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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書1月号」 その1

2020年12月28日 22時36分29秒 | 読書

 夕方、岩波書店の「図書1月号」が届いた。そういえば最近は毎年これを読んで大晦日を迎えていた。毎年そのことを忘れていて、届いてから思い出すのを繰り返していた。
 本日は3編だけ読んだ。いつもの通り覚書として。

・鬼婆の母               司  修
「モシモ日本ガマケタナラ/デンシンバシラニ花ガサク‥」嘘みたいな歌を大人も子供も歌って喜んでいたのです。‥こんなの嘘だといったら村八分にされたでしょう。人を攻撃するのは戦争の基本です。自分が攻撃されないために先手をうって攻撃したのだと思います。‥‥

・現代の写し鏡             河合祥一郎
いったいなぜ人々は、傍若無人に自分勝手な発言を繰り返して政権を牛耳るような暴君を、指導者に選んでしまうのか。‥スティーブン・グリーンブラットの最新作「暴君」(岩波新書)は、現代に大きく関わるこの問いの答えをシャイクスピア作品の中に求めた。メルケル首相も読んでいたと話題になった本だ。暴君は自分たちの利益を守りたいがゆえにそのひどい振る舞いに目をつぶる人たちの思惑によって生まれ、自分たちが犠牲者となるときは後の祭りなのだ。暴君を生み出すのも、その台頭を阻止できるのも国民であり、権力の横暴を見過ごせずに「人間の品位を守って立ち上が」った「リア王」の名もなき召し使いこそ英雄だという。「秩序、礼儀正しさ、人間としての品位といった基本的価値観が崩壊」するとき、「暴君の台頭への道を作ってしまう」と本書は説く。‥アメリカを憂いていると読めるが、日本だって他人事とますしているわけにはいかない。

・撤退の時代だから、そこに齣を置く   赤坂憲雄
福島県立博物館の館長職を解かれて、野に下ったことは、‥コロナ禍のもとで迎えた大きな転換点といえる‥。しかし、福島を離れすに、奥会津で東北学の最終ステージを構築しようときめたことで、予想をはるかに超えて、風景そのものが一変しました。‥次から次へと不愉快な出来ことが国政レベルで生起してきました。その根底にあるものは経済至上主義であり、それが「人間の内面の統治」に乗り出している‥。震災の以降の福島では、思いがけぬかたちで、経済至上主義によって人間の内面が分断・統治される場面にくりかえし遭遇してきた‥。

関東大震災というカタストロフィーを起点にして、治安維持法、世界恐慌、二・二六事件、日中戦争、幻の東京五輪、太平洋戦争敗戦へと深まっていった歴史を振り返れば、東日本大震災以降の出来事のいくつかが偶然とは思われるリアルな映像となって甦ります。学術問題など‥それが強固なイデオロギー的基盤をほとんど感じさせないところに、間抜けなまでに「日本的な」精神のありようを見いたさずにはいられません。

1960年代の学問や思想が持っていた、現実への衝迫力といったものは、もやはほとんど失われているのかもしれません。

撤退の時代ですね。わたしはいま、あらためて地域主義を拠りどころにして、あまでマージナルな場所に留めおかれてきた民俗知の再編を試みることに賭けてみたいと、妄想を膨らましています。

 今回は引用が長くなったので、これでいったん終了。


「シュールレアリスム宣言」読了

2020年12月28日 20時25分56秒 | 読書

 理解できたかと問われるとまったく自信はないが、とりあえず読み終えた。ただしこの「シュールレアリスム宣言」というのは、「溶ける魚」という作品集の「序文」として書き始められたのだが、それが「宣言」へと変貌したものである。
 シュールレアリスムは1920年代以降の大きな芸術運動となっているが、そのおおもとの文章とされてきたものである。
 いつものように覚書としていくつかを引用。

自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。思うにこの言葉こそ、古くから人間の熱狂をいつまでも持続させるにふさわしいものなのだ。それはおそらく私のただひとつの正当な渇望にこたえてくれる。‥想像力こそが、ありうることを私に教え‥。

狂気へのおそれから、私たちは、想像力の旗を、半旗のままにしておくわけにはいかないだろう。現実主義的態度についての告発は、まず、唯物主義的態度を告発したうえでおこなわなければならない。後者はそもそも、前者よりも詩的なものであって、なるほど人間の側の畸形的な高慢さをふくんでいるにしても、なにか新しい、より完全に近い、失墜といたことを前提にしているわけではない。‥この態度は、思考のある種の昂揚と両立しないものではない。‥現実主義的態度のほうは、‥実証主義の影響をうけているわけで、私にはまさしく、知的および道徳的なあらゆる飛翔に敵対するものだと思われる。それは凡庸さと、憎しみと、つまらぬうぬぼれとの産物だからである。

私たちはいまなお論なりの支配下に生きている。‥いまだに流行している接待的な合理主義が、私たちの経験に直接依存する事実をしか考慮することをゆるさないのである。‥経験もまた、直接的効用によりかかり、良識の監督をうけている。文明という体裁のもとに、進歩という口実のもとに、当否はともかく迷信だとか妄想だとかきめつけることのできるものはすべて精神から追いはらわれ、作法にあわない心理を探求方法はすべて禁じられるにいたったのだ。

フロイトが夢に批評をむけたのは、しごく当然のことである。じっさい、心の活動のうちのこの無視できない部分が、まだこれほどわずかしか注目をひいていないというのは、うけいれがたいことである。夢がいとなまれているかぎりでは、どこから見てもそれは継続している。まとまった組織体の形跡をとどめている。ただ記憶のみが、不当な推移をわがものにして、夢をばらばらに切りはなし、場面のつなぎなどは考慮のほかい、夢そのものによりもむしろ、いくつかの夢のシリーズを私たちに見せているのだ。

夢が何か系統だった調査に付され、これから決定されるはずのもろもろの手段によって、ついに完全なかたちで私たちに理解されることになり、夢の曲線が類を見ない周期と幅とをもって伸びひろがるようになったとたん、神秘ならざるもろもろの神秘が、この大いなる<神秘>に道をゆずるだろうと期待することができる。夢と現実という、外見はいかにもあいいれない二つの状態が、一種の絶対的現実、いってよければ一種の超現実のなかへと、解消されてゆくことを信じている。その制服こそは私のめざすところだ。

 背景として、当時の文学など作品などの行き詰まり、造形される人物の類型化などが挙げられている。 そして論の通底にあるのが、「作為の排除」と「偶然の尊重」、という理解を私はした。しかし私は、作為なくして芸術はあり得ない、と思っている。俳句の二物衝撃というものもあるが、作為なくして衝撃の効果もあり得ない。偶然についてもいくつかの偶然を選択したうえでの効果を比べることで、芸術して成り立つと思っている。
 「作為の排除」と「偶然の尊重」は、普遍性の欠落へとつながり、個へのこだわりという名の孤立への道である。普遍性への志向を捨て、個へこだわることは、先細りと忘却による消滅である。シュルレアリスムの限界を宣言そのものが予見していたのではないだろうか。

 


伸し餅

2020年12月28日 14時47分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 いつものとおり午前中は退職者会の記念誌の編集作業。正月明けに途中まで編集したものを印刷会社に持ち込むつもりで現在時点の原稿の整理。
 40ページのうち、7割となる28ページ分はほぼ完了となっている。データ量は、写真も含めるととても大きい。メールでの送信は難しいので、USBメモリーで持参することにした。

 本日の作業はいったん終了。これより近くの喫茶店でコーヒータイム&読書タイム。横浜駅や別のJRの駅は混雑していそうなので、少し高めであるが、おいしいサイフォンで淹れたコーヒーを飲ませてくれる店に行くことにした。

 本日注文していた正月用の伸し餅が出来上がるらしい。妻はいそいそと自転車で受け取りに行った。毎年、伸し餅は人手にはゆだねずに自身で家に持ち帰ることにこだわるのが楽しみらしい。