Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「国立西洋美術館の名作ガイド」

2020年10月07日 22時53分31秒 | 読書

 本日「国立西洋美術館の名作ガイド」を読み終わった。ラ・トゥールの「聖トマス」とシャヴァンヌの「貧しき漁夫」を取り上げた。
 本日「貧しき農夫」と間違えて記事をかいてしまったことはお詫びしなくてはいけない。記事の内容には変更はないので、標題と引用部分は訂正した。
 国立西洋美術館の常設展で、そのときどきの気持ちのあり方で足をとめたり、印象に残る作品は毎回違う。しかし取り上げた二点のほかに必ずその前で立ち止まる作品が二つはある。



 ひとつはジョルジュ・ブラックの「静物」(1910-11)とジョアン・ミロの「絵画」(1953)である。
 ブラックの「静物」は卓上の瓶や果物を描いた、と解説にあるのだが、どうしてもそのように見えない。むろん、どんなものに見えてもいいのであって、瓶や花瓶に見える必要などないとはわかっていても、形の中に瓶や果物を探してしまう。それがまた楽しいのである。
 見るときの精神のありようや、気分でいろいろなものが見えて来る。ある時は細長い花瓶であったり、ロボットだったりする。別の日は立てかけた木管楽器に見えたりする。あるか所だけカタツムリに見えたり、勾玉があったりもする。左右の平行四辺形が瓦屋根にも見えたこともある。
 何に見えるか、でその日の自分の精神のありようを自己判断して楽しんでいる。



 ミロの「絵画」には動きがある。見ていると何に見えるか、という視点もあるが、赤いところ、黒い丸、青い丸、黒い軌跡、星のような点、こられの形の間を自由に飛翔しだす自分がいる。この自分の自由な飛翔を作品の前で楽しむのである。空中浮遊しているような気分になる。背景の灰色部分が空の雲に見える。ますます雲の高さでの浮遊感から逃れられなくなる。
 昔娘は小さい頃、この作品の絵本を見ながらひとりごとをいって物語を自分で作っていた。そういう楽しみ方もあるのだ、とわずか3歳か4歳の娘に教えられたこともある。
 ミロの作品は見る人の精神を自由にしてくれる。

 取り上げたい作品はいくつもあるが、取りあえず今回はこの4作品を自分なりにどうみているか、記してみた。
 私の見方はどちらかというと誤解も多く、独りよがりである。しかしそれが私流の楽しみなので、この歳でいまさら変えられない。


次の読書は・・

2020年10月07日 22時53分31秒 | 読書

 「国立西洋美術館の名作ガイド」を読み終わったので、明日から読む本を選んでいる。「万葉集の起源」(遠藤耕太郎、中公新書)は引続き読んでおり、4割くらいは詠み終わった。これはリュックに入れて、喫茶店で読むことにしている。
 家において読む本だが、今回は「ビザンツ帝国」(中谷功治、中公新書)と「絵画について」(ディドロ、岩波文庫)のどちらにするか、思案中。前者は西洋美術との関係で、基礎知識として読んでみたい。後者は17世紀フランスのサロン展を支えた絵画論ともいえる評論。

 明日の朝までに結論を出しておこうと思う。


好きな絵「貧しき漁夫」(シャヴァンヌ)

2020年10月07日 17時28分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



【お詫び】はじめ投稿したときには作品の標題を「貧しき農夫」としてしまっていました。「貧しき漁夫」でした。私の感想には特に影響は無かったので投稿記事自体は「農夫」を「漁夫」に変更するだけとしました。

 「国立西洋美術館の名作ガイド」を読み終えた。常設展で見た作品で気になっていた作品をもう一つ。ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-98)の「貧しき農夫」。薄塗りの絵具が印象的でる。
 この立っている漁夫が、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)のキリスト像と似ていると感じ射ている。題名の「貧しい漁夫」という題に捕らわれずに見てしまう。人々には打ち解けられない孤独感が漂う。
 私は、弟子達に囲まれながらも、また彼を受け入れようとしない現世利益にこだわる人びとに嫌気もさしたであろう伝道者の孤独も感じる。「こんなはずではなかった」と思いながらキリストが魚やパンの奇跡の「仕掛け」に腐心せざるを得ない「預言者」の心の葛藤かもしれない。
 そんな孤独を私は画面から受け取った。
 「貧しき漁夫」の所以たる立っている男の後ろで寝ている小さな子ども、これに気がついたのは後になってから。この「漁夫」はひょっとしたら寝てしまった子どものようにすべての放り出して丸まって寝てしまいたいのかもしれない、と感じた。「漁夫」の想念の象徴のように思われた。
 それはこの作品が、「貧しき‥」という表題にもかかわらず、生活の厳しさや貧しさにもがく庶民の苦闘の痕跡が薄いからである。余計なものを描かない筆法のためかもしれない。このような岸で網を垂れても魚など採れるはずもなく、付近には人間も家もない。舟の中も魚を入れる容器もない。貧しいとはいえ生活の痕跡が何もない。水に写る舟の影も大きすぎて現実味がない。
 ここまで生活感や現実味を排除した画面から「貧しき‥」というよりも「疎外」や「人間の孤独」というものが強く浮かび上がってくる。20世紀の美術の主題にぐんと迫ってくる作品に思える。しかしムンクの「叫び」やピカソのメッセージ性はない。俯いて耐える孤独が印象的である。
 ゴッホがこの作者に惹かれたという解説がある。それは「貧しさ‥」ではなく、孤独な耐える姿勢だった、と私は勝手に想像している。

 


二つのヴァイオリン協奏曲

2020年10月07日 12時09分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 午前中はベートーベンとシベリウスのヴァイオリン協奏曲をYouTubeで聴きながら退職者会ニュースの編集作業。
 両曲ともヴァイオリンはヒラリー・ハーン。はじめて聴いた女性ヴァイオリニストである。なかなか迫力があり、バリバリとひき切ってしまう技量の持ち主である。よく鳴るヴァイオリンである。だが私にはテンポがあまりに速すぎると思われる。
 ベートーベンのヴァイオリン協奏曲の最初のティンパニーの4連打のなんとあっさりと不愛想なのかとびっくり。むろんオーケストラと指揮者の好みなのかな、とそのまま聴いていたが、ヴァイオリンのソロになってもそのままの雰囲気で第1楽章が終ってしまった。私はもう少しじっくりと聴かせてくれる演奏が好みである。しかし私のフォルダには入れておいた。
 シベリウスは聴きごたえ十分。もう一度今度はじっくりと聴いてみたい。

 退職者会ニュースの編集は二つの記事を書き上げた。まだまだ完成までには時間がかかる。