昨日・本日とほとんど読書はしていない。本日も読書はあきらめ、ベッドルームで横になりながら、リビングルームのテレビの音を聞き流すように聞いていた。
テレビの番組というのは、私に言わせると不思議なものである。視覚と聴覚に作用する音と映像が同時に流れているのだが、聴覚に頼る割合が高すぎるといつも思う。
試しに音の出力をなくして、映像だけを見てみることと、逆に映像を見ずに音だけを聞いてみることを比べてみることをお勧めする。「しゃべり」と「映像」の「もたれあい」がわかってくると思う。
優れた演出のバレーの舞台、優れた映画作品などなど言葉がなくとも、字幕がなくとも、眼が吸い寄せられるように画面に釘付けになり、満足感を得られる作品も多い。逆にセリフだけ聞いていてもわかってしまう映画やドラマのなんと多いことか。「役者が体や顔や眼で演技をしていない」ということを聞いたか読んだかしたことがある。きっとこのことを言っているのだと思った。
そしてテレビ番組を見ていて気になるのが、場面転換のあまりの速さ、視点のあわただしい移動である。時間に追われ、じっくり「観察」することをあらかじめ拒否している。教育番組や科学番組もこの弊害から自由ではない。想像力を働かせたり、自分なりに物語に奥行きを創造するゆとりや自由がない。
「クイズ番組」が考えることではなく、知っているか否か、だけで優劣が決まってしまうのと同じように、教育・科学番組などが「早急な答え」や「結論」だけを求めていては教育の悪い面の拡大再生産でしかない。
こんなことを考えていたらもう22時を過ぎてしまった。明日はじっくりと読書タイムとしたいものである。