本日の読書は「眼の神殿」を再開し、第3章「「美術」の制度化」の第4節「統合と純化-「日本画」の創出と「絵画」の純化」、並びに第5節「美術という神殿-「美術」をめぐる諸制度と国家の機軸」の冒頭まで。
また本日は定期購読している「星ナビ4月号」が到着。これは毎月妻が読み終わったころに目を通すことにしている。
ベートーヴェンのビアノソナタの第30番と第31番を聴いている。第30番の第3楽章は主題と6つの変奏曲からなっている。主題と第1変奏、第4変奏、第6変奏が気に入っている。第31番は全体としてのまとまり具合が気に入っている。特に第2楽章の前半と後半が別の楽章の様に聴こえ、その対比が心に残る。
第32番はなかなか頭の中に残らない。もう少し時間をかけて聴くことになりそうである。
ベートーウェンという作曲家は、自身の形式・様式の確立と、その確立した形式と様式に安住することなく破壊し、それからの脱却へと自覚的に進んだと思える。そんなことを考えながら聴いている。時として私の音の流れの感覚とは相いれない流れになって戸惑うことも多いが、それもまた楽しい。
様式や形式に則った流れの曲を作ること、ならびにそれに収まり切れない和声や旋律の流れと様式・形式との葛藤は、どの作曲家も必然的に持っていると思う。しかしベートーヴェンはその乖離が大きく、また人一倍自覚的だったのではないか。その自覚がベートーヴェンをベートーヴェンたらしめている。
曲を聴く私が好ましいと思うリズムや旋律・和声の進行と、作曲家のそれとの乖離が、耳からの感覚として実感できれば、その曲を愉しんだことになるのだと思っている。
以上のことは、文章としてはなかなかうまく表現できない。力不足の私である。そのうえ、楽譜で追いながら曲を聴くのも私は好きであるが、楽典を理解しているのではないので、分析ができるほどの能力も私にはない。
私のもっている身体的なリズムの感覚、旋律の好ましい流れとベートーヴェンの音楽との乖離は、ブラームスよりは少しだけ大きい。幾度もベートーヴェンを聴いていると、ふとブラームスの曲に帰りたくなる。そういう感覚をそのまま受け入れてさまざまな音楽家の曲を楽しんでいる。