Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

悪魔の音程「三全音」と「快楽の園」(ボス)

2021年09月02日 20時04分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日読んだ「西洋音楽の正体」の第3章の(4)「音階を教える「グイドの手」」の後半で、ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」の右側、地獄の情景を描いた個所(右パネルの中段下の左側)に言及した個所があった。リュートの右下にうつぶせに押しつぶされている尻と足が見える人間である。尻には楽譜が描かれている。リュートの左下にも楽譜が敷かれている。
  2018年3月に取り上げた「『快楽の園』を読む ヒエロニムス・ボスの図像学」(神原正明、講談社学術文庫)と読み比べてみた。
 神原正明氏の記述では、天球の音楽と官能の音楽という見出しの個所で、天球の音楽は「魂を高める音楽であり」、官能の音楽は「肉欲に関連して、牧神とセイレンの半獣に堕落する音楽」であったと記述している。
 このリュートの下の尻と紙に描かれた楽譜について、神原は「レンヌバーグによれば、15世紀の作曲の規則から考えると誤りとされ、ボスが音符の読み方を知らなかったからだとする。レンヌバーグはボスか知識不足のため失敗してしまった‥」と記述している。

 しかし「西洋音楽の正体」で伊藤友計は「2017年に公開されたこの絵画のドキュメンタリー映画「謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス」の中で、指揮者のレオナルド・ガルシア・アラルコンは、この楽譜内で使用されている音程のいくつかを実際に歌唱してみせ、最後に三全音の音程を歌ったのちに次のようにコメントする。「今の(三全音)が絵の楽譜の音程で、“音楽の悪魔”といわれている。これは使ってはいけない音程なんだ。間違いなくこの部分は音楽家と一緒に描いている」。この「使ってはいけない」とされている音楽の悪魔である三全音が楽器に下敷きにされた人間の臀部に描かれているのだから、この音程がいかに忌み嫌われていたかをこの「快楽の園」は視覚的に雄弁に現している‥。‥いずれにせよ、この三全音が使用を認められていない禁じられた音程であることがこの「快楽の園」という美術作品にも見いだされる。」と記述している。

 私としては、「西洋音楽の正体」の記述を受け止めておきたいと思っている。


半ズボンでは寒かった

2021年09月02日 18時32分15秒 | 読書

 雨が止んでいる。気象庁の雨雲レーダーを見ると、もう一雨あるかもしれないが、そのあと雨雲は切れている。油断は出来ないが、夜には散歩ができるかもしれない。
 本日は特に用事は無かったが、横浜駅まで出かけた。雨、さらに平日の午後ということで、人通りは少なかった。いつもよりも商業ビルに近い喫茶店に入って暫く読書タイム。喫茶店も空いていた。半ズボンで出かけたので寒かった。玄関を出たとたんに涼しいというよりも寒いと感じたが、面倒なので着替えずにそのまま出かけた。横浜駅界隈では半ズボンで歩いている人はおらず、少々恥ずかしかった。家のなかでは半ズボンで十分だが、外ではジーパンのほうが良かった。
 帰りはバスを利用。横浜駅の周囲は弱い雨、家のそばのバス停に降りると雨は止んでいた。雨が上がるのを待っていたのであろう。犬を散歩に連れ出している人がかなり行き交っていた。

   

 「西洋音楽の正体 調と和声の不思議を探る」(伊藤友計)を久しぶりに紐解いた。読みかけの第3章「西洋音楽における半音と三全音 予定調和のための塩と悪魔」を読み終えた。理解度は自信はないが、復習のつもりでそれなりに懐かしく楽しんでもいる。理解度との比例関係はない。夕食後から第4章「調と調性」へ。 


読了「図書9月号」

2021年09月02日 13時16分00秒 | 読書

 昨晩からの雨が続いている。現在は5mm未満の本降りである。気象庁のレーダー画像では50mmを超える雨の区域が迫ってきたが、弱まり、最大20mm程度の雨で済んだ。



 昨晩から読み始めた「図書9月号」、読み終わった。今月は、16編のうち以下の11編に目を
通した。

・[表紙] 夢の言葉の不確かさ    司  修
「人間は毎晩夢を見ているらしいのです。昼の間も星々が天空で輝いているように。柳田国男が史幼年時代に見た日中の星々の輝きは奇跡ですが、私は本当のことだと思っています。人間の睡眠は夢のためにあるといえるかもしれません。‥私の場合、‥記憶にあるのは「面白い夢だったが綺麗に忘れた」です。無意識の底に沈殿しているのでしょうか。」
「「コロナウィルス」はTOKYOオリンピックの形まで変えてしまいましたが、核戦争の影までは消せません。人間にしか消せません。」
 前半は、夢を見ていると思われる記憶もあるものの、目覚めとともに100%きれいに記憶から消えてしまう私にも理解できる。そして夢という不思議なものの領域に触れてみたいというのが私の長年の願望である。余生の間には難しいそう。そのまま死という夢の中に入り込んでみるのも面白いかもしれない。

・咀嚼不能の石           古谷 旬
「2011年9月11日の米中枢同時多発テロ事件後の「対テロ戦争」下、アメリカの法、政治制度が憲法や国際法を逸脱し、「例外状態」に陥った‥。アフガニスタン戦争からの鉄平にともない、‥アメリカは国家間戦争からようやく脱却しつつあるのかもしれない。しかし当面「対テロ戦争」と「例外状態」が完了する見込みはなく、自由デモクラシー腐食の進行も避けえない‥。」

・無駄と遠まわりと、行き当たりばったりと  柳家三三

・時差式               柳 広司
「重要土地利用規制法には、「内閣総理大臣は、審議会の意見を聴かなければならない」とある。が彼らが自分たちに都合の悪い意見などはなから聴く気がないのは昨今の五輪強行開催の経緯からも明らかだ。‥ザル法の弊害は時差式で現れる。早期の廃止が被害をくい止める唯一の方法であろう。」

・身体を介する自己紹介        栗田隆子

・無教会と皇室            赤江達也
 どうしても理解不能な最後の段落。
「戦後日本のプロテスタント・キリスト教思想史は、無教会主義を「キリスト教の良心」とみなし、そのなかに「天皇制」否定する契機を見出そうとしてきたが、そこには強力な前提がある。「天皇制」とキリスト教とは本来的に相容れないはずだ、という信憑である。この信憑は「戦前」を否認しながら、戦後の反省と批判とを駆動してきた。だが、その戦後的な仮定を外してみるとき、日本近代社会とキリスト教の新たな光景が見えてくる。無教会と皇室のつながりは、その“現実”へと突き抜けるための通路なのである。
  特に下線の最後の二つの文章は、幾度か論考そのものを読み返したが、私の独海力では意味そのものがつかめなかった。

・読書の敵たち            大澤 聡

・王子様のいない星(後編)       吉田篤弘

・世代を超えてリレーされる笑顔    真鍋 真

・大泉黒石13 差別と虚無      四方田犬彦
「宇宙の偉大なる無関心という観念にまで到達したとき、『予言』という小説は被差別文学という範疇を平然と飛び越え、‥。宇宙が強いて来る運命に向かい対決を辞さない、人間の実存をめぐる思索へと展開していく。黒石が‥続編を執筆する予定でいたのではなかったかと推測しているが、もしそれが可能であったなら、続『予言』こしは戦後文学における埴谷雄高の『死霊』にも通じる、宇宙虚無論の試みとなり得たかもしれない。」

・「かるみ」という重み        長谷川櫂
「芭蕉はなぜ露骨な古典の引用から面影へ、さらに脱古典へと進んだが。確かに古典は俳句や連句に深みをもたらす。しかしながら、いや、だからこそ古典ほど重苦しく野暮なものはない。脱古典は古典主義者芭蕉にとって自殺行為にほかならなかった。密かに疲れ果てた芭蕉は『炭俵』の刊行を前に終焉の地大坂へ旅立つのである。」
 これはぜひ続きに注目したい。