Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

がん検診結果がようやく

2021年03月12日 22時41分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 1月下旬に受けたがん検診の結果がようやく届いた。当初は4週間後に手紙で通知と聴いていたが、6週間目になってもまだ来ないので、他の診療科の受診日に聞いたところ、「6週間後と以前から決まっています」と、けんもほろろに冷たく言われた。
 「本日はもう6週間たってるよ」といったが、何のリアクションもないまま、カウンタ―の奥に行ってしまった。こちらの名前や、がん検診の内容も聞く気がないようだった。これ以上文句をいっても喧嘩になるだけなので、おなかが空いていたこともあり、その日はそのまま帰宅。
 こちらも同じ横浜市の元職員なので(病院職場とはまったく違う職場であったが)、コロナ禍で病院内が切羽詰まっていることは十分想像できる。そのまま引き下がった。
 通常は、私の名前と検査項目を聞いて、進捗状況を見てから、「4週間というのは、伝え方がまずかったかもしれません。申し訳ないが、もう少し待ってください。もうすぐ届きます」とでもいえば済む問題なのだが‥。「困ったちゃん」は公務員に限らず、どこにでもいる。

 そして今週になってようやく結果が送られてきた。丸7週間かかった。

 さて、いろいろな嫌なことは忘れて、結果はどれも異常なし。肺・前立腺・大腸・肝臓・胆嚢・膵臓と調べてもらった。胃の検診を申し込むのを忘れたのでこれは来年は申し込む。
 妻も異常なしということであった。

 


三菱一号館美術館でコンスタブル展

2021年03月12日 20時19分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 実に久しぶりに東京駅で降りて、三菱一号館美術館を訪れた。「テート美術館所蔵 コンスタブル展」を見てきた。
 オランダ絵画の影響があることがわかる作品で、私も昔から好みであった。感想は後日アップしたい。

 東京駅に向かうときは横浜から上野東京ライン。14時半の電車はガラガラで座席には一人おき位に坐っていた。品川駅で人が増え、座席はほぼ埋まった。
 一年以上は三菱一号館美術館に行っていなかったので、恥ずかしながら、地下道を歩いていて迷ってしまった。あわてて地上に出たらまだ八重洲南口のすぐそばであった。
 地上を歩いているうちに少しずつ記憶が戻った。帰りは地下道をそのまま中央改札口まで歩いた。しかし地上を歩いたほうが近道であることもようやく思い出したのは、東京駅の改札口を通ってから。
 17時前に電車に乗らないと混雑すると思って16時45分にホームまでたどり着いたにもかかわらず、ホームは通勤客でいっぱい。新橋・川崎間は立っていても肩が触れ合う状況であった。これでは感染者数も減らないバスだ、と妙に納得した。

 上野の東京都美術館で吉田博展を見に行って以来の久しぶりの美術館。時間指定ではないのがうれしいのだが、訪れていた人は思った以上に多かった。
 館内でも2階の展示室の案内の矢印を見失い、迷いかけた。これでは他の美術館に行こうとして迷ったり、あるいは行っても館内でオロオロしたりするのではないかと不安になった。情けないものである。


東日本大震災から10年 その三

2021年03月12日 12時59分34秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昨日もちょっと触れたことであるが、10年前の議論の中で、津波に備えてオフィスビルや商業施設、マンションなどが避難先としてクローズアップされた。しかし非常階段などが施錠されていて、中に入れないという事態に対してさまざまな議論がおこなわれた。
 結局のところ、強い揺れの場合に非常階段の入口が自動で開錠されるということになったと私は記憶している。しかしその後にどのようにこれが普及しているのかの検討は報道されていないと思う。

 また高層の商業施設の対応も議論されたと思うが、結論については記憶にない。当時の横浜駅周辺のビルの商業施設やオフィスビルの多くは、は軒並みシャッターを閉めて客を締めだしてしまっていた。
 JRも当初は横浜駅の東西の自由通路自体を閉めてしまい、批判を受けて、自由通路は人が入れるようになった、と当日のテレビ報道で伝えていた。大勢の利用者があの広い自由通路に座り込んでいた。
 私の80歳を超えていた親も高島屋から追い出され、バスも動いておらず、1時間かけて歩いて自宅に戻っていた。だいぶ疲れたようである。足は達者であるが、果たして高島屋のこのような対応が適切な対応だったとは到底思えない。
 高層ビルでの避難者の受け入れや、商業施設での対応について、10年経て再度点検なり、指導なり、あるいは店舗の対応の問題点の整理なりが行われなければならないのではないか、いろいろなところで問題提起をしてみたいものである。

 10年という節目は当時の反省がどういかされているか、検証の年にしてもらいたいと思う。