夕食後は、ベートーベンの交響曲第6番「田園」を聴いた。サイモン・ラトル指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏、2002年の録音である。ベートーベンの交響曲全曲録音から。
2日続けてピアノ協奏曲を緊張というか、集中して聴いたので、少々疲れた。この曲は、ベートーベンではわたしには、気持ちよく聴くことのできるときがある曲の一つである。気分が集中しているときでないと、ちょっと聴くのに緊張感・集中力が必要になるのがベートーベンの曲である。決して嫌いではないのだが、身構えて聴いてしまうのだ。
この「田園」だって気楽に聴ける曲でもない。むろんそういう聴き方を否定する気もないし、私も気分が晴れやかになる場合もある。本日も気分的にホッとする時間を半ば期待していたが、想念はあちこちと飛びまわってしまった。
やはり、この曲を聴いていても、あの気難しい顔のベートーベンの肖像画を思い出してしまうのだ。あの気難しい顔、嫌いではない。私もときどきそんな表情になっていると思う。
ベートーベンの曲は、仕事をしながら、読書をしながら、というのはとてもしんどい。仕事がはかどらず、読書も頭に入っていかない。曲を聴くということに集中しないでは聴けないのである。
さて、この「田園」は当然ナポレオン帝政下でヨーロッパが蹂躙されていた時期につくられている。否、リベラリストであったベートーベンの生きた時代そのものが、前半生はナポレオンが跋扈し、ウィーンも占領された時代であり、その晩年はナポレオンが敗北してもメッテルニヒの強権的な反動政治が吹き荒れた時代である。大変厳しい時代を生き抜いた芸術家である。スペインではナポレオン支配下に多くの民衆が悲劇的な状況に追い詰められ、ゴヤがその状況を描いた時代である。
ナポレオンのウィーン占領の前年につくられたのがこの曲である。激動のヨーロッパがあの嵐の情景にこめられていると思うと同時に、戦争の惨禍からの回復の想いも込められている。
単に「田園」の描写音楽ではない。当時の政治状況とは決して無縁ではないという思いをいたしてしまう。
人は、第5番「運命」と第6番「田園」をベートーベンの複雑な性格の二局面という評価をする場合がある。はたしてそんな単純な話なのだろうか。理想と現実、戦争と革命と反動の時代に直面した人間の声として、ベートーベンをもっと知りたいと思うように最近なった。だが、わたしはそこまで理解する力はない。これからもそこまで勉強できるゆとりも残念ながらない。思いを馳せるだけというのが、悲しい。