Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

単眼鏡を用意したが--

2020年12月21日 23時53分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 出かけるときに単眼鏡を持って出た。17時過ぎに山下公園から木星と土星を見られるのではないか、と期待した。しかしいくつもの高いビルに隠れて、木星は視界に入らなかった。山下公園で小さな単眼鏡をもってうろついていると、誤解も受けそうなので15分ほどで引き揚げて本日の講演会の会場に入った。

 講演会終了後、友人と居酒屋に入った。ほとんど人が入っていなかった。広い店内の12人掛けのテーブルに6人で座り込んで、1時間15分ほどでお開き。
 お店も9時半ラストオーダー、10時閉店を守っていた。従業員は寂しそうに閉店時間の案内をしてくれた。時間営業にともない、給料も少なくなっているのであろう。

 明日は午前中にも整形外科の診療を受けに行きたいとは思っている。午後は退職者会の記念誌の編集作業を再開したい。そして夜はオンラインでの講座の予定となっている。

 本日の眼科での診療で、眼圧は数か月前と変わらないといわれた。しかし視野が少し欠けているとのことを言われた。年明けの中旬頃に再度来診をするように言われて、終了。

 本日の飲み会の中で、年賀状の準備の状況が語られた。私はパソコンの異常とクラッシュ、そして新規購入と設定作業に追われて、年賀状の準備はまったくできていなかった。例年ならばチケットショップで3円ほど安く年賀ハガキを購入している時期である。しかしまだその気分ではない。


病院のはしご

2020年12月21日 13時42分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 朝食抜きで、いつもの内科の診療。採血と採尿、そして処方箋を書いてもらい、5週間分の薬を薬局でもらってきた。薬局が混んでいた。診察代と薬代で5000円余。これも厳しい。

 午後からは眼科。そして夜は講演会。講演会はいつもは250人ほどが集まるが、今年は参加者を100人未満に抑えての開催。会場を貸してくれるスタッフが参加者のマスク装着を確認のうえ、検温をし、手指の消毒を促してくれる。関所が設けられたようなもの。
 終了後の食事・飲み会も数人で寂しいが、致し方ない。

 夜に講演会があるために、本日の木星と土星の最接近の状態を見ることができない。見ても一つの星にしか見えない視力なのが寂しい。

 いかなくてはいけない病院はもうひとつある。整形外科であるが、一日に3病院というのはつらい。明日にでも行くことにした。
 自分がこんなに病院をはしごしなくてはいけないようになるとは50歳前には考えもしなかった。


「コザ暴動」と私

2020年12月21日 10時23分45秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昨日1970年の「コザ暴動」について記した。書き漏らしたことを書いてみる。この「暴動」が報道された直後、私は二つのことを思った。50年前の19歳のころのことだから当時は整理できてはいなかったが、決して50年後の脚本ではない。

 まず中学生のころ、今の横浜の港の見える丘公園から本牧のほうにかけては、米軍の接収地で、「日本人立入禁止」という大きな白い看板が道路を遮断していた。その向こうには米軍の将校や軍属の住宅が並んでいた。いずれの住宅地も一区画200坪以上もあり、きれいに刈り上げた芝生の中に白くて広い日当たりのいい木造の住宅が建っていた。日本そのものを拒否しているように思えた。さらに大きな乗用車が敷地に並び、街を歩くときにはいかにも「植民地支配者」然として山手や関内・元町あたりを闊歩していた。
 中学生のころはあまり考えなかったが、クラブの行事で港の見える丘公園に行くたびに、その光景を見て、十代後半の高校生のころには次第に違和感を持つようになった。
 横浜では、沖縄や横須賀とは違い、ベトナム戦争の最前線に投入される兵隊が荒れて騒ぐ、という光景はあまり見られなかったが、彼らの日本人を見下す目と冷やかす仕草はとても気になった。しかし最前線に投入される兵隊も、米国内では貧者であり、黒人であり、移民であり、抑圧された階層出身であった。

 当時から言われていたのは、「コザ暴動」が基地経済に最も依存した地域で起きたことに対する驚きであった。だがベトナムの最前線に送られ、送られようとしている若い兵士の恐怖に基づく理不尽な振る舞いや暴力に、最も直面していたのは、あのコザに住む人々であった。それは沖縄「返還」後の週刊誌でようやく知った。その実態に迫ろうとする報道は事件勃発時にほとんど目につかなかった。

 次の感想は、私の通ったミッションスクールの内実であった。修道士会から派遣されるブラザーの、日本人を睥睨する視線、あるいは一旗揚げる方便として来日したブラザーのいい加減な英語教育なども目についた。一旗組は教育など興味はなく、あわよくば金のなる仕事を見つけ、金儲けをもくろんでいた。一見立派なことを言ってもアメリカの公民権運動には「黒人は臭くて傍によりたくない」「黒人は嘘つき」と言うブラザーがいた。聖書の中身との乖離はひどかった。私達日本人も結局同じように見られているのだと悟った。
 むろん柔和で教育者として尊敬すべきブラザーもいたが、少数派だったと思う。初代校長のブラザーは酒酔い運転で日本人をひき殺して日本を去り、二代目校長のブラザーはのちに、横浜美術館購入の絵画の選定の委員となり、その贈収賄疑惑で日本から逃げるように脱出(一節では愛人と逃避)した。彼らににじり寄って日本人教員に君臨しようとした下種な日本人教員も少なくなかった。

 コザ暴動の報道を聞きながら、「戦勝国」からやってきた力あるものにすり寄る教員の卑しい心性を見続けてきた6年間を思い出した。同時に、そのような醜い心性とは別に教員として魅力ある指導をしてくれる教員の存在はとても印象深かった。彼らからは「人に媚びない」「自分の頭で考える」ことをずいぶんと教わった。
 1980年代になってブラザーも含めた労働組合ができて、理事会・管理者側と対立したとき、そのほとんどの組合員は、私の6年間の印象が立派だと思った教員だった。
 コザ暴動は、理不尽な力で人を支配しようとする社会への抵抗というものは、いわゆる活動家や政治運動は別のところで炎が燃え広がることを教えてくれた。この噴火するマグマに届かないような政治も反体制運動も、無意味・無効なんだということを教えてくれたと思う。
 実は、私も学生運動の渦中にいて、1年半後の1972年にこのような事態に遭遇した。学費闘争がこじれ、学生のバリケード封鎖が警察と教官により解除されたとき、試験ボイコットの先頭に立ったのはいわゆる「活動家」ではなく、それこそ「一般学生」であった。私たちはボイコットを呼びかけたが、あれほどまでに広範な賛同と創意工夫のある抵抗は想定もできなかった。結局は7割にも及ぶ大量留年者を出したが、卒業者が数年も半分に激減する事態を招き、大学側の「社会的信用」は地に落ち、東北の経済界からの反発も強かった。力で人を圧殺することの無効性を大学側が証明したに過ぎなかった。

 私が、何らかの社会運動にかかわりたいと思ったきっかけの「コザ暴動」であった。私の人生に大きなインパクトを与えたと今でも思っている。

 私は70歳目前の今も、10代のころの自分と常に対話しながら現代を生きている。70代になっても10代の頃の自分と対話し続ける自分でありたいと思う。