昨日1970年の「コザ暴動」について記した。書き漏らしたことを書いてみる。この「暴動」が報道された直後、私は二つのことを思った。50年前の19歳のころのことだから当時は整理できてはいなかったが、決して50年後の脚本ではない。
まず中学生のころ、今の横浜の港の見える丘公園から本牧のほうにかけては、米軍の接収地で、「日本人立入禁止」という大きな白い看板が道路を遮断していた。その向こうには米軍の将校や軍属の住宅が並んでいた。いずれの住宅地も一区画200坪以上もあり、きれいに刈り上げた芝生の中に白くて広い日当たりのいい木造の住宅が建っていた。日本そのものを拒否しているように思えた。さらに大きな乗用車が敷地に並び、街を歩くときにはいかにも「植民地支配者」然として山手や関内・元町あたりを闊歩していた。
中学生のころはあまり考えなかったが、クラブの行事で港の見える丘公園に行くたびに、その光景を見て、十代後半の高校生のころには次第に違和感を持つようになった。
横浜では、沖縄や横須賀とは違い、ベトナム戦争の最前線に投入される兵隊が荒れて騒ぐ、という光景はあまり見られなかったが、彼らの日本人を見下す目と冷やかす仕草はとても気になった。しかし最前線に投入される兵隊も、米国内では貧者であり、黒人であり、移民であり、抑圧された階層出身であった。
当時から言われていたのは、「コザ暴動」が基地経済に最も依存した地域で起きたことに対する驚きであった。だがベトナムの最前線に送られ、送られようとしている若い兵士の恐怖に基づく理不尽な振る舞いや暴力に、最も直面していたのは、あのコザに住む人々であった。それは沖縄「返還」後の週刊誌でようやく知った。その実態に迫ろうとする報道は事件勃発時にほとんど目につかなかった。
次の感想は、私の通ったミッションスクールの内実であった。修道士会から派遣されるブラザーの、日本人を睥睨する視線、あるいは一旗揚げる方便として来日したブラザーのいい加減な英語教育なども目についた。一旗組は教育など興味はなく、あわよくば金のなる仕事を見つけ、金儲けをもくろんでいた。一見立派なことを言ってもアメリカの公民権運動には「黒人は臭くて傍によりたくない」「黒人は嘘つき」と言うブラザーがいた。聖書の中身との乖離はひどかった。私達日本人も結局同じように見られているのだと悟った。
むろん柔和で教育者として尊敬すべきブラザーもいたが、少数派だったと思う。初代校長のブラザーは酒酔い運転で日本人をひき殺して日本を去り、二代目校長のブラザーはのちに、横浜美術館購入の絵画の選定の委員となり、その贈収賄疑惑で日本から逃げるように脱出(一節では愛人と逃避)した。彼らににじり寄って日本人教員に君臨しようとした下種な日本人教員も少なくなかった。
コザ暴動の報道を聞きながら、「戦勝国」からやってきた力あるものにすり寄る教員の卑しい心性を見続けてきた6年間を思い出した。同時に、そのような醜い心性とは別に教員として魅力ある指導をしてくれる教員の存在はとても印象深かった。彼らからは「人に媚びない」「自分の頭で考える」ことをずいぶんと教わった。
1980年代になってブラザーも含めた労働組合ができて、理事会・管理者側と対立したとき、そのほとんどの組合員は、私の6年間の印象が立派だと思った教員だった。
コザ暴動は、理不尽な力で人を支配しようとする社会への抵抗というものは、いわゆる活動家や政治運動は別のところで炎が燃え広がることを教えてくれた。この噴火するマグマに届かないような政治も反体制運動も、無意味・無効なんだということを教えてくれたと思う。
実は、私も学生運動の渦中にいて、1年半後の1972年にこのような事態に遭遇した。学費闘争がこじれ、学生のバリケード封鎖が警察と教官により解除されたとき、試験ボイコットの先頭に立ったのはいわゆる「活動家」ではなく、それこそ「一般学生」であった。私たちはボイコットを呼びかけたが、あれほどまでに広範な賛同と創意工夫のある抵抗は想定もできなかった。結局は7割にも及ぶ大量留年者を出したが、卒業者が数年も半分に激減する事態を招き、大学側の「社会的信用」は地に落ち、東北の経済界からの反発も強かった。力で人を圧殺することの無効性を大学側が証明したに過ぎなかった。
私が、何らかの社会運動にかかわりたいと思ったきっかけの「コザ暴動」であった。私の人生に大きなインパクトを与えたと今でも思っている。
私は70歳目前の今も、10代のころの自分と常に対話しながら現代を生きている。70代になっても10代の頃の自分と対話し続ける自分でありたいと思う。