の季語。この句では「花」という表現はないが「紺」が花の形容なので「花」であることがわかる。
 あらためて「父子の和解」なるものを考えてみた。


 父と子の和解というのは古今東西、解けない課題である。結果としては、私は父親とは違う生き方、考え方をしてきた。いつも父親とは違う自分の判断や、選択をしてきた。わざと反発をしてそういう風な生き方をしてきたわけではない。結果としてあとから思うとまるで正反対であった。
 10代末、私が社会に対する違和感や社会との格闘を意識的に始めると、父親とは違う生き方になっていた。特にそのことで喧嘩をしたつもりもないし、父親を遣り込めようとしたこともない。たぶん父もそう感じていたと思う。
 親との軋轢とか、反発とかは無縁で、お互いに不干渉だった。父は、心の中では怒っていたのかもしれないが、口に出すことはなかった。
 人生のさまざまな選択や判断、その結果としての生き方については、「俺と親父とはどこまでも相容れない、お互いに分かり合うことはない」と思っている。結果として「あのような生き方は嫌だ」と考えていた。今でもそう考えている。
 多分そういった意味では、和解などはない。いつまでたっても意見は平行線のままであろう。そして生き方としてはまるで正反対の生き方となってしまった。日常の生活から、新しい社会の事象に対する評価やら、歴史の評価や政治や国家に対する評価に至るまで、背を向け合っている。

 死の前の数年、病院での入院時の付き添いや、葬儀は意向に沿って対応した。それはある意味「子としての義務」的な思いがなかったといえば嘘になる。どこか醒めた私を、高いところから見下ろすように自分を見ていた。友人にそんな話をしたら、「それは罪悪感が心のどこかにあったのではないか」といわれた。はたしてこの指摘は当たっているのだろうか。自分自身の心の奥底なのだが、未だによくわからない。

 67歳に近くなって、「この歳のときの親父は俺をどう見ていたのか」などと思うことが年に1度くらいはある。そのたびに「俺はそんな判断や選択はしないよ、多分正反対の判断、選択をするよ」と思って、すぐに忘れてしまう。これほどの親不幸者、父親無視の息子も珍しいと自分では思っている。しかし今更生き方を変えることなどないだろう。このまま墓場まで、この状態が続くと思われる。墓場に入ってしまえば、それっきり。和解も親和もないまま、永久に平行線のままである。それでやむを得ないのだと思っている。


現在につながる過去、そして未来を探る

2018年04月20日 16時16分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 眠れずにいた昨晩、なかば呪文のように頭の中をぐるぐる回ったことなど‥。


 未来をみるには、過去をみるしかない。よりよい未来を展望するのは、現在につながる過去を歪曲することなく見つめることからしか始まらない。なぜなら未来は誰も知らないからである。過去をわざと歪曲したり、都合の良いところだけをつまみ出してみては、未来を探るヒントはない。
 知らずに歪曲したり、間違えて曲解しても、より正しく全体を見つめようとする意識があれば、未来はみえてくる。よりよい未来を探るには、過去を正しく見ようとする意志が必要である。正しく見ようとする意志のないところにはよりよい未来は表れてこない。よりよい未来を構想できるのは、現在につながる過去を正しく見つめようとする真摯な意志だけである。

 過去を忘却したり、歪曲しては、未来に希望はない。私はどんな未来も、過去の中にそのヒントがあり、それを踏まえないかぎり未来をよりよくするものはないということを自分なりに学んできたし、同時に教わりもしてきた。過去に背を向けては、その国の人々やその国の政治は不幸である。

青を踏む、踏青

2018年04月20日 10時33分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 四月初めころ野山で宴を催したり、青々とした草を踏みように野山などを歩いて春を実感することをいう。
 踏青などという語は使われることもなくなっている。青を踏むといわれても日常会話では意味は通じない。梅見、花見、山菜取り、蓬摘みなどの具体的なもののほうが通じる時代である。
 しかし私はこの「青を踏む」という語感は好きである。

★青き踏む忘れたきこと道づれに    肥田美津子
★青き踏む心の翼ひろげつつ      阿部睦代


 第1句、忘れたくとも忘れられないことは無理をして意識の外に追いやることはできない。いつまでも頭の片隅に残る。無理にもがいても仕方がない。思い切ってそんな嫌な忘れたいことを抱えつつ、春の野を歩めば、土の匂い、草の香り、木々の新芽の光、春の大気の香しさを身に纏うとよい。いつの間にかいといたくなるような忘れたいことは、意識の外に追いやられてしまう。春は、否自然の生き生きとした営みは人の悩みを吸い取ってくれる。
 第2句、家を一歩出て歩き始めると心は不思議と解放される。特に春の陽気は他者に対して閉じてしまった気持ちを、徐々にではあるが確実にほどいてくれる。作者はその気分を「心の翼をひろげる」と表現した。
 「青木を踏む」、確かに踏めばそこから春の陽気が踏んだ人の体に充満してくる。活力が編まれる。

本日は「偲ぶ会」

2018年04月20日 00時06分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 作業は終了。一応予定していた作業は終わった。

 日付も変わって、本日は、私どもの退職者会から中央の役員も務めたかたが亡くなりその「偲ぶ会」=お別れの会というのであろう。退職者会というのは、このような活動が大切な役割でもある。
 フォーマルな格好はしなくてもいいが、一応黒っぽいズボンと白のワイシャツの姿で参加予定。黒いネクタイはリュックに詰めていく。会場内では背広は窮屈で暑苦しそうなので、メッシュのベストを着用するつもり。
 カメラマン役として、会場内をまわって写真を撮ることを依頼されている。14時から15時半くらいまでのタイムスケジュールだが、私など事務方は11時に集合となっている。多分後片付けも手伝い、終了は16時過ぎであろうか。
 帰りは事務方の慰労会もあるはずなので、帰宅は遅くなる。