Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書4月号」から  その2

2021年03月30日 21時26分41秒 | 読書

 本日の昼間に読んだのは、次の記事。

・去勢派とバフチン           亀山郁夫

・数と図形のまえづけ          時枝 正

・自滅する民主主義           長谷川櫂
「照井翠が高校教師として赴任していた釜石市も大津波に襲われた。翌年に出した句集「竜宮」から。
★御くるみのレースを剥げば泥の花
★春の星こんなに人が死んだのか
★ひとりまたひとり加はる卒業歌
★虹の骨泥の中より拾ひけり
 自分の心を空っぽにして、Gb5.はずのない死者の声を聞き取る。照井の俳句の姿勢がこの奇襲で定まったようだ。
 昨年暮れも押し詰まったころ、新しい句集「泥天使」が届いた。
★三・一一死者に添ひ伏す泥天使
★春の泥抱起(だきおこ)すたび違ふ顔
★屍より管伸びきたる浮葉かな
★あなたから成るしら露もこの霧も
★死の風の吹く日も麦の熟れゆけり
 「竜宮」ではかろうじて人の姿をしていた死が、「泥天使」では露となりきりとなって今や世界中に遍在している。これが照井の十年だったのだろう。」

「奴隷、戦争、公害、原発‥。では除外リストを決めるのはだれか。西洋風にいえば人間の理性、東洋風にいえば天地の道理。その道理を通すのが政治である。はたして政治は道理をとおしているか。新型コロナウイルスと闘うのではなく共生を-―。去年の春「コロナとの共存」がいわれはじめたとき、これからはコロナウイルスの存在を前提として人類の生活や文化を変えてゆくのだと多くの人は思ったはずである。ところが政府のとった方針は既存の経済を回しながらコロナ対策をとるという「既存経済との共生むだった。それさえいつの間にか「経済優先」にすり替えられ、「go to travel」「go to eat」という見当違いな政策が打ち出された。‥政府にとってコロナ問題は最初から経済問題だったのだ。ここでも政治は道理を通さなかった。」

 全16編の内、今月は10編を読んだ。

 


本日見つけた花

2021年03月30日 19時50分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午後からは曇りが厚く空を覆い、風も強め。温かさは感じなかった。団地の中で一重のヤマブキが黄色の光を発していた。私の家のすぐ近くなのに、蕾にもまったく気が付かなかった。昨日咲いていたかの記憶もない。
 しかしヤマブキの黄色は周りをとても明るくする。一重の花のほうが明るい。八重の花のほうが、光を吸収するのではないかと昔から思っていた。八重の花は少し縮れてしかもギザギザしている。それが光を吸収しているように思わせる。
 ヤマブキは一重の風情と、八重の風情は大きく異なる。別の花のように小さいころは思っていた。



 そしてウォーキングののち、最寄りの私鉄の駅のそばの緑道にあるヤエザクラが開花しているのに気が付いた。
 例年はヤエザクラは4月末の連休の一週間くらい前に咲き始め、連休に入るころが満開であったと思う。4月の末、連休の半ばくらいまでにはヤエザクラも散ってしまう運命にあった。今年は少なくとも3週間は早いと思う。
 現役のころは、職場の敷地にヤエザクラが2本あり、連休前の暖かい日の昼休み、その下で小さな椅子に腰かけてコンビニで購入したおにぎりを食べながら、ヤエザクラの花びらを見に浴びていたことを思い出す。
 ヤエザクラは一重の桜と違って、時々風もないのに、花弁ではなく、花の房ごと落ちてきて、頭に当たるのが面白かった。


「図書4月号」から  その1

2021年03月30日 13時44分55秒 | 読書

 晴れてはいるが、昨日よりも雲が多い。

 午前中は「図書4月号」を読む。本日読んだ記事は7本。いつものように覚書として。
・[表紙] ビルマの竪琴       司 修
「ピストルの発射音がしました。電話ボックスの外の、緑色の景色は一変して、錆びた鉄の棒がねじ曲げられ、同じく錆びた鉄条網の塊がいくつも転がっていました。エンデの「モモ」を読んだのずいぶん昔なので、「時間泥棒」という言葉だけが、腕時計の針をなくしてしまったのだろうと思いました。一時も休まず土岐は進んで新しい世界を作ってい行くのに、積み重ねられた時間に圧縮された「欲望」も進まずにいられないのだなと思うのでした。ずっとミャンマーの国軍によるクーデターが気になっていた‥。」

・こころの癒しと時間       河合俊雄
「多くの児童文学では、「モモ」での時間の根源の現れが、過去の出来事や人物との出会いとして描かれている。‥過去の人物との出会いが主人公のこころの成長や癒しにつながると同時に、能と同じようにそれが過去の人物の救済でもあるのか興味深く、癒しは相互的なのである。」

・『悪い政治家』と『正しい政治』 カール・バルトの深読みから   宮田光雄
「政府の日本学術会議の任命問題に抗議して、ニーメラーの有名な「詩」の一節が引かれている。‥。普遍的な価値と原理に立つことによってこそ開かれる認識、それにもとづいて可能となる不法への抗議行動に「遅すぎたといわないために」連帯していくということである。」

・一四〇年のカルテ                      松下正明
「斎藤正彦(「都立松沢病院の挑戦 人生100年時代の精神医療」を出版)さんは、二〇年ぶりに院長として戻ってきた二〇一二年、病院が旧態依然であることに唖然とし、その現状には、患者の苦しみに対する共感の欠如、病院全体のホスピタリティの欠如、精神科医の社会性の低さ、組織凝集性の欠如、経営意識の欠如という五つの違和感を覚えたという。長い歴史の中で中で築かれてきた松沢病院の基本理念「自由解放主義」「無拘束主義」の達成のためには患者を受け入れる社会の側にも、不寛容から寛容に向けて大きく変わってほしいという強い願いがある。‥松沢病院が、二〇一九年、創立一四〇年を迎えた。‥カルテの整理は、単に過去の遺物をまとめることだけではなく、後世の人が、精神医療、精神医学における種々の問題意識をもってカルテから多くのことを学ぶことを目的としている。」

・面と向かわない力           白石正明
「どこかから自分をさいなむ声がやってくる。でもそれを上回る圧倒的な量の自分を応援する声がまたどこからか聞こえてきて、思わず身を任せてしまう。そんな体ごと巻き込まれるような受動的な体験が、人を救うこともあるだろう。」

・それでも私は瞑想する         高橋三千綱

・かざりの働き             橋本麻里
「「かざり」を感知し、コントロールできるのは、視覚に関わる領域だけではない。嗅覚、聴覚、触覚、味覚という感覚に触れるものすべて、あるいはそのバリエーションとして、温度なども含まれるかもしれない。時間の過ぎ方、空間の感じさせ方でも、できることがあるだろう。いったい「かざり」とは何のためのもので、どんな機能をもつのか。‥今の時点での仮の結論は、「この世ならざる聖性を招き寄せること」というものだ。‥いずれにしても、日常を律する道理や合理性と相反するベクトルを帯びることに変わりはない。‥日常の道理をいくらトレースしてもねそこに聖なるものが顕現するための「裂け目」は生じない。一時的、仮説的で、過剰であるものの存在こそが、この世界の枠組みにつかの間の亀裂を生じさせ、聖なるものが不気味な貌を覗かせる。人間は造形史の始まりから、その相貌に魅了され続けてきた。あるいは「簡素」が最後まで人為に留まろうとするもの、その極限をみようとするものであるなら、「かざり」は人為を梃子に、聖なるものを迎え入れようとする働きだともいえるかもしれない。」