本日「国立西洋美術館の名作ガイド」を読み終わった。ラ・トゥールの「聖トマス」とシャヴァンヌの「貧しき漁夫」を取り上げた。
本日「貧しき農夫」と間違えて記事をかいてしまったことはお詫びしなくてはいけない。記事の内容には変更はないので、標題と引用部分は訂正した。
国立西洋美術館の常設展で、そのときどきの気持ちのあり方で足をとめたり、印象に残る作品は毎回違う。しかし取り上げた二点のほかに必ずその前で立ち止まる作品が二つはある。
ひとつはジョルジュ・ブラックの「静物」(1910-11)とジョアン・ミロの「絵画」(1953)である。
ブラックの「静物」は卓上の瓶や果物を描いた、と解説にあるのだが、どうしてもそのように見えない。むろん、どんなものに見えてもいいのであって、瓶や花瓶に見える必要などないとはわかっていても、形の中に瓶や果物を探してしまう。それがまた楽しいのである。
見るときの精神のありようや、気分でいろいろなものが見えて来る。ある時は細長い花瓶であったり、ロボットだったりする。別の日は立てかけた木管楽器に見えたりする。あるか所だけカタツムリに見えたり、勾玉があったりもする。左右の平行四辺形が瓦屋根にも見えたこともある。
何に見えるか、でその日の自分の精神のありようを自己判断して楽しんでいる。
ミロの「絵画」には動きがある。見ていると何に見えるか、という視点もあるが、赤いところ、黒い丸、青い丸、黒い軌跡、星のような点、こられの形の間を自由に飛翔しだす自分がいる。この自分の自由な飛翔を作品の前で楽しむのである。空中浮遊しているような気分になる。背景の灰色部分が空の雲に見える。ますます雲の高さでの浮遊感から逃れられなくなる。
昔娘は小さい頃、この作品の絵本を見ながらひとりごとをいって物語を自分で作っていた。そういう楽しみ方もあるのだ、とわずか3歳か4歳の娘に教えられたこともある。
ミロの作品は見る人の精神を自由にしてくれる。
取り上げたい作品はいくつもあるが、取りあえず今回はこの4作品を自分なりにどうみているか、記してみた。
私の見方はどちらかというと誤解も多く、独りよがりである。しかしそれが私流の楽しみなので、この歳でいまさら変えられない。