晴れてはいるが、昨日よりも雲が多い。
午前中は「図書4月号」を読む。本日読んだ記事は7本。いつものように覚書として。
・[表紙] ビルマの竪琴 司 修
「ピストルの発射音がしました。電話ボックスの外の、緑色の景色は一変して、錆びた鉄の棒がねじ曲げられ、同じく錆びた鉄条網の塊がいくつも転がっていました。エンデの「モモ」を読んだのずいぶん昔なので、「時間泥棒」という言葉だけが、腕時計の針をなくしてしまったのだろうと思いました。一時も休まず土岐は進んで新しい世界を作ってい行くのに、積み重ねられた時間に圧縮された「欲望」も進まずにいられないのだなと思うのでした。ずっとミャンマーの国軍によるクーデターが気になっていた‥。」
・こころの癒しと時間 河合俊雄
「多くの児童文学では、「モモ」での時間の根源の現れが、過去の出来事や人物との出会いとして描かれている。‥過去の人物との出会いが主人公のこころの成長や癒しにつながると同時に、能と同じようにそれが過去の人物の救済でもあるのか興味深く、癒しは相互的なのである。」
・『悪い政治家』と『正しい政治』 カール・バルトの深読みから 宮田光雄
「政府の日本学術会議の任命問題に抗議して、ニーメラーの有名な「詩」の一節が引かれている。‥。普遍的な価値と原理に立つことによってこそ開かれる認識、それにもとづいて可能となる不法への抗議行動に「遅すぎたといわないために」連帯していくということである。」
・一四〇年のカルテ 松下正明
「斎藤正彦(「都立松沢病院の挑戦 人生100年時代の精神医療」を出版)さんは、二〇年ぶりに院長として戻ってきた二〇一二年、病院が旧態依然であることに唖然とし、その現状には、患者の苦しみに対する共感の欠如、病院全体のホスピタリティの欠如、精神科医の社会性の低さ、組織凝集性の欠如、経営意識の欠如という五つの違和感を覚えたという。長い歴史の中で中で築かれてきた松沢病院の基本理念「自由解放主義」「無拘束主義」の達成のためには患者を受け入れる社会の側にも、不寛容から寛容に向けて大きく変わってほしいという強い願いがある。‥松沢病院が、二〇一九年、創立一四〇年を迎えた。‥カルテの整理は、単に過去の遺物をまとめることだけではなく、後世の人が、精神医療、精神医学における種々の問題意識をもってカルテから多くのことを学ぶことを目的としている。」
・面と向かわない力 白石正明
「どこかから自分をさいなむ声がやってくる。でもそれを上回る圧倒的な量の自分を応援する声がまたどこからか聞こえてきて、思わず身を任せてしまう。そんな体ごと巻き込まれるような受動的な体験が、人を救うこともあるだろう。」
・それでも私は瞑想する 高橋三千綱
・かざりの働き 橋本麻里
「「かざり」を感知し、コントロールできるのは、視覚に関わる領域だけではない。嗅覚、聴覚、触覚、味覚という感覚に触れるものすべて、あるいはそのバリエーションとして、温度なども含まれるかもしれない。時間の過ぎ方、空間の感じさせ方でも、できることがあるだろう。いったい「かざり」とは何のためのもので、どんな機能をもつのか。‥今の時点での仮の結論は、「この世ならざる聖性を招き寄せること」というものだ。‥いずれにしても、日常を律する道理や合理性と相反するベクトルを帯びることに変わりはない。‥日常の道理をいくらトレースしてもねそこに聖なるものが顕現するための「裂け目」は生じない。一時的、仮説的で、過剰であるものの存在こそが、この世界の枠組みにつかの間の亀裂を生じさせ、聖なるものが不気味な貌を覗かせる。人間は造形史の始まりから、その相貌に魅了され続けてきた。あるいは「簡素」が最後まで人為に留まろうとするもの、その極限をみようとするものであるなら、「かざり」は人為を梃子に、聖なるものを迎え入れようとする働きだともいえるかもしれない。」