Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は忘年会第2弾

2020年12月15日 22時21分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夕食後は「藤原定家「明月記」の世界」の第8章「荘園と知行国」を読む。

 明日の夕刻は友人と3人で横浜駅の近くで忘年会を兼ねた懇談。昨日の幹事会後の飲み会が忘年会第1弾とすると、第2弾の忘年会。店はオープンスペース的なところを予約した。それでも店内が混雑してくる前に切り上げたいと思っている。
 たくさんお酒をたしなむ仲間ではないので、声高になったり、唾を飛ばして議論することもない友人である。多分話は政治や情況論ではなく、理系の話。私はもう頭がそちらの方には向いていないので、どちらかというと聞くことに徹すると思う。今読んでいる定家のことも、美術のことも共通の話題にはなりそうもない。しかし会うことがとてもうれしい仲間である。

 約束の時間よりは早めに家を出て、本日欠品で手に入らなかったものを別の店で購入したい。取り寄せには時間がかかるので、隣の駅まで電車で行かなくてはいけない。安い購入金額を考えると交通費をかけたくはないが‥。


「藤原定家「明月記」の世界」 四

2020年12月15日 20時32分59秒 | 読書
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 午後は買い物に付き合ったのち、家電量販店にてマグネット付き電源タップとUSB延長コードを新規購入。相変わらず横浜駅の人出はすごい。家電量販店も書店も込み合っていた。

 喫茶店で「藤原定家「明月記」の世界」の第7章「紅旗征戎非吾事」を読んだ。この有名な言葉が、明月記の1180(治承四)年7月に記されているのであるが、この本では、41年後の承久の乱(1221(承久三)年5月14日後鳥羽上皇挙兵)の直後の21日に書写した後撰和歌集の奥書に同様のことが書かれていることが記載されている。
 作者は前者を「おのれと武者という存在を区別する典型的な貴族意識の表明」、後者を「承久の乱を起こした院を批判する気持ちが込められている」と違いを記している。
 さらに「「治承の文」と「承久の文」の間には40年もの歳月が流れている。その時間がもたらした言葉の内実の違い、込めた思いの深化を感じ取りたい。そして定家が古典の書写を自分の使命であると自覚し、自分の生き方の出発点としている――定家にとっての承久の乱は、そんな覚悟を促した戦であるように思われる」と記している。
 そして定家の後鳥羽院との決別へと筆を進めている。

 堀田善衛の著書にはこの「承久の文」については触れていないが、しかし院との決別については、多くの言葉を費やし、詳細に述べていた。


「藤原定家「明月記」の世界」 三

2020年12月15日 13時34分46秒 | 読書

    

 朝はいつもよりも遅い9時まで寝てしまった。最近7時間近く寝ていることがある。しかも昨晩は1時間近く酔い覚ましに転寝もしていた。これが普通の推進時間ともいわれるが、私は長年6時間程度の睡眠を続けてきた。
 ちょっと寝すぎ、寝坊のし過ぎと反省。

 遅い朝食ののち、久しぶりに我が家で、しかも昼間に読書タイム。「藤原定家「明月記」の世界」(村井康彦、岩波新書)。特に難しい記述ではないのに、時間がかかっている。パソコンに振り回されていることも大きな原因。
 第5章と第6章を読み終えた。堀田善衛の定家像と大きく違うのは、2番目の妻、実宗の女の評価と、その親族と定家の関係。堀田善衛は定家には父俊成と同様数人の女性との間に20数名の子女がいたことから、権勢への接近の手段とまでは断言はしていないが、その視点での夫婦関係ととらえている。
 こちらの所では細やかな夫婦関係を想定している。子供の数についても前妻と実宗女との間の5人の子女についてのみ記している。
 こちらの書では前妻との間の子の光家に対する定家の冷めた対応と、実宗の子の為家と因子のあまりにかけ離れた子煩悩ぶりにあきれている。為家に対する子煩悩ぶりは、堀田善衛の記述とほとんど共通しており、「親バカ」と表現している。
 光家という定家が「外人」と記す子息が左大臣良輔の評価が高いことから決して無能の人間ではなかったことなどにも言及している。

 定家が「歌の家」の確立に必死になっていたことについては、歴史家と作家の視点の違いは当然のごとであるが、共通している。その視点の違いが、この読書を楽しいものにしている。